Chapter 1 of 3

ウェルダアの桜

大きな河かと思うような細長い湖水を小蒸気で縦に渡って行った。古い地質時代にヨーロッパの北の半分を蔽っていた氷河が退いて行って、その跡に出来た砂原の窪みに水の溜ったのがこの湖とこれに連なる沢山の湖水だそうである。水は沈鬱に濁っている。変化の少ない周囲の地形の眺めも、到るところの黒い松林の眺めもいずれも沈鬱である。哲学の生れる国の自然にふさわしいと云った人の言葉を想い出させる。

船が着いてから小さな丘に上って行った。丘の頂には旗亭がある。その前の平地に沢山のテエブルと椅子が並べてあって、それがほとんど空席のないほど遊山の客でいっぱいになっている。テエブルの上には琥珀のように黄色いビイルと黒耀石のように黒いビイルのはいったコップが並んで立っている。どちらを見ても異人ばかりである。それが私には分らない言葉で話している。

高い旗竿から八方に張り渡した縄にはいろいろの旗が並んで風に靡いている。その中に日の丸の旗のあるのが妙に目に立って見えた。

連れの日本人はその連れのドイツ女の青い上着を小脇にかかえて歩いていた。私は自分の重い外套をかかえて黙ってその後をついて行った。

丘を下りて桜の咲き乱れた畑地の中の径をあるいた。柔らかい砂地を踏みしめながらあるいているうちに、かつて経験した事のない不思議な心持になって来た。それは軽く船に酔ったような心持であった。そして鉛のように重いアパシイが全身を蔽うような気がした。美しい花の雲を見ていると眩暈がして軽い吐気をさえ催した。どんよりと吉野紙に包まれたような空の光も、浜辺のような白い砂地のかがやきも、見るもののすべての上に灰色の悲しみが水の滲みるように拡がって行った。

「あなたはどうしてそんなに悲しそうでしょう。」

連れの女はこう云って聞いた。

「何も悲しき事はありません」と答える外はなかった。実際何も悲しい事はなかった。しかしまたすべてのものが悲しかったのも事実である。それは自分が悲しいのでなくてむしろ周囲の世界の悲しみが自分のからだに滲み込んで来るように思われるのであった。

これが郷愁というものだとはその時には気が付かなかった。

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