Chapter 1 of 30

庸三はその後、ふとしたことから踊り場なぞへ入ることになって、クリスマスの仮装舞踏会へも幾度か出たが、ある時のダンス・パアティの幹事から否応なしにサンタクロオスの仮面を被せられて当惑しながら、煙草を吸おうとして面から顎を少し出して、ふとマッチを摺ると、その火が髯の綿毛に移って、めらめらと燃えあがったことがあった。その時も彼は、これからここに敲き出そうとする、心の皺のなかの埃塗れの甘い夢や苦い汁の古滓について、人知れずそのころの真面目くさい道化姿を想い出させられて、苦笑せずにはいられなかったくらい、扮飾され歪曲された――あるいはそれが自身の真実の姿だかも知れない、どっちがどっちだかわからない自身を照れくさく思うのであった。自身が実際首を突っ込んで見て来た自分と、その事件について語ろうとするのは、何もそれが楽しい思い出になるからでもなければ、現在の彼の生活環境に差し響きをもっているわけでもないようだから、そっと抽出しの隅っこの方に押しこめておくことが望ましいのであるが、正直なところそれも何か惜しいような気もするのである。ずっと前に一度、ふと舞踏場で、庸三は彼女と逢って、一回だけトロットを踊ってみた時、「怡しくない?」と彼女は言うのであったが、何の感じもおこらなかった庸三は、そういって彼を劬わっている彼女を羨ましく思った。彼は癒えきってしまった古創の痕に触わられるような、心持ち痛痒いような感じで、すっかり巷の女になりきってしまって、悪くぶくぶくしている彼女の体を引っ張っているのが物憂かった。

今庸三は文字どおり胸のときめくようなある一夜を思い出した。

その時庸三は、海風の通って来る、ある郊外のコッテイジじみたホテルへ仕事をもって行こうとして、ちょうど彼女がいつも宿を取っていた近くの旅館から、最近母を亡くして寂しがっている庸三の不幸な子供達の団欒を賑わせるために、時々遊びに来ていた彼女――梢葉子を誘った。

庸三は松川のマダムとして初めて彼女を見た瞬間から、その幽婉な姿に何か圧倒的なものを仄かに感じていたのではあったが、彼女がそんなに接近して来ようとは夢にも思っていなかった。松川はその時お召ぞっきのぞろりとした扮装をして、古えの絵にあるような美しい風貌の持主であったし、連れて来た女の子も、お伽噺のなかに出て来る王女のように、純白な洋服を着飾らせて、何か気高い様子をしていた。手狭な悒鬱しい彼の六畳の書斎にはとてもそぐわない雰囲気であった。彼らは遠くからわざわざ長い小説の原稿をもって彼を訪ねて来たのであった。それは二年前の陽春の三月ごろで、庸三の庭は、ちょうどこぶしの花の盛りで、陰鬱な書斎の縁先きが匂いやかな白い花の叢から照りかえす陽光に、春らしい明るさを齎せていた。

庸三は部屋の真中にある黒い卓の片隅で、ぺらぺらと原稿紙をめくって行った。原稿は乱暴な字で書きなぐられてあったが、何か荒い情熱が行間に迸っているのを感じた。

「大変な情熱ですね。」

彼は感じたままを呟いて、後で読んでみることを約束した。

「大したブルジョウアだな。」

彼はそのころまだ生きていて、来客にお愛相のよかった妻に話した。作品もどうせブルジョウア・マダムの道楽だくらいに思って、それには持前の無精も手伝い、格にはまらない文章も文字も粗雑なので、ただ飛び飛びにあっちこっち目を通しただけで、通読はしなかったが、家庭に対する叛逆気分だけは明らかに受け取ることができた。彼は多くの他の場合と同じく、この幸福そうな若い夫婦たちのために、躊躇なく作品を否定してしまった。物質と愛に恵まれた夫婦の生活が、その時すでに破産の危機に瀕していようなどとは夢にも思いつかなかった。

翌日松川が返辞をききに来た時、夫人が文学道に踏み出すことは、事によると家庭を破壊することになりはしないかという警告を与えて帰したのだったが、その時大学構内の池の畔で子供と一緒に、原稿の運命を気遣っていた妻の傍へ寄って行った葉子の良人は、彼女の自尊心を傷つけるのを虞れて、用心ぶかく今の成行きを話したものらしかった。

「葉子、お前決して失望してはいけないよ。ただあの原稿が少し奔放すぎるだけなんだよ。文章も今一と錬り錬らなくちゃあ。」

葉子は無論失望はしなかった。そしてその翌日独りで再び庸三の書斎に現われた。

「あれは大急ぎで書きあげましたの。字も書生が二三人で分担して清書したのでございますのよ。いずれ書き直すつもりでおりますのよ。――あれが出ませんと土地の人たちに面目がございませんの。もう立つ前に花々しく新聞に書きたててくれたくらいなものですから。」

夫人は片手を畳について、少し顔を熱らせていた。

庸三夫婦は気もつかずにいたが、彼女はその時妊娠八カ月だった。そして一度小樽市へ引き返して、身軽になってから出直して来るように言っていたが、庸三も仕方なく原稿はそれまで預かることにしたのであった。

その原稿が彼女たちの運命にとって、いかに重大な役目を持ったものであるかが、その秋破産した良人や子供たちとともに上京して、田端に世帯をもつことになった葉子の話で、だんだん明瞭になったわけだったが、そっちこっちの人の手を巡って、とにかくそれがある程度の訂正を経て、世のなかへ送り出されることになったのは、それからよほど後のことであった。ある時は庸三と、庸三がつれて行って紹介した流行作家のC氏と二人で、映画会社のスタジオを訪問したり、ある時はまた震災後の山の手で、芸術家のクラブのようになっていた、そのころの尖端的な唯一のカフエへ紹介されて、集まって来る文学者や画家のあいだに、客分格の女給見習いとして、夜ごと姿を現わしたりしていたものだったが、彼女はとっくに裸になってしまって、いつも妹の派手なお召の一張羅で押し通していた。ぐたぐたした派手なそのお召姿が、時々彼の書斎に現われた。彼女夫婦の没落の過程、最近死んだ父の愛娘であった彼女の花々しかった結婚式、かつての恋なかであり、その時の媒介者であった彼女の従兄の代議士と母と新郎の松川と一緒に、初めて落ち着いた松川の家庭が、思いのほか見すぼらしいもので、押入を開けると、そこには隣家の灯影が差していたこと、行くとすぐ、そっくり東京のデパアトで誂えた支度が、葉子も納得のうえで質屋へ搬ばれてしまったこと、やっと一つ整理がついたと思うと、後からまた別口の負債が出て来たりして、二日がかりで町を騒がせたその結婚が、初めから不幸だったことなどが、来るたびに彼女の口から話された。美貌で才気もある葉子が、どうして小樽くんだりまで行って、そんな家庭に納まらなければならなかったか。もちろん彼女が郷里で評判のよかった帝大出の秀才松川の、町へ来た時の演説と風貌に魅惑を感じたということもあったであろうが、父が望んでいたような縁につけなかったのは、多分女学生時代の彼女のロオマンスが祟りを成していたものであろうことは、ずっと後になってから、迂闊の庸三にもやっと頷けた。

「私たちを送って来た従兄は、一週間も小樽に遊んでいましたの。自棄になって毎日芸者を呼んで酒浸しになっていましたの。」

彼女は涙をこぼした。

「このごろの私には、いっそ芸者にでもなった方がいいと思われてなりませんの。」

戦争景気の潮がやや退き加減の、震災の痛手に悩んでいた復興途上の東京ではあったが、まだそのころはそんなに不安の空気が漂ってはいなかった。

多勢の子供に取りまかれながら、じみな家庭生活に閉じ籠もっていた庸三は、自分の畑ではどうにもならないことも解っていたし、こうした派手々々しい、若い女性のたびたびの訪問に、二人きりの話の持ちきれないことや、襖一重の茶の間にいる妻の加世子にもきまりの悪いような気がするので、少し金まわりの好い文壇の花形を訪問してみてはどうかと、葉子に勧めたこともあった。葉子もそれを悦んだ。そしてだんだん渡りをつけて行ったが、それかと言って、何のこだわりもなく社交界を泳ぎまわるというほどでもなかった。

「……それにこれと思うような人は、みんな奥さん持ちですわ。」

そこで彼女は異性を択ぶのに、便利な立場にある花柳界の女たちを羨ましく思ったわけだったが、彼によって紹介された山の手のカフエへ現われるようになってから、彼女の気分もいくらか晴々して来た。

持越しの長篇が、松川の同窓であった、ある大新聞の経済記者などの手によって、文章を修正され、一二の出版書肆へまわされた果てに、庸三のところへ出入りしている、若い劇作家であり、出版屋であった一色によって本になったのも、ちょうどそのころであった。ある晩偶然に一色と葉子が彼の書斎で、初めて顔を合わした。一色はにわかに妻を失って途方にくれている庸三のところへ、葬儀の費用として、大枚の札束を懐ろにして来て、「どうぞこれをおつかいなすって」と事もなげな調子で、そっと襖の蔭で手渡しするようなふうの男だったので、たちどころに数十万円の資産を亡くしてしまったくらいなので、庸三がどうかと思いながら葉子の原稿の話をすると、言い出した彼が危ぶんでいるにもかかわらず、二つ返辞で即座に引き受けたものだった。

「拝見したうえ何とかしましょう。さっそく原稿をよこして下さい。」

ちょうど卓を囲んで、庸三夫婦と一色と葉子とが、顔を突きあわせている時であったが、間もなく一色と葉子が一緒に暇を告げた。

「あの二人はどうかなりそうだね。」

「かも知れませんね。」

後で庸三はそんな気がして、加世子と話したのであったが、そのころ葉子はすでに良人や子供と別れ田端の家を引き払って、牛込で素人家の二階に間借りすることになっていた。美容術を教わりに来ていた彼女の妹も、彼女たちの兄が学生時代に世話になっていたというその家に同棲していた。葉子は一色の来ない時々、相変らずそこからカフエに通っているものらしかったが、それが一色の気に入らず、どうかすると妹が彼女を迎いに行ったりしたものだが、浮気な彼女の目には、いつもそこに集まって陽気に燥いでいる芸術家仲間の雰囲気も、棄てがたいものであった。

庸三は耳にするばかりで、彼女のいるあいだ一度もそのカフエを訪ねたことがなかった。それに連中の間を泳ぎまわっている葉子の噂もあまり香ばしいものではなかった。

加世子の訃音を受け取った葉子が、半年の余も閉じ籠もっていた海岸の家を出て、東京へ出て来たのは、加世子の葬式がすんで間もないほどのことであった。

加世子はその一月の二日に脳溢血で斃れたのだったが、その前の年の秋に、一度、健康そうに肥った葉子が久しぶりにひょっこり姿を現わした。彼女は一色とそうした恋愛関係をつづけている間に、彼を振り切って、とかく多くの若い女性の憧れの的であった、画家の山路草葉のもとに走った。そして一緒に美しい海のほとりにある葉子の故郷の家を訪れてから、東京の郊外にある草葉の新らしい住宅で、たちまち結婚生活に入ったのだった。この結婚は、好感にしろ悪感にしろ、とにかく今まで彼女の容姿に魅惑を感じていた人たちにも、微笑ましく頷けることだったに違いなかった。

葉子は江戸ッ児肌の一色をも好いていたのだったが、芸術と名声に特殊の魅力を感じていた文学少女型の彼女のことなので、到頭出版されることになった処女作の装釘を頼んだのが機縁で、その作品に共鳴した山路の手紙を受け取ると、たちどころに吸いつけられてしまった。これこそ自分がかねがね捜していた相手だという気がした。そしてそうなると、我慢性のない娘が好きな人形を見つけたように、それを手にしないと承知できなかった。自分のような女性だったら、十分彼を怡しませるに違いないという、自身の美貌への幻影が常に彼女の浮気心を煽りたてた。

ある夜も葉子は、山路と一緒に大川畔のある意気造りの家の二階の静かな小間で、夜更けの櫓の音を聴きながら、芸術や恋愛の話に耽っていた。故郷の彼女の家の後ろにも、海へ注ぐ川の流れがあって、水が何となく懐かしかった。葉子は幼少のころ、澄んだその流れの底に、あまり遠く押し流されないように紐で体を岸の杭に結わえつけた祖母の死体を見た時の話をしたりした。年を取っても身だしなみを忘れなかった祖母が、生きるのに物憂くなっていつも死に憧れていた気持をも、彼女一流の神秘めいた詞で話していた。庸三の子供が葉子を形容したように彼女は鳥海山の谿間に生えた一もとの白百合が、どうかしたはずみに、材木か何かのなかに紛れこんで、都会へ持って来られたように、自然の生息そのままの姿態でそれがひとしお都会では幽婉に見えるのだったが、それだけまた葉子は都会離れしているのだった。

山路と二人でそうしている時に、表の方でにわかに自動車の爆音がひびいたと思うと、ややあって誰か上がって来る気勢がして妹の声が廊下から彼女を呼んだ。――葉子はそっと部屋を出た。妹は真蒼になっていた。一色が来て、凄まじい剣幕で、葉子のことを怒っているというのだった。

葉子は困惑した。

「そうお。じゃあ私が行って話をつける。」

「うっかり行けないわ。姉さんが殺されるかも知れないことよ。」

そんな破滅になっても、葉子は一色と別れきりになろうと思っていなかった。たとい山路の家庭へ入るにしても、一色のようなパトロン格の愛人を、見失ってはいけないのであった。

葉子が妹と一緒に宿へ帰って来るのを見ると、部屋の入口で一色がいきなり飛びついて来た。――しばらく二人は離れなかった。やがて二人は差向いになった。一色は色がかわっていた。女から女へと移って行く山路の過去と現在を非難して、涙を流して熱心に彼女を阻止しようとした。葉子も黙ってはいなかった。優しい言葉で宥め慰めると同時に、妻のある一色への不満を訴えた。しゃべりだすと油紙に火がついたように、べらべらと止め度もなく田舎訛の能弁が薄い唇を衝いて迸しるのだった。終いに彼女は哀願した。

「ねえ、わかってくれるでしょう。私貴方を愛しているのよ。私いつでも貴方のものなのよ。でも田舎の人の口というものは、それは煩いものなのよ。私のことはいいにつけ悪いにつけすぐ問題になるのよ。母や兄をよくするためにも、山路さんと結婚しておく必要があるのよ。ほんとに私を愛してくれているのなら、そのくらいのこと許してよ。」

一色は顔負けしてしまった。

ちょうどそのころ、久しぶりで庸三の書斎へ彼女が現れた。彼女は小ざっぱりした銘仙の袷を着て、髪も無造作な引詰めの洋髪であった。

「先生、私、山路と結婚しようと思いますのよ。いけません?」

葉子はいつにない引き締まった表情で、彼の顔色を窺った。

「山路君とね。」

庸三は少し難色を浮かべた。淡い嫉妬に似た感情の現われだったことは否めなかった。

「あまり感心しない相手だけれど……。」

「そうでしょうか。でも、もう結婚してしまいましたの。」

「じゃあいいじゃないか。」

「山路が先生にお逢いしたいと言っておりますのよ。」

「一緒に来たんですか。」

「万藤の喫茶店におりますの。もしよかったら先生もお茶を召し食りに、お出でになって下さいません?」

庸三は日和下駄を突っかけて門を出たが、祝福の意味で二人を劇場近くにある鳥料理へ案内した。しかし二人の結婚が決裂するのに三月とはかからなかった。庸三はその夏築地小劇場で二人に出逢った。額に前髪のかぶさった彼女の顔も窶れていたし、無造作な浴衣の着流しでもあったので、すぐには気がつかなかった。しかし廊下で彼に微笑みかけるようにしている彼女の顔が、何か際どく目に立たない嬌羞を帯びていて、どこかで見たことのある人のように思えてならなかった。――やがて三人でお茶を呑むことになったのだったが、葉子のこのごろが、生活と愛に痛めつけられているものだということは、想像できなくはなかった。

ある日庸三が、鎌倉の友人を訪問して来ると、その留守に珍らしく葉子がやって来たことを知った。

「何ですか大変困っているようでしたよ。山路さんとのなかが巧く行かないような口振りでしたよ。ぜひ逢ってお話ししたいと言って……。後でもう一度来るといっていましたから、来たらよく聴いておあげなさいよ。」

加世子は言っていたが、しかしそれきりだった。

庸三はその後一二度田舎から感傷的な彼女の手紙も受け取ったが、忘れるともなしにいつか忘れた時分にひょっこり彼女がやって来た。

葉子は潮風に色もやや赭くなって、大々しく肥っていた。彼女は最近二人の男から結婚の申込みを受けていることを告げて、その人たちの生活や人柄について、詳しく説明した後、そうした相手のどっちか一人を択んで田舎に落ち着いたものか、もう一度上京して創作生活に入ったものかと彼に判断を求めた。

「あんたのような人は、田舎に落ち着いているに限ると思うな。ふらふら出て来てみたところでどうせいいことはないに決まっているんだから。田舎で結婚なさい。」

瞬間葉子は肩を聳やかせて言い切った。

「いや、私は誰とも結婚なんかしようとは思いません。私はいつも独りでいたいと思っています。」

そういう葉子の言葉には、何か鬱勃とした田舎ものの気概と情熱が籠もっていた。そして話しているうちに何か新たに真実の彼女を発見したようにも思ったが、ちょっと口には出せない慾求も汲めないことはなかった。

彼は後刻近くの彼女の宿を訪ねることを約束して別れたのであったが、晩餐の支度をして待っていた葉子は、彼の来ないのに失望して、間もなく田舎へ帰って行った。

一色と彼女のあいだに、その後も手紙の往復のあったことは無論で、月々一色から小遣の仕送りのあったことも考えられないことではなかった。

加世子の死んだ知らせに接してにわかに上京した葉子は、前にいた宿に落ち着いてから、電話で一色を呼び寄せた。そして二人打ち連れて庸三の家を訪れた。その時から彼女の姿が、しきりに彼の寂しい書斎に現われるようになったのだったが、庸三も親しくしている青年たちと一緒に、散歩の帰りがけにある暮方初めて彼女の部屋を訪れてみた。十畳ばかりのその部屋には、彼の侘しい部屋とは似ても似つかぬ、何か憂鬱な媚めかしさの雰囲気がそこはかとなく漾っていた。

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