Chapter 1 of 41

七月の初め、方図もなく暑い時分の夕方近く、一人の青年が、借家人からまた借りしているS横町の小部屋から通りへ出て、なんとなく思い切り悪そうにのろのろと、K橋の方へ足を向けた。

青年はうまく階段でおかみと出くわさないで済んだ。彼の小部屋は、高い五階建の屋根裏にあって、住まいというよりむしろ戸棚に近かった。女中と賄いつきで彼にこの部屋を貸していた下宿のおかみは、一階下の別のアパートに住んでいたので、通りへ出ようと思うと、たいていいつも階段に向かっていっぱいあけっ放しになっているおかみの台所わきを、いやでも通らなければならなかった。そしてそのつど、青年はそばを通り過ぎながら、一種病的な臆病な気持を感じた。彼は自分でもその気持を恥じて、顔をしかめるのであった。下宿の借金がかさんでいたので、おかみと顔を合わすのがこわかったのである。

もっとも、彼はそれほど臆病で、いじけ切っていたわけでなく、むしろその反対なくらいだった。が、いつのころからか、ヒポコンデリイに類したいら立たしい、張りつめた気分になっていた。すっかり自分というものの中に閉じこもり、すべての人から遠ざかっていたので、下宿のおかみのみならず、いっさい人に会うのを恐れていたのである。彼は貧乏におしひしがれていた。けれども、この逼迫した状態すらも、このごろ彼はあまり苦にしなくなった。その日その日の当面の仕事も全然放擲してしまい、そんな事にかかずらう気にもならなかったのである。彼は正直なところ、どこのどのようなおかみがいかなる事を企てようと、けっして恐れなどしなかった。けれど、階段の上に立ち止まらされて、なんの役にも立たない平凡なごみごみした話や、うるさい払いの督促や、おどかしや、泣き言などを聞かされた上、自分の方でもごまかしたり、あやまったり、嘘をついたりするよりは――猫のように階段をすべりおりて、誰にも見られないように、ちょろりと姿をくらます方がまだしもなのであった。

とはいえ、今度は通りへ出てしまうと、借りのある女に会うのをかくまで恐れているということが、われながらぎょっとするほど彼を驚かした。

『あれだけの事を断行しようと思っているのに、こんなくだらない事でびくつくなんて!』奇妙な微笑を浮かべながら、彼はこう考えた。『ふむ……そうだ……いっさいの事は人間の掌中にあるんだが、ただただ臆病のために万事鼻っ先を素通りさせてしまうんだ……これはもう確かに原理だ……ところで、いったい人間は何を最も恐れてるだろう? 新しい一歩、新しい自分自身のことば、これを何よりも恐れているんだ……だが、おれはあんまりしゃべりすぎる。つまりしゃべりすぎるから、なんにもしないのだ。もっとも、なんにもしないからしゃべるのかもしれない。これはおれが先月ひと月、夜も昼もあの隅っこにごろごろしていて……昔話みたいな事を考えてるうちに、しゃべることを覚えたのだ。それはそうと、なんだっておれは今ほっつき歩いてるんだろう、いったいあれが俺にできるのだろうか? そもそも、あれがまじめな話だろうか? なんの、まじめな話どころか、ただ空想のための空想で、自慰にすぎないのだ。玩具だ! そう、玩具というのが本当らしいな!』

通りは恐ろしい暑さだった。その上、息苦しさ、雑踏、いたるところに行き当たる石灰、建築の足場、煉瓦、埃、別荘を借りる力のないペテルブルグ人の誰でもが知り抜いている特殊な夏の悪臭――これらすべてが一つになって、それでなくてさえ衰え切っている青年の神経を、いよいよ不愉快にゆすぶるのであった。市内のこの界隈に特におびただしい酒場の堪えがたい臭気、祭日でもないのにひっきりなしにぶっつかる酔いどれなどが、こうした情景のいとわしい憂鬱な色彩をいやが上に深めているのであった。深い嫌悪の情が、青年のきゃしゃな顔面をちらとかすめた。ついでに言っておくが、彼は美しい黒い目に栗色の毛をしたすばらしい美男子で、背は中背より高く、ほっそりとして格好がよかった。けれど、彼はすぐに深い瞑想、というよりむしろ一種の自己忘却に堕ちたようなあんばいで、もう周囲のものに気もつかず、また気をつけようともせず先へ先へと歩き出した。どうかすると、今しがた自分で自認した独語の癖が出て、何かしら口の中でぶつぶつ言う。この瞬間、彼は考えが時おりこぐらかって、体が極度に衰弱しているのを自分でも意識した――ほとんどもう二日というもの、全くものを食わなかったのである。

彼はなんともいえない見すぼらしいなりをしていて、ほかの者なら、かなり慣れっこになった人間でも、こんなぼろを着て昼日なか通りへ出るのは、気がさすに相違ないほどである。しかしこの界隈ときたら、服装などで人をびっくりさせるのは、ちょっとむずかしいところだった。乾草広場に近く接している位置の関係、おびただしい木賃宿や長屋の数々、それからとりわけ、ここら中部ペテルブルグの町や横町にごみごみ集まっている職工や労働者などの群れ――こういうものが時々その辺一帯の街上風景に思い切ってひどい風体の人物を織り込むので、変わった姿に出会って驚くのは、かえって変なくらいのものだった。その上青年の心の中には、毒々しい侮蔑の念が激しく鬱積していたので、若々しい――時としてはあまりに若々しい神経質なところがあるにもかかわらず、彼は町中でそのぼろ洋服を恥じようなどとは、てんで考えもしなかった。もっとも、ある種の知人とか、一般に会うのを好まない昔の友人とか、そんなものに出会わすのはおのずから別問題である……とはいえ、たくましい運送馬に引かれた大きな荷馬車に乗った酔漢が、今ごろこの町中をどうして、どこへ運ばれて行くのかわからないが、通りすがりに「やあい、このドイツしゃっぽ!」といきなりどなって、手で彼を指さしながら、のどいっぱいにわめき出したとき――青年はふいに立ち止まり、痙攣したような手つきで自分の帽子を抑えた。それは山の高い、チンメルマン製の丸形帽子だったが、もうくたびれ切ってすっかりにんじん色になり、穴だらけしみだらけで、つばは取れてしまい、その上つぶれた一方の角が、見苦しくも横の方へ突き出ている。しかし、彼を捕えたのは羞恥の情ではなく、全く別な、むしろ驚愕に似た気持だった。

「おれもそんなことだろうと気がついてたんだ!」と彼はどぎまぎしてつぶやいた。「おれもそう思っていたんだ! これが一番いけないんだ。こんな愚にもつかない、ちょいとしたくだらないことが、よく計画をぶちこわすものだ! そうだ、この帽子は目に立ち過ぎる、おかしいから目に立つんだ……おれのこのぼろ服には、どうあっても、たといどんな古いせんべいみたいなやつでも、学生帽でなくちゃいけない、こんなお化けじみたものじゃ駄目だ。こんなのは誰もかぶっちゃいないや。十町先からでも目について、覚えられてしまう……第一いけないのは、後になって思い出されると、それこそ立派な証拠だ。今はできるだけ人目に立たぬようにしなくちゃ……小事、小事が大事だ! こういう小事が、往々万事を打ちこわすのだ……」

道のりはいくらでもなかった。彼は家の門口から何歩あるかということまで知っていた――きっかり七百三十歩。いつだったか空想に熱中していた時、一度それを数えてみたのだ。そのころ彼はまだ自分でも、この空想を信じていなかった。そしてただ醜悪な、とはいえ魅力の強い大胆不敵な妄想で、自分をいらいらさせるばかりだった。それがひと月たった今では、もう別の目で見るようになった。そして、自分の無気力と不決断に対して、あらゆる自嘲の独白をくり返しながら、いつの間にやらその『醜悪』な空想をすでに一つの計画のように考え慣れてしまった、そのくせ相変わらず、自分でも自分を信じていなかったのだが……今も現にその計画の瀬踏みをするために出かけているのだ。で、彼の胸騒ぎは一歩ごとに激しくなっていった。

彼は心臓のしびれるような感じと、神経性の戦慄を覚えながら、一方の壁は溝に、いま一方は××町に面している、恐ろしく大きな家に近づいた。この家はすべて無数の小さなアパートになっていて、あらゆる種類の職人――仕立屋、錠前屋、料理女、さまざまなドイツ人、自分の体で生活している娘、下級官吏などが巣くっている。で、出入りのものが二か所の門の下や、二か所の内庭をうるさいほどゆききするのである。そこには三、四人の庭番が勤めていた。青年はその一人にも出会わなかったので、しごく満足の体で門からすぐ右の階段口へ目立たぬようにすべりこんだ。階段は暗くて狭い『裏梯子』だった。が、彼はもう万事心得て研究しつくしていた。彼はこうした条件がことごとく気に入った――こんな暗闇の中だったら、好奇心の強い人の目さえ危険でない。『今からこんなにびくびくして、もしいよいよ実行という段になったら、いったいどうするのだ?……』四階目へ上りながら、彼はふとそう考えた。ここでは、ある住まいから家具を運び出す兵隊上がりの人夫が、彼の行く手をふさいだ。このアパートには家族持ちのドイツ官吏が住まっていることを、彼は前から知っていた。『ははあ、あのドイツ人引っ越すんだな。すると、四階には、この階段のこの踊り場には、当分、婆さんの住まい一つきゃふさがっていないわけだ……こいつはうまいぞ……万一の場合に』と彼はまた考えて、老婆の住まいの呼鈴を鳴らした。呼鈴は真鍮でなくブリキで造ったもののように、弱々しくがらんと鳴った。こうした家のこうした小さい住まいには、たいていどこでもこういった呼鈴がついている。彼はもうこの呼鈴の音を忘れていたが、今この特殊な響きが、ふいに彼にあることを思い起こさせ、はっきりと暗示を与えたようなぐあいだった……彼は思わずぴくりとなった。おりふし神経が極度に弱くなっていたのである。しばらくしてからドアがごくわずかだけ開かれて、その隙間から女あるじが、さもうさんくさそうに客を見回した。ぎらぎら光る小さな目だけが、闇の中に見える。けれど、踊り場に人が大勢いるのを見ると、彼女は元気づいてドアをいっぱいにあけた。青年は敷居をまたいで、板壁で仕切られた暗い控室へはいった。仕切りの向こうは狭い台所になっている。老婆は無言で彼の前へ突っ立ち、物問いたげに相手を見つめていた。それは意地悪そうな鋭い目と小さいとがった鼻をした、小柄なかさかさした六十格好の老婆で、頭には何もかぶっていなかった。全体に亜麻色をした、白いものの少ない髪には、油をてらてらに塗りこくっている。鶏の足に似た細長い首にはフランネルのぼろがまきつけられ、肩からはこの暑いのに、一面にすり切れて黄色くなった毛皮の上着がだらりと下がっている。老婆はひっきりなしに咳をしたり、喉を鳴らしたりしていた。彼女を見た青年の目に何か特別な表情でもあったのだろう、とつぜん老婆の目にはまた先ほどと同じ猜疑の色がひらめいた。

「ラスコーリニコフですよ、大学生の。ひと月ばかり前に伺ったことのある……」もっと愛想よくしなくてはいけないと思い出したので、青年はちょっと軽く会釈して、こうつぶやいた。

「覚えてますよ、よく覚えてますよ。あなたのみえたことは」と老婆はやはり彼の顔から、例の物問いたげな目を離さないで、はっきりと言った。

「そこでその……また同じような用でね……」ラスコーリニコフは老婆の疑り深さに驚き、いささかうろたえ気味でことばを続けた。

『しかし、この婆あはいつもこんな風なのに、俺はこの前気がつかなかったのかもしれない』と彼は不快な感じをいだきながら心に思った。

老婆は何か考え込んだように、ちょっと黙っていたが、やがて脇の方へ身をひくと、中へ通ずるドアを指さして、客を通らせながらこう言った。

「まあおはいんなさい」

青年の通って行ったあまり大きくない部屋は、黄色い壁紙をはりつめて、窓に幾鉢かのぜにあおいを載せ、紗のカーテンをかけてあったが、おりしも夕日を受けて、かっと明るく照らし出されていた。『その時もきっとこんな風に、日がさしこむに違いない!……』どうしたわけか、思いがけなくこういう考えがラスコーリニコフの頭にひらめいた。彼はすばしこい視線を部屋の中にあるいっさいのものに走らせて、できるだけ家の様子を研究し、記憶しようと努めた。しかし部屋の中には、何もとりたてていうほどのものはなかった。

家具類はひどく古びた黄色い木製品で、ぐっと曲ったもたれのある大きな長椅子と、その前に置かれた楕円形のテーブルと、窓と窓との間の壁に据えられた鏡つきの化粧台と、壁ぎわの椅子数脚と、小鳥を持っているドイツ娘を描いた黄色い額入りの安っぽい絵――これが全部であった。片隅には灯明が一つ大きからぬ聖像の前で燃えている。全体が中々こざっぱりとしてい、家具も、床も、つやの出るほどふきこまれて、何もかもてらてら光っている。『リザヴェータの仕事だな』と青年は考えた。住まい全体どこを見ても、塵っぱ一つ見つからなかった。『因業な年寄り後家の所は、よくこんな風にきれいになってるものだて』とラスコーリニコフは腹の中で考えつづけ、次の小部屋へ通ずる戸口の前にたらしたサラサのカーテンを、好奇の念をいだきながら横目に見やった。そこには老婆の寝台と箪笥が置いてあったが、彼はまだ一度もその中をのぞいたことがなかった。以上二つの部屋が住まいの全部だった。

「で、ご用は?」と老婆は部屋へはいると、いかつい調子で尋ねた。そして、客の顔をまともに見ようとして、さっきのように彼のまんまえに突っ立った。

「質を持ってきたんですよ、これを!」

彼はポケットから古い平ったい銀時計を出した。裏蓋には地球儀が描いてあって、鎖は鉄だった。

「でも、先の口がもう期限ですよ。おとといで一月たったわけだから」

「じゃ、一月分利を入れます。もう少し辛抱してください」

「さあね、辛抱するとも、すぐに流してしまうとも、そりゃこっちの勝手だからね」

「時計の方は奮発してもらえますかね、アリョーナ・イヴァーノヴナ!」

「ろくでもないものばかり持ってくるね、おまえさん、こんなものいくらの値うちもありゃしないよ。この前あんたにゃ指輪に二枚も出してあげたけれど、あれだって宝石屋へ行けば、新しいのが一枚半で買えるんだものね」

「四ルーブリばかり貸してくださいな。受け出しますよ、おやじのだから。じき金が来るはずになってるんです」

「一ルーブリ半、そして利子は天引き。それでよければ」

「一ルーブリ半!」と青年は叫んだ。

「どうともご勝手に」

老婆はそういって、時計を突っ返した。青年はそれを受け取った。彼はすっかり向かっ腹を立てて、そのまま帰ろうとしかけたが、この上どこへ行く当てもなし、それにまだほかの用もあって来たのだと気がつき、すぐに思い返した。

「貸してもらおう!」と彼はぶっきらぼうに言った。

老婆はポケットへ手を突っ込んで鍵を探りながら、カーテンに仕切られた次の間へ行った。青年は部屋の真ん中にひとり取り残されると、好奇の色を浮かべながら聞き耳を立て、あれこれと思いめぐらした。老婆の箪笥をあける音が聞こえた。『きっと上の引出しに相違ない』と彼は考えた。『してみると、鍵は右のポケットにしまってるんだ……みんな一束にして、鉄の輪に通している……あの中に、ほかのどれよりも三倍から大きい、ぎざぎざの歯をしたのが一つあるが、むろんあれは箪笥のじゃない……つまり何かほかの手箱か、長持みたいなものがあるに相違ない……ふん、こいつは面白いぞ。長持にはたいていあんな鍵がついているものだて……だが、これはまあなんというさもしいことだ……』

老婆は引っ返してきた。

「さてと――一か月十カペイカとして、一ルーブリ半で十五カペイカ、ひと月分天引きしますよ。それから前の二ルーブリの口も同じ割で、もう二十カペイカ差し引くと、都合みんなで三十五カペイカ、そこで、今あの時計でおまえさんの手にはいる金は、一ルーブリ十五カペイカになる勘定ですよ。さあ、受け取んなさい」

「へえ! それじゃ今度は一ルーブリ十五カペイカなんですか!」

「ああ、その通りですよ」

青年は争おうともせず、金を受け取った。彼はじっと老婆を見つめながら、まだ何か言う事かする事でもあるように、急いで帰ろうともしなかった。もっとも、その用事がなんであるのか、自分で知らないらしい様子だった。

「事によるとね、アリョーナ・イヴァーノヴナ、近いうちにもう一品もってくるかもしれませんよ……銀の……立派な……巻煙草入れ……今に友だちから取り返してきたら……」

彼はへどもどして、口をつぐんだ。

「まあ、それはまたその時の話にしましょうよ」

「じゃ、さようなら……ときに、おばあさんはいつも一人なんですね、妹さんは留守ですか?」控室へ出ながら、できるだけざっくばらんに、彼はこう尋ねた。

「おまえさん妹に何かご用かね?」

「いや別に何も。ちょっと聞いてみただけですよ。だのにもうお婆さんはすぐ……さよなら、アリョーナ・イヴァーノヴナ!」

ラスコーリニコフはすっかりまごついてしまって、そこを出た。この惑乱した気持はしだいに激しくなっていった。階段をおりながら、彼は突然なにかに打たれたように、いくども立ち止まったほどである。やっと通りへ出てから、彼はとうとう口に出して叫んだ。

『ああ、実に! なんという汚らわしい事だろう! いったい、いったいおれが……いや、これは無意味だ、これは愚にもつかぬことだ!』と彼はきっぱり言い足した。『まあこんな恐ろしい考えが、よくもおれの頭に浮かんだものだ! しかし、おれの心は、何と汚らわしい事を考え出せるようにできていることか! 何よりも第一に――汚らわしい、きたない、ああ、いやだ、いやだ! しかし、おれはまるひと月……』

けれど、彼はことばでも叫びでも、自分の興奮を現わすことができなかった。もう老婆の所へ出かけた時から、そろそろ彼の心を圧迫し溷濁させていた、たとえようもない嫌悪の情が、今はものすごく大きな形に成長して、はっきりその正体を示してきたので、彼は悩ましさに身の置場もないような気がした。彼はまるで酔漢のように、ゆききの人に気もつかず、一人一人にぶつかりながら歩道をたどりたどって、次の通りまで来たとき、ようやくはじめてわれに返った。

彼はあたりを見回して、とある酒場の傍に立っている自分に気がついた。そこへはいって行くには、歩道から石段を下り、地下室へおりるようになっていた。戸口からは、ちょうどこのとき二人の酔漢が出て来て、たがいにもたれ合ってののしり合いながら、通りへ登ってきた。長くも思案しないで、ラスコーリニコフは、そこへおりて行った。これまで一度も酒場へはいったことはなかったけれど、今はめまいがする上に、焼けつくような渇きに悩まされていたので、冷たいビールをあおりたくてたまらなくなった。その上、突然襲ってきた疲労の原因を、空腹のためと解釈したからでもある。彼は暗いきたない片隅のねばねばするテーブルの前に陣取ってビールを命じ、むさぼるように最初の一杯を飲みほした。と、たちまち気持がすっかり落ち着いて考えがはっきりしてきた。『こんなことは何もかも馬鹿げてる』と彼はある希望を感じながらひとりごちた。『気に病むことなんかちっともありゃしない! ただ体の具合がわるくなってるだけなんだ! わずか一杯のビールと、乾パンひと切れで――もうこの通り、たちまち頭は確かになる、意識ははっきりする、意志も強固になる! ちょっ、何もかも実に馬鹿げてるわい!……』が、こうして馬鹿にしたような唾棄の態度をとってはみたものの、彼は何か恐ろしい重荷から解放されたように、急に様子がはればれしてきた。そして、人なつかしげに一座の人々を見回した。しかし彼はこの瞬間でさえ、物事をよい方に取ろうとするこの感受性も、やはり病的なものだということを、かすかに予感していた。

この時酒場にはあまり人がいなかった。階段で出会ったあの二人の酔漢の後ろから、女を一人連れて手風琴を携えた五人組の連中が一時にどやどやと出て行ったので、あとは静かにゆったりとなった。あとに残ったのは――ビールを前に腰かけているほろ酔いの町人体の男と、スペイン風の帽子をかぶり、灰色の顎ひげを生やした大柄な太った連れの男だった。連れの男はひどく酔いが回って、ベンチの上でうとうとしながら、ときどき夢うつつで急に指をぱちりと鳴らし、両手を左右に広げて、ベンチから身を起こそうともせず、上半身ではね上がるような格好をした。それと一緒に、文句を思い出そうとあせりながら、馬鹿げた歌をうたうのである。

まるまる一年、女房を可愛がったよう……

まあるまる一年、女房を可愛がったよう!……

かと思うと、急にまた目をさまして、

ポジャーチェスカヤを歩いていると

もとの馴染に出会った……

けれど、誰一人彼の幸福に共鳴するものはなかった。無口な連れの男は、こうした感興の突発をむしろ敵意ありげなうさんくさい目つきでながめていた。そこにはもう一人、退職官吏らしい男がいた。瓶を前に控えて、ときどきぐっと一口飲んではあたりを見回しながら、一人ぽつねんと座をしめている。彼もどうやら興奮しているようであった。

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