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私が生れたところは滋賀県の五個荘である。当時は南、北五個荘村に分れていたが、今は旭村と共に合併して、五個荘町となっている。
村の西南部には小山脈が連っている。繖山脈と呼ばれている。その一峰に、往昔、近江守護、六角、佐佐木氏の居城のあった観音寺山がある。その山頂にある観音寺は西国第三十三番の札所である。西方の一峰は明神山と呼ばれ、その中腹に古刹、石馬禅寺がある。観音寺山と明神山との狭間の峠を、俗に「地獄越」と呼んでいる。観音寺山城が織田氏の軍に攻略された際、城中の婦女子の逃げ落ちた、阿鼻叫喚のさまを伝えているという。
北東部には遥かに田園の風景が開け、北方には伊吹山、東方へかけて、霊仙山、鈴ヶ岳、竜ヶ岳、釈迦ヶ岳、御在所山等、滋賀、三重両県境の山山が望まれる。
旧北五個荘村の北東部を愛知川が流れている。源を県境の山山に発し、琵琶湖に注いでいる。その上流は風光明媚な渓谷であるが、中流から次第に流れは細り、下流では平時は水はなく、石と砂との河原になっている。また、繖山脈の谷水を集めて、小川が村の中を縦横に流れている。川水は量も少くなく、川底の小石が見える程度に澄んでいる。川添の家は門前に多くは花崗岩の橋を掛けている。
周囲はどこでも見られる平凡な農村の風景であるが、いわゆる近江商人の主な出身地で、村の中には白壁の塀を廻した大きな邸宅も少くない。木立の間から、白壁の格別美しい土蔵も見られる。これらの家の主人は、殆どが大都会に出て、商業に従事してい、妻が子供達と共に留守を守っている。
新村宗左衛門家は代代百姓であったが、新村家の家乗には、元禄十三年、初めて布を商った記録が残っている。同じく十五年には麻苧を仕入れている。正徳三年には名古屋へ行商に行き、享保十一年には江戸に入っている。同年、文庫蔵を建築、元文二年には本宅を改築、更に延享三年には隠居所を新築している。宝暦三年、名古屋では定宿を取り、その商売形式は完全な問屋卸しとなっている。天明六年、霖雨。米、麦、綿等暴騰し、施米している。寛政九年には弟、孝兵衛に新宅を持たせた。
新村孝兵衛家は、寛政九年、宗左衛門家から分家したが、共同で商売をしている。文化十年、独立し、京呉服、木綿の卸商を始めている。文政十一年には上州桐生市に糸質店を構え、天保十二年には江戸堀留町に開店している。同十三年、苗字帯刀を許され、文久二年には彦根藩(五個荘は郡山藩である)へ金千両を調達している。安政三年、江戸店が新大坂町へ移転している。慶応二年には京都店を開き、明治六年には横浜に貿易店を開いている。
私の母は、明治十一年、三代目孝兵衛の長女として生れた。兄弟は五人、母は一人娘である。従って、母は母の父や、祖父の寵愛を受けて育ったという。十八(数え年)の時、母は私の父を婿養子に迎えて、分家した。
私の父は、明治元年、滋賀県の長浜の早川良平の二男に生れた。長浜は縮緬の産地で、早川家も古くから縮緬の地方問屋を営んでいたが、父の父が早世したので、家業を廃した。父は父の祖母に育てられたが、ひどく腕白者であったらしく、小学校でも原級に留められたこともあったという。が、とにかく小学校を終ると、直ぐ新村孝兵衛家へ丁稚奉公に上った。父は新村商店に十数年間勤続し、明治二十八年、母と結婚し、新村姓を名乗った。明治四十年、父は漸く独立を許され、東京新大坂町に開店した。
明治三十五年十二月、私は父、信太郎の三男に生れた。私は七ヵ月の早生児で、祖母の肌に懐かれて、漸く産声を上げたという。それでも私はどうにか肥立って行ったらしいが、色の白い、女の子のような弱弱しい子であったといわれる。しかしその頃の記憶は全くない。
私が数え年の四つか、五つの時のことである。私の朦朧とした記憶の中に、より黒い影のような祖父の姿が浮かんで来る。母に手を引かれて(これは後からの想像であるが)、確かに私は本家の内玄関の土間に立っていた。そこへ奥から祖父が出て来たのである。唯それだけの記憶である。更にその記憶には、祖父の顔ははっきりしない。強いてすれば、その顔の輪郭は描き得ないでもないが、それは後年、祖父の写真や、母の顔や、私自身の顔から類推した、記憶の修飾になろう。記憶の限りでは、祖父らしい者という方が正しいかも知れない。
この私の記憶はかなり信憑性があるように思われる。実際にも本家の内玄関は薄暗い。祖父は奥から逆光線を受けて出て来たものであろう。更に母の話によると、日露の戦捷を祝う草競馬が行われ、本家の桟敷が組まれ、その借用を願いに行った時のことであろうという。すると祖父は既に胃癌に犯されていたはずである。祖父の姿そのものも、俗にいう影が薄かったのではないか。
それはともかく、これが私の脳裡に残っている唯一の祖父の姿である。同時に、私の最も古い記憶のようである。祖父が亡くなったのは明治三十九年五月であるから。
祖父の葬儀の時の記憶もある。雨が降っていて、叔父達が木の枝に照る照る坊主を吊っていたのをはっきり覚えている。しかしこんな他愛ない一駒だけを残して、私の記憶は断ちきられ、その前後には深い昏迷の世界が拡がっているばかりである。
祖父の葬儀の当日、私は白張提灯を持って葬列に加わった由であるが、女中の背中で眠ってしまったという。幼い日のことである。このような時にも眠ってしまって、全く記憶を刻まなかった場合もある。しかしまた、幼い脳裡のことである。記憶は刻まれても、直ぐ忘れてしまったことも極めて多かろう。が、私にとって、私の過去は決して空白ではない。記憶は失われたが、幼いながら、数多い日日が埋もれている。空白ではなく、深深とした闇の感じである。そうしてその闇の中には、形は見えないが、さまざまなものが潜んでいるはずである。時には一瞬、ぼんやりその影を映すかと思うと、忽ち底深く沈んでしまう。
私はお化が恐しかった。鬼も恐しかった。幽霊も、人魂も、死びとも恐しかった。しかしそれ等の恐しいものは、決って暗いところにいたようで、もとより視覚的記憶はない。二丈坊や、ろくろっ首の記憶にしても、仮りにその形を描き得たとしても、それは後年の修飾である。しかし幼年期の、形のない、あの漠然とした恐怖の記憶は、今も朦朧と、しかし確かに残っている。
六つの時、母が大病になった。ある夜、母が私の手を引いて、祖母の夢枕に立ったという。つまりそんな危険な状態がかなりの間続いたらしい。しかし母の大病や、その危機感についての記憶は全くない。その時、私達兄弟は祖母の許に預けられていた由であるが、その記憶もない。しかしその時も、その所も不明であるが、幼年期の、自分一人取り残されたような悲哀の記憶は、今も朦朧と、しかし確かに残っている。
私の家の宗旨は浄土真宗である。黒暗の闇の中に埋もれてしまった、私の幼い日日にも、読経の声は聞えていたはずである。蝋燭の光も揺れていたことであろう。線香の香も漂うていたことであろう。鈴の音もあのきれいな余韻を曳いていたに相違ない。しかし聴覚的な、嗅覚的な、視覚的な、明確な記憶はない。しかしそんな仏教的な雰囲気の記憶は、今も私の脳裡に朦朧と、しかし確かに残っている。
幼年期の、このような覚束ない記憶の中に、今も極めて鮮明な印象を刻んでいる、一つの記憶がある。地獄絵の中にいる女亡者の姿である。
字の中央、観音寺山城の鬼門にあたると伝えられているところに、小堂宇がある。一人の老尼が守っている。春秋の彼岸会に、地獄極楽の絵がその堂内に掛けられる。こんな小堂宇が所蔵しているものであるから、絵画としては勝れたものではなかろう。しかし私は文字通り戦慄した。
赤と黒の、あくどい色彩を背景にして、女亡者達はいずれも半裸体である。肌はまっ白に塗られ、短い、赤い腰巻をしている。奇怪なことに、私はそんな女亡者の姿に、生れて初めて女を感じた。しかも絵の中の形だけの女ではない。母や、若い女中の体との接触によって、いつともなく感じとっていたらしい女を感じた。しかしそれを性と言えば、言い過ぎであるかも知れない。愛と言ってもよい。しかしその愛は肉体から肉体へのみ通じ得るような、極めて幼く、優しいものである。その優しいものが、酸鼻の極限の下に置かれているのである。私は強烈な恐怖に襲われた。
或はその逆であるかも知れない。今の記憶によると、地獄絵の中の女達は皆ひどい内股である。しかしそれはこの記憶が何回となく再生されている中に、自ら修飾されたものであろう。が、その時、女亡者の姿に女らしさを感じたのは事実であろう。極度の恐怖が、私に初めて女の女らしさを感じさせたとすれば、私の体内に潜在している性が、マゾヒズム的刺戟によって、一瞬、発現したのではないか。
以来、突然黒い雲に覆われるように、私は恐しい感情に襲われる。今言えば、絶望に近い感情とも言える。
「悪いことをしませぬように」
朝夕、仏壇の前に坐って、私は合掌するより他はなかった。
七つ、八つになると、私の記憶もよほど形を整えて来る。長兄は六つ、姉は五つ、次兄は三つ私より年上である。兄や、姉が学校へ行ってしまうと、私は私附きの女中の春枝に絵本を読んでもらうか、一人で庭に出て遊んだ。私は口喧しい母の側をあまり好まなかったようである。
庭には梅、桜、桃、椿、山吹、夏蜜柑、紫陽花、柘榴、金木犀、枇杷、山茶花等、四季の花が咲く。私はいつもその季節の落花を拾って遊んだ。しかし東の裏は朽ちた木塀に劃されて、未だ空家が残っていた。父がその屋敷跡を買い求め、花園を造ったのは後年のことである。
また庭には蝶や、蜻蛉や、蝉や、馬追や、蟋蟀等がいる。蟻が長い行列を作っていることもある。小さい蟻が動いているのを見詰めていると、急に無数の蟻がぼやけ、目全体が霞んでしまう。あわてて、目をこすり、瞬くと、蟻は元のままに一匹、一匹列んで、動いていたりもした。しかし梅の木には毒を持った毛むしもいたし、土蔵の大屋根の軒端には、十年蜂が大きな巣を作っていた。
「一がさした」
私は相手に無理に右の手を出させる。
「二がさした」
私は右の手を相手の手の上に重ねる。
「三がさした」
相手が左の手を私の手の上に乗せる。
「五がさした」
相手が一番下にある手を引き抜いて、私の左の手に重ねる。
「八がさしたあ」
私は勢よく左の手を抜き、蜂の真似をして、相手に襲いかかる。相手は春枝の場合が多かっただろう。私はその手の柔かい感触を覚えているようにも思う。が、そう言えば、やはり嘘になろう。以来数十年、この手がそんな幼い時の感触を純粋に残しているはずがない。
私の家の前にも小川が流れている。その川水を屋敷の中に取り入れ、花崗石で長方形に囲って水を溜め、その水は下手の口から川へ流れ出る。俗に川戸と呼んでいる。私はその川戸の石段にしゃがんで、水が緩く動いているのを見ているのが好きだった。
水の上を、あめんぼうが器用に渡って行く。突然、白い腹を翻して跳び上ることもある。表面張力の理を知る由もなかった私は、軽業師のような早業の秘密は、総べてあの細長い脚にある、と思いこんだりもした。黒胡麻のような水すましも隅の方に集って、円を描いて廻っている。この虫は驚くと、一斉に水中に潜る習性がある。水上では、小さい体全体が光沢のある黒色であるが、水中では、強い脂肪が水を弾くためか、銀色に光るのも面白かった。
水中にも、小魚の他にさまざまな小動物が棲んでいることを発見する。水中の石崖には沢山のたにしがくっついている。川えびが脚を櫂のように急速に動かして、泳いで行く。蟹が赤い鋏を動かして、何かを喰べている。不意に、異様な形の奴が現れることもある。私はいわば水中の小天地を窺って、飽きることがなかった。
しかし私の遊び場は屋敷内に限られていて、臆病な私は一人で外に出ることはなかった。最早、恐しいものは暗いところにばかりいるのではない。私は「子捕り」が恐しい。狂犬が恐しい。泥棒も、巡査も恐しい。
春秋の衛生掃除の日には、巡査が剣を鳴らして家の中まで入って来る。その日になると、朝から私は胸騒ぎがした。手落ちをするような母でないことは信じている。しかし万に一つということもある。また男衆や、女衆にどんな不注意があるかも知れない。土蔵の屋根下に、内側を赤く塗った消火ポンプが置いてある。そこの狭い空地は北に面していて、殆ど陽の当ることがない。家人も滅多に行くことはない。表の小門の鳴る音を聞くや、私は足早に逃げて行き、ポンプの下で息を潜めていた記憶がある。