Chapter 1 of 3

Chapter 1

われに一人の祖母あり。年耳順を越えて矍鑠たり。二佛を信ずること篤く、常に名刹に詣せん事を希ふ。然れども昔時行旅の便甚だ難きに馴れて、敢て獨りいづることをなさず。頻に之を共にするものあるを求む。今茲にわれ醫の勸によりて、暑を草津に避けむとす。草津はと上州の西端にありて、信州と前後一帶の山脈直ちに之により峙つ故を以て、長野の地と相離ること遠からず。是に於てかわれ祖母に伴ふて、善光寺に先づ賽するを約す。即ち之より廻りて、草津に到らんとするなり。秋葉君また余と行を共にす。

七月二十六日、汽車に乘じて下舘を發す。筑波の山われをおくりて、翠黛の眉濃かに插秧既に終りて日をふること旬日、朝風露をわたりて更に一段の緑を添ふ。水白く橋下の礫に碎くるものは鬼怒の清流にして、天と地と相接するところ低林淡く相連なるものは、遠村の幽趣に非ずや。直となり小山より轉乘して西に向ふ。日は午を過ぎて、炎暑漸多くまゝにせんとす。忽ちにして車は思川の橋上に横はる。凉風一過、亦少しく胸襟を醫するに足るものなしとせず。

川上はまだきあとべとなりぬれどすゞしき風は得こそ忘れね 左右遠くひらけて際なく、水田の細徑時に村童ありて馬を導く。前面に一峯あり、樹木欝葱として茂生す。是を大平山となす。鳴呼、年を隔つる三十時。平かにして風は喬木を鳴さずして、山は自ら靜容あり。連峯蜒々として走るの間、山の尤も近くして又尤も奇なるもの岩船あり。削壁突兀として青松其間を綴る。

うすくこく松原みえて下野や都賀山つゞき雲はれにけり  清水瀧臣 之を過ぎて、北は透たる群峯の迫りて、細流なほ激して走るものあり。南は即ち茫漠として、天には低く長く動かざるものあり。平和の光景以て掬す可し。或は林を穿を、或は山江水漲る間を通して足利にいる。面を車窓に出して望めば、僅に一流ありて其南を洗ふをみる可し。是を渡良瀬となす。既にして南方淡靄のうちに、青松蔚然として高きものあり。因に徴すれば、之れ太田の金山なり。余常に誦する所の俗謠一首あり。婉曲頗る人情の機微を穿つものあり。

わたしや太田の金山育ちほかにやまもないまつばかり 桐生をいでて渡良瀬川を過ぐ。水淺くして而かも岩石に激す。流緩々たらざるものあり。凡そ足利よりこゝに至る間、此川軌道と相離るゝもの常に遠からず。之を窺ふに堤坊の决壞せるもの往々にしてあり、其水を對岸の景致をみれば、心慰むるの趣なきに非ずと雖、抑も亦其沿岸居民の慘あるを思へば悄然として憂なきに非るなり。眼を放てば、平野の盡くる所山脚遠く長く走りて、而かも粹然として峯頭濃雲のうちにかくるゝものは赤城なり。山脚赤城の如く緩かならず自ら雄偉の姿を缺くと雖、なほ且秀容直ちに登臨の念を起さしむるものは榛名なり。奔流怒りて岩を噛む利根の上流を過ぐれば、靉靆たる雲天にあり、峭峻たる山を指呼の間に相顧すべし。

高崎にいる。日は漸く低く、之より列車は分れ西に入るに猶また時あり。即ち、秋葉君と相携へて市中を逍遙す。市の一隅に兵營有り。老松枝を夾んで之をめぐる。即ち、舊城趾なり。既にして暮色蒼然として至り、纖雲に映ずる夕陽の光消える頃、列車は進行を始めたり。向方の紫山巒闇黒の裡、僅に其所在を認む可く、其下水田を隔てゝ寒村あり。家々の燭燈悉く樹木の間に隱見す。かくの如きもの連亘して盡きず。亦一異彩なり。流螢二三光を和して影水にあり。

小山田のなかをながるゝいさゝ川水のよどみにとぶほたるかな 既にして車輪の軌る音獨り高くして、山河の移るを知らず。身は早く碓氷の坂路にあり。車除々として進行を止めず。墜道に入りて墜道を出づ。かくの如きもの實に二十有、亦其間眼前の峯嶺、猶且つ遠く糢糊として表はるゝのみ。獨り奔然一瀉し來る溪泉の水灑々として所在に簾を垂るゝもの、夜色を得て凄凉の氣更らに深きを多とするのみ。輕井澤に到りて宿る。既に信州なり。

翌、徒に旦出でて雲靄の中に彷徨す。雲霧未だ散ぜず。浮々然として面を掠めて去る。地は海上三千餘百尺、誠に高燥にして神心轉た爽快ならずむばあらず。既にして身を客車の一隅に据ゆれば、天漸く朗かにして回顧豁然たり。山彙の遠く綿亘するを睥睨するが如き緩峯、北方に侍立す。欝樹參差として蔭闇し、碓氷の難險は盖し其の間に通ずるの道なり。然り此地而已高しと雖、山脚の緩なる概ね一帶の高原をなす。汽車は即其間を通ずるなり。之を望むに間々耕して畑となすあり。而かも氣候相異なるところ、葉未だ悉く黄ならざるものあり。高原の走り盡くる處、陷然として一物なし。遙峯多くは巉々として之を畫す。盖し溪谷ならんか。時に行路の地急に下りて潺々として水其間を求むるものあり。故に岩面稜々として當るべからざるものあり。而して多くは樹ありて之を埋む。既にして雲霧四塞、一物を辨ぜず。今朝氣晴るゝに及んで、われ密に淺間の噴煙其明かに囑目すべきを想ふ。鳴呼、昨は夜闇くして妙義を見ず。今將た此の如し。遺憾何ぞ堪へむ。小諸に至るに千曲川に會ふ。對岸概ね壁立す。而して尤も危殆なるものを布引山となす。巉岩少しく凹む所樹木繁る中に一宇あるをみる。信に奇勝なり。之より終始千曲と相遇ひ相離る。其間或は巨巖高聳、殆んど頭上に落ちんとするものあり。或は激流洗ふ所、山腹に洞穴をなすものあり。遠きもの、近きもの、高きもの、低きもの悉く自ら異あり。峯平かにして温容あり、翠色少しく淡きものは姥捨の山となす。之を過ぎて轟然千曲の濁流を一過すれば、右方囑目遠く平けて遠山之を限る。川中島なり。西條山是一端に隆起するものは、直ちに車窓を壓せんとす。茶臼山は風輕く水田の上を吹き來りて除ろに車窓にいる。再び長橋を渡りて犀川を過ぐれば、汽車は緩く長野停車場に入る。是より車を捨てゝ市中を行く。道徐々として登る。其極る所善光寺あり。寺は西と北とに山を控へて堂宇宏壯にして山門にのぼれば、市一目のうちに瞭然たり。賽し終りて僧坊に入る。將さに明朝開龕を看んと欲するなり。時未だ午に至らず。僧頗る懇篤、引きて堂に導き或は如來の靈驗を説く。食後鐵面君と共に出でて寺後の池畔を廻り、田畔を求めて一條の道を得て進む。ブラン堂に到らんとするなり。山に沿ふて村を過ぐること二三、道を左にとりて進む。山風物既に可なり。かくて久ふして岐路あり、敢て右に分る。阪路少しく下れば橋あり。溪流脚下に奔騰して奇岩頭上に峙つ。岩に從ふ而行けば細徑山に向ふて走る。之を問へばブラン堂は即ち此上にありと。即ち登峻坂高からずと雖、崎嶇とも之を踏むに、殆んど脱落せんとするものあり。之を過ぐれば少しく平かなり。若しそれ左方の嶢角に踞せんか、先の過ぐ所の溪流小橋眇として遙に眼下に在り。岩質脆くして片碎せるもの堆積す。而かも此脆弱なる岩頭、僅かに根を以て立つもの短松杉あり。所謂善光寺平は近く起りて遙方の諸嶺之畫は、滄※として一帶の水田なり。清緑一抹の間、點々として村落あり。木は幹高くして人家兩三、時に表はる。而かも紙上一紙一點の墨汁に若かず。千曲川帶の如く平野を兩分して走る。遙方の山少しく凹む所一條の赤土あるを認む。驟雨沛然として至れば、滿山の水を集め來りて、急瀉一過する所跡なり。天晴るゝに至りては、一水をみざることかくの如し。凡そ全般雄大の景致求めずして之を得る。信に豪岩の氣窮まりなきものあり。道を復して數歩すれば、眼前一宇あり。是を・ラン堂となす。堂は削壁の面に懸りて古色あり。板を架して僅かに之に到るを得可し。内窄狹く祭壇の如き岩を穿ちて神を安んず。谷は急に深くして枝葉相交はりて人寰をるゝこと遠し。若しそれ僅かに樹根に縋りて下れば、巖上木を編みて其基となす。相錯綜、頗る不整齊なり。若し手を誤らば、堂と共に當に墜落す可きかの感なきに非ざるなり。鳴呼、此一小堂何の見る處にして、加ふる其頗る便ならざる、固より何かあらむ。然りと雖地を撰びてこゝに奇矯の一體を添ふるもの、其創意實に感ず可きなり。

去りて細路に就きてのぼる。雜草亂生して脛を沒す。相聳ゆる群山の頂を麓となして立するものあり。緑草濃かにして一木を見ず。近く人に迫りて溪の甚だしく窄狹なるものは飯綱なり。

あすはわがそなたの方も越ゆ可きをいづなの山のいづな白雲 下りて一道に合す。是を進むに其限りを知らず。即ち左して歸に就く。既にして佛々はさきに激然として踞して睥睨せし所の巖頭、突飛して天を指す。溪流また其脚を洗ふさまに過ぐる所の橋下に至りて川に合すものなり。道傍清泉所々に湧く。冷氣骨に透す可し。老翁既に貨を得ける、徐々として馬に導かれ歸るもの、自ら一掬を仰いて馬に飮ましむ。馬は精氣を得て空に向ひて長嘶す。這般の景趣悉く皆快なり。樂既に足りて歸。鳴呼、昨日經る所幾十里、今日過くる所幾乎、村山水の奇態、高きもの、長きもの、遠きもの、近きもの、低きもの、河の緩なるもの、急なるもの、廣きもの、狹きもの、深きもの、淺きもの或は奇なるもの、或は平かなもの之を數ふれば幾十百、其間天下の勝たる可きもの盖しなきにあらざるべし。而かも其樂の攸々たるもの今處豈臨せし所、雙眼鏡に親むの快に若かざるものは何ぞや。一は四顧應接に忙はしく、僅かに心に會する所のものを得るも、忽にして遠く雲霧のうちに隱るゝもの比々皆然らざるものなし。一は然らず、身は靜かに坐して動かず、山の姿、水態心に飽きて猶去ることなし。一は頗安逸なり、故に心神揚らず。一は然らず、之を山にすれば登攀の難あり。之を水にすれば、徒渉の險あり。而して一たび之を侵して目的の地に達するに及んでや、氣宇豁達矚目悉く快ならざるはなし。况や其地の勝たるをや。其分るゝ所茲にあり。既にこれあり、都人士の輩近く數里の路、猶且つ車に貸して行く、何んぞ其眞趣を解することを得んや。夫ぞ苦の伴ふところ樂必ず來る。其苦愈よ大なれば、其樂愈よ大なり。これ豈探勝の上のみならむや。

此夕雷鳴山の一角に起る。既にして雲大空を蓋ふに暇あらず。雨の滴々なるもの忽ちにして沛然として下り、飛沫散じて四顧漠々たり。即ち倉皇戸を閉ぢて晴るを待つ。騷然として雨聲遽かに止む可きに非ず。即試に戸を排せば、蒼穹既に雲收まりて蒼々たり。唯地高きが故に兩直ちに集まり低きに就く。故に其水道を蓋ふて一瀉するもの遂に※の聲を發するに至りしなり。日は山角に波まんとして空際の片雲色殊に鮮かなり。

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