Chapter 1 of 1

Chapter 1

午前からの来診患者が一先づ絶えたので、先刻から庭木に鋏を入れてゐた医者が、今居間に帰つて来た所だ。

窮屈さうに、紫檀の卓に頬肘を突いて、今まで其処に自分のゐた庭に、障子の中硝子を透して集中しない視線を遣つてゐた。

卓の上には西日が流れて、淡く塵垢さへ見られた。彼の肘の前にある灰皿の中の、喫ひ終つたばかりの喫殻から登る紫色の煙と、他の古い喫殻にそれが燃え移つて出る茶褐色の毒々しい煙とが、やゝもすれば彼の顔に打つ衝かつたが、そんなことには元来頓着ない彼であつた。折々堪らないやうに双眼の切れ目から輻射状の皺を発したが、それでも更にそれらの喫殻に手を下さうとしないのは、明かに彼自身にも得体の知れぬ悶えが、彼の中を横行してゐたからである。

家敷の二方に並ぶ病室からは、患者や附添人等の呑気な饒舌が、時には高く、その余はゴトゴトと聞えて来た。

入院患者の中で、若い者は看護婦のゐる室に出掛けて、彼女等を揶揄つた。疳高い甘え声が、真昼の暑熱が漸く鈍い渾然さをみせた夕刻の空気の中を、矢のやうに走つた。そしてそれは彼の耳には格別によく響き入つた。

又、台所の方からは三十人に近い此の一家の夕飯仕度の煩雑な音が、これは人の胸を包むやうに彼の所に漂ひ寄つた。「エヽくそツ!……」と思つた。だがその直ぐの瞬間に、「あれは命をつなぐものだ」といふ考へが彼の頭を占領した。

湯殿でまだ沸き切らぬ湯をチヤブチヤブさせて遊んでゐる四人の小さな子供等こそは、実は一番喧しかつたのだが、長男に就いての一件の起こつてる時なので、他の四人の子供は何だか可愛い気がして、何時ものやうにとても「やめろ!」と怒鳴ることは出来なかつた。

「病室の奴等は……」と思ふとその饒舌の声々に腹が立つたが、その入院してる一人々々の顔を憶ひ出すと、何にも云へぬ気がした。

「看護婦の奴等め!……だがまたふてくされるのか……」――そこで彼は嘆息した。

腕はその儘、頭だけを屈めてサラリと禿げかゝりのそれを撫でた。そして頭を屈めた際につむつた眼を、云ふことの出来ない表情で開くと、閉つた口をムニヤムニヤとさせた。開かれたばかりの下瞼は、老七面鳥を想はせた。

「困つたものだ……」

再び今の様に頭を撫でるから繰返して、不図頭を上げた時さう思つた。その次に「何が困つたことだ?……」と自らに反問した。その結果は兎も角も長男の一件とすることになつた。

「彼奴は……」と先づ突つ附いてみた。だがその次が出て来ないので、今しがた飛び込んで来て彼の頭の上を飛び廻り飛び交つてゐる二匹の蠅が気になり始めた。そこで蠅打を取つてピシヤリと一匹を打つた。首尾よく一匹はそこに仰向きに転んだ。「かう行けば好い――」

彼は一匹だけだと思つてゐたのだ。所がもう一匹の奴がゐることを知つた時一寸、大変な災難が来たやうな気持になつた。

慌てるやうに蠅打を手放すと、「彼奴は……」と再び両手で額を支へて考へ込んだ。額の脂で手が辷りさうなので直ぐにそれはこめかみに当て換へられた。それでまた「彼奴」のことは頭を去つてしまつた。

「……フン、そりや彼奴の云ふのにも本当はある――」

「けれどもだ、……けれどもそれでは此方が困る……」

そこへ、「何方にも一理ある場合は親の方を子は聴入れなくつちやァ不可ない」といふ、常々云つてる言葉が飜然浮ぶと、彼は解決を得た喜びに敷居の辺りを意気ある眼で睨んだ。……「併しあの二番目の子は良かつた、あの子が生きてさへゐれば……」――

渡り廊下を駆け寄つて来る看護婦の足音がした。

「先生々々、」と医者の居間の敷居の前に膝を突いた看護婦がせき込んで云つた。まだ看護婦にはなりたての新参者だつた。

「何事だらう?」と医者も驚いた。だが次の瞬間に湧き上つた気持を直接その看護婦に披瀝した。

「さうまあセカセカ云ふものではない、急病人も世の中にはあらうさ」

看護婦は急に消沈して俯いてしまつた。西日が後れ毛の少し垂れ下つたのを透してるそれをみると――

「さあ云へ」――今度は医者の方がセカセカした。

「あのう、赤ちやんが咽喉にお餠を引つ掛けて、呼吸が止りかけてゐます。」

「よし。直ぐ行くから」

看護婦は難所を抜け出るやうに走り去つた。その後から彼が悠然と歩んだ。

渡り廊下に近い一棟の病室の者達が、最早その赤ン坊の苦しげな絶え/\の泣き声のために「急病人あり」と知つて、縁側に出て見えもせぬ診察室の方に首を伸してゐた。それ等の者が、彼が渡り廊下に掛かるや「頼むぞ」といふ眼差を一斉にさし向けた時に、彼の頭の中では「よろしい!」といふ心持が漲り渡つた。

せきを一つして診察所のドアを開けた。

よくよく咽喉の栓となつた生焼けの餠は、却々取り除けられさうもなかつた。

「生焼けだね」と医者が云ふと赤ン坊を膝に載せてる母親が乞食のやうな調子で泣いて「わたくしが悪うございました」と云つた。

医者はそれに悪感を抱いた。赤ン坊の顔を覗き込んでる母親の日本髪を上の方からチラと憎々しげに見遣つた。

医者が拑子を突つ込むと赤ン坊が踏まれた蛙ののどのやうにヒクツヒクツとなつた。そしてそれと共にヒグツ、ヒグツといふ声が、洩れ出た。

一先づ拑子を引くと再び赤ン坊は此の世のものとしての苦しさうな表情となつて出来るだけ泣き喚き出した。

「おゝよしよしよし――お母さんが悪かつた悪かつた、今先生様がよくして下さる――おゝ悪かつた悪かつた」

それまでいふとヒヨツと母親は医者の方へ眼を上げた。「先生もう死ぬるものでございませうか」

「駄目らしいね」医者は低声でそれを答へた。そして赤ン坊の唾液で濡れた拑子を指先で挟んで持つてゐながら、母親が子供を揺りながら泣いたり、その子の瞳を見入つて一言二言狂気のやうに云つたりするのを「そんなにして俺が何が出来るものか」と思つて立つてゐた。

彼の背後の方の戸が開く音を聞くと直ぐ彼は振り返つた。

苦労性の妻君が余りに赤ン坊の泣き声が変なので庭を横切つて来てそこから覗いてゐる所だつた。

彼の視線が妻君に放たれた時に妻君がピクリと怖ぢけたので、まあ黙過しようかとも思つたが、少し赤ン坊の母親に気の毒な気がして来てゐた時なので云つた。

「お前達の来る所ぢやないツ!」

叱られて去つた妻君の象が彼の眼底に残つた時、彼は死んだ自分の子供に縋りついて泣いた妻君を思つた、次いで眼の前の母親が同情された。

「さあ、出しますよ、今度は出る、――揺らずにヂツと――さう/\/\……」彼は母親の肩に手を掛けて自分が仕事のしよい位置を取らせた。

両足を拡げ、反射鏡に手をかけると、今度こそ本調子に赤ン坊の口中を睨み込んだ。

叱り飛ばされた妻君は引き返したその足を直ぐに長男の書斎に運んだ。

「お父さんのお許しが出ましたか?」

「さう早く出るもんか」

「だがね、今日はもう何も云つては駄目ですよ、今急病人があつてお父様は気が立つてるからね」

その時、俄然台所の方から、牛肉か何かを叩く音がして来ると、そゝくさと蒼い顔の妻君は長男の部屋をも立ち去つた。

(一九二五・四・二七)

●図書カード

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