Chapter 1 of 2

御名前の記憶ちがいだったら大変失礼であるが、楚人冠先生か誰かの随筆の中にこんな話があった。

先生が、大分昔の話であるが、どこかの田舎で講演をされたことがあった。聴衆は村の人たちで、知識階級などというものとは凡そ縁の遠い、ただの農家の主人とか娘さんとかいう人たちであった。

その講演がすんで辞去されようとしたら、世話役の人が、とんでもなく大きい籠に卵を一杯入れて、御礼にくれたそうである。昔のことで、卵などふんだんにあった時代の話なので、先生は少し持て余し気味ながら、折角の厚意と思って貰って帰られたそうである。

ところが、家へ帰ってその卵を喰べようとしたら、一つ一つにそれぞれ名前が書いてあることに気がつかれた。即ちその時の聴衆が、御礼心にそれぞれいくつかの卵を自分の家から持ちよったものであった。

毎日その卵を一つ一つ召し上った時の先生の嬉しそうな顔がその文章のどこかにほの見えていた。

この話と関連して思い出したのは、御礼状のことである。この頃、特に夏休みになると、色々な人が、ひっきりなしに私どもの低温研究室を見学に見えるので、いささか閉口している。もっともそういう方たちに実験の結果や低温室の設備の説明をすることも、広い意味でのつとめの一つなので、出来るだけ時間を繰り合せて案内をすることにはしている。

ところで、そういう人たちの大多数の方は、帰られてから御礼状をよこされる。それは大抵きまって邦文タイプライターの書状か、或は奉書の巻紙に楷書で丁寧に認めたものかである。邦文タイプライターの方は、主として官庁関係に多く、巻紙の方は実業方面で、秘書が丁重に認めたものである。こちらはつぎつぎと仕事に追われているので、こういう御礼状などは貰っても、それを印象に留めることは出来ないのであるから、少し無駄だという気もするが、先方にしたら、見学や出張の締めくくりをするという意味でも、全然放っておくことも出来ないのであろう。

勿論そういう儀礼上の手紙ばかりではなく、本当に丁寧に自分で認めて、色々と見学の際の印象などを詳しく言ってよこされる方もあるので、その方は聊か恐縮ものである。

ところが、この頃儀礼でも恐縮でもない極めて朗かな御礼状を貰ってちょっと愉快だったことがある。それは東京の或る女学校の専攻科の人たちが見えたことがあって、その人たちの御礼状であるが、葉書二枚に、一行三十人ばかりで寄せ書をしてよこされたのである。

一枚の葉書に十五人ばかりの割で、それぞれ二三行ずつ御礼の言葉だの印象だのを書いて寄こされたので、大体蟻位の大きさの字でぎっしり一面に書き込んであった。まだまだ若いつもりであったが、流石にこの葉書にはちょっと眼がまじまじとしたので、眼鏡をとり出して、一つずつ拾って読んで見た。

色々な文章があって、特にこういう場合は大抵皆同じ意味の言葉になってしまうので、それを逃れようと色々苦心のあとが見えたことも大変面白かった。適当な文句は皆初めのうちに書く人が使ってしまうので、後に廻った人が、辛苦の末に警句を吐いたり、或は簡単に降参してしまったりした形跡があって、なかなか愉快だった。そしてこの寄せ書を読みながら、ふと前に言った卵の話を思い出した。研究室の生活にも、案外の役徳があるものである。

こういう修学旅行の組は、六月、大学の楡の梢に郭公が鳴き始めると間もなく、例年の行事のように札幌を訪れて来る。そして白い日傘が、よく鮮かな緑の芝生の間に見かけられるような日がしばらく続く。それにもいつの間にか気が付かないようになると、もう夏休みである。セルの感触を乾いた肌に楽しんでいるうちに夏休みになってしまうのは、少し贅沢なようであるが、研究室の仕事の能率が上って来るのは、休みに入ってからである。まあそういうことにして、清々しい札幌の夏を、出来るだけ長く享楽することにしている。

もっとも低温室の中は、普通零下三十五度位になっているので、その中で働く者にとっては、札幌も東京もない筈だろうと思われるかも知れない。しかし実際は大変な差があるので、東京の夏だったら、とても今のような低温室生活は出来ないだろうという気がする。それは外気温と低温室内の温度との差が、結局一番身体にこたえるので、札幌でも冬にくらべると、夏の方が恐ろしく閉口なのである。

低温室への御客様には、今までは皆ちゃんとした防寒具をつけて貰っていたのであるが、完全な身仕度をした場合は、十分や二十分間入ったのでは、余り寒さの体験を得られない。研究室の人たちは、もう馴れてしまっているので、十分間位なら普段のままで入っても大してこたえない。それで少し人が悪いようだが、この頃はよくお客様に防寒服なしで低温室内へはいって見て貰うことがある。そうすると十分位すると、皆縮み上って出て来られる。そして「なる程寒いですなあ」と言われる。

真夏の東京の苦熱を逃れて来たお客様たちは、よく「結構な研究を始めたものだね」と初めは言われるが、防寒服なしで、低温室内で一度縮み上って出て来られると、大抵の人は、「やはり、余り有難くもないね」と言われる。その度に私たちは「これが計略なんです」と言ってお客様を苦笑させることにしている。

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