Chapter 1 of 18

父秀忠と祖父家康の素志を継いで、一つにはまだ徳川の天下が織田や豊臣のやうに栄枯盛衰の例に洩れず、一時的で、三代目あたりからそろ/\くづれ出すのではないかと云ふ諸侯の肝を冷やす為めに、又自分自らも内心実はその危険を少からず感じてゐた処から、さし当り切支丹を槍玉に挙げて、凡そ残虐の限りを尽した家光が死んで家綱が四代将軍となつてゐた頃の事である。

実際、無抵抗な切支丹は、所謂柔剛その宜しきを得て、齢に似合はずパキ/\と英明振りを発揮して、早くも「明君」と云はれた家光が、一方「国是に合はぬ」事は何処迄も厳酷に懲罰して仮借する処がないと云ふ「恐ろしさ」を諸侯に示すには得易からざる無難な好材料であつた。「何と云つてもまだあの青二才で」と高を括つて見てゐるらしく思はれた諸侯達を、就職のとつ始めから度胆を抜いてくれようと思つてゐた若将軍の切支丹に対する処置の酷烈さと、その詮索し方の凄まじい周到さとはたしかに「あはよくば又頭を擡げる時機も」と思つてゐた諸侯の心事を脅し、その野望を断念せしめて行くには効き目は著しかつた。奥羽きつての勢力家で、小心で、大の野心家であつた伊達政宗さへ、此年少気鋭な三代将軍の承職に当つて江戸に上つた際、五十人の切支丹の首が鈴ヶ森で刎ねられるのを眼のあたり見て、その耶蘇教に対する態度をガラリと変へた程であつた。

かくて何でもかんでも徳川の基礎を万代に固める事が自家一代の使命であると心得てゐた家光は諸侯と直接刃を交へて圧迫するやうなまづい手段に依らずに、諸侯がとも角も同意しない訳に行かぬ理由と名義の下に、此日本の神を否定し、仏を否定し、国法を無視し、羊のやうな柔和な顔をして、其実国土侵略の目的を腹に持つてゐる狼の群を鏖殺しにする事に依つて、間接に徳川の威勢を天下に示し、同時に自分の反照を眼のあたり見る事が出来る事を此上もなく面白がり、喜んだ。何となく気味のわるかつた姻戚の伊達政宗迄が思ひがけない奥羽での切支丹迫害の報告書を奉つた時、彼は自分がもうそれ程迄におそれられてゐるのかと云ふ得意の為めに、まだどこか子供々々した俤のぬけきらぬ顔を赭くし、パタ/\とその書面を叩き乍らそれを奥方に見せに座を蹴つて立つた程であつた。

併し切支丹が神の道と救ひの教へを説くと称して実は日本侵略が目的であると云ふ事は只彼の構へた口実ではなかつた。実際彼はさう信じてゐたので、それは又その筈であつた。朝廷に最も勢力のあつた神道主義者と仏僧との耶蘇教に対するあらゆる反対讒訴姑息な陰謀は秀吉時代からの古い事であつたが、まだその他に商業上の利害の反目からフランシスコ・ザリオ以来日本の貿易と布教とを一手に占めてゐた葡萄牙人を陥れようとして、元来西班牙の広大な領土は宣教師を手先に使つて侵略したものだと実しやかに述べ立てる西班牙人があり、又家康の時には更に西班牙と葡萄牙とを商敵とする新教国の和蘭人が現はれて家康の前に世界地図をひろげ、耶蘇教国の君主すら宣教師を危険視して国外に放逐してゐる位であるなぞと云つて眼の前で十字架をへし折り、聖母の画像を踏みつけて見せた事もあつた。のみならず捕獲した葡萄牙の商船から発見したものだと称して偽造の密書――所謂「和蘭の御忠節」を勿体らしく捧呈したりしたのである。

さなきだに切支丹には誤解される点が実に多かつた。罪を犯して悔い悲しむ者は、罪を犯さぬつもりでゐる過ちのない傲慢な者より救はれ易いと云ふ意味が罪その物を肯定する教と見做された事も当然な事であつたが、又霊魂の救はれる事の為めに肉体の死苦を甘んじると云ふ事がやがて死の讃美に思はれ、そしてその死に民衆を「嗾かす」ばてれん達は又国民を亡ぼして行く者と見做された事なぞも凡て尤もな事には相違なかつた。

且つ慶長の初めには疫病が流行り、天変地異がつゞいた。こんな事を仏僧や神官が神仏の怒りとして持ち出さずにはおく訳はなかつた。秀吉はそれには耳を藉さなかつたが、切支丹の一婦人に懸想してその婦人を妾にする事が出来なかつた時、始めて本当に切支丹を憎いと思つた。彼はその女を裸にして竹槍で突き殺させた後で、今日吾々が子供の時から耳にタコが出来るほど学校で聞かされた常套語の元祖を放つた。

「外国の土に善く適ふからと云つてその木をすぐ日本へ持つて来て植ゑると云ふ事は間違つてゐる。日本には日本の桜がある。」

そして自ら朝鮮を侵略して行つた此猿英雄は一度でそれが懲らし得るつもりで、先づ廿六人の「侵略者」を長崎の立山で磔刑にし、虐殺の先鞭をつけた。

家康は秀吉よりも一層切支丹を最初から嫌つてゐた。徳川の運命と同じく、切支丹の運命にとつて致命的であつた関ヶ原の決戦が済み、切支丹の最も有力な擁護者であつた石田三成、小西行長、黒田孝高等が滅び失せて後は元和八年の五十五人虐殺を筆頭に露骨に切支丹迫害が始められた。かくてそれ迄は自ら洗礼をうけ、或は切支丹に厚意を持つてゐた西国の諸侯は幕府の嫌疑を怖れるが故に改宗し、切支丹の討伐にかゝつた。そして爾後切支丹の根絶やしは徳川家代々の方針となつた。

寛永十五年正月、島原の乱が片付き、続いて南蛮鎖国令が出て後、天文十八年以来百余年の長きに亘り、二千人以上の殉教者と三万数千人の被刑者とを出して尚執ねく余炎をあげてゐた切支丹騒動なるものは一段落ついた様に見えた。

「一つ時はほんに日本全国上下を挙げて靡いた位えらい勢ひぢやつたもんぢや。信長が本能寺で討たれた頃にや三十万からの生粋の信者がをつた相な。それが此通り消え細る迄にやお上の仕打ちも随分と思ひ切つて酷ごいには酷ごかつたが、片つ方も、亦執つこいとも執つこいもんぢやつた。がかうなつて見れや此れや此国に切支丹が容れられなかつたと云ふなあ、夫が結局天主の御所存ぢやつたのかも知れんてな。」

こんな疑念がひそかに切支丹に厚意を持つ人々の念頭にもきざしかけてゐたその頃の事である。それでもなほ全国市町の要所々々には

きりしたん宗門は累年御禁制たり、自然不審なるもの有之者申出づべし、御褒美として

ばてれんの訴人   銀三百枚

いるまんの訴人   銀二百枚

立ちかへり者の訴人 同断

宗門の訴人     銀百枚

同宿並にかくし置き他より顕はるるに於ては其処の名主並に五人組まで一類共可処厳科也、仍下知如件

奉行

と認めた檜の高礼がいかめしく樹てられてゐた頃の事である。

長崎の古川町に萩原裕佐と云ふ南蛮鋳物師がゐた。

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