物騒な話題
「そんな気味の悪いお話はお止しなさいませ、それより東京座のレヴィユーが大変面白いそうじゃ御座いませんか」
と話題の転換に骨を折って居るのは、主人石井馨之助氏の夫人濤子、若くて美しくて、客が好きで物惜みをしないというので、苟も此邸に出入する程の人達から、素晴らしい人気のある夫人でした。
が、その美しい夫人の魅力を以てしても、其晩の話題ばかりは、何うすることも出来なかったのです。贅沢な接待煙草の煙が濛々と立ちのぼる中に、不思議な邪な陶酔にひたって、男客達は「犯罪」の話に夢中になって居たのです。
「マア、そう言うなよ」
主人の馨之助は、丸々と肥った手を振って美しい夫人を婦人客の方へ追いやり乍ら、
「物を盗まれるのは油断があるからで、盗む方ばかり責められないと同じ筆法で、私は殺される人間もあまり賢こくないと思いますよ、つまり殺される方に油断があるから、ツイ殺し手の方も誘惑されると言ったわけでしょう、そんなもんじゃありませんかネ、ハッハッハハ」
見事に禿げ上った前額を撫で上げ乍ら、ビール樽のような腹を揺り上げて、カラカラと笑いました。
「イヤそんな事はありません、御主人のお説が本当なら、殺される人間は皆馬鹿で、刺客の手に斃れた有名な政治家も、痴情関係で殺される市井の遊蕩児もあまり変らんことになります」
と言うのは、此邸へ毎日のように出入して居る、芦名兵三郎という若い紳士です。旧家の若主人で、広い屋敷と、恐ろしい貧乏と、それに不相応なつまらない格式とを荷厄介にして居る青年の一人ですが、五分もすかさぬ行届いた身だしなみと、磨き抜いたような滑らかな顔に、どっか女のような陰柔な感じがあります。夫人の濤子とはわけても懇意で、表立っては「奥さん、奥さん」と言って居りますが、蔭へ廻ると「濤子さん――」と言ったような無礼な口を利くそうで、雇人達にまで変な眼で見られて居ります。
「私は石井さんのお説に賛成し度い、犯罪は滅多に偶発するもので無いから、慎重にして周密なる注意によって、大部分は未然に防ぎ得るものです」
医学博士の酒井洪造は、楔形の顎髭を捻り乍ら、さすがに学者らしい事を言います。
「お前は何うだ、何んか面白い説は無いか」
「…………」
主人の馨之助に声を掛けられて、ハッと息を呑んだのは、田庄平という青年紳士です。
主人の甥に当るそうで、子供の時から此邸で育ちましたが、身体が弱い上に学者肌で、人前で口を利くのさえ痛々しいようです。先刻から立て続けに恐ろしい話を聴かされて、蒼白い上品な顔をすっかり硬ばらせて居る位ですから、人殺しに対する意見などがあるわけもありません。
「僕に、そんな事はわかりません」
「ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、君は動物学のことしか解らない人間だっけ」
馨之助は、甥の困り抜いたような顔を見て、如何にも面白そうに笑いこけます。
一座はほんの七八人、外に隣室に退いて、この物騒な話題から遠ざかって居る婦人客を加えて、皆んなで十人もあったでしょうか。石井夫妻の客好きがさせる恒例の晩餐会は、自慢のコックに存分の腕を揮わせた後、別室で軽い西洋酒を啜り乍ら、何時も乍らの不遠慮な話が弾んで居たのです。
「御主人は相変らずウイスキーばかりですか」
「糖尿病には日本酒と葡萄酒が悪いそうで、主治医の酒井博士よりも家内の方がやかましくて飲ませませんよ、ハッハッハハハ」
つまらないところで惚気られて、相手の小西という中老人は少しタジタジとなりましたが、陣を立て直して、
「それはどうも御馳走様で――」
「いやもう、私がうっかり菓子でもつまもうものなら、大変な騒ぎで」
「ハッハッハハハ、これは益々たまらん」
笑の大爆発に、例の陰惨な「人殺しの話」も吹飛ばされてしまいそうです。
「大層お賑やかですこと、何んか、私の悪口を仰しゃったでしょう」
と境の扉を開けて、孔雀のように立ったのは、濤子夫人の美しい姿です。
「聞えましたか」
「ウ、ファッファッファッ」
小西老人は独りで悦に入って居ります。
「それはそうと、先刻の話の切りを付けましょう、千種さんは何うじゃな――」
先刻から隅の安楽椅子に凭れて、黙って一座の「殺人論」を聴き入って居る名記者、千種十次郎の方へ鉾先が向けられました。
「私にはわかりません、毎日毎日血腥さい事件を扱って居ると、返って頭脳が混乱してしまって、其間から公式も哲学も見出す気にはならないのです」
「成程そう言ったものでしょうな、併し……」
石井馨之助が、尚も殺人論へ話を持って行こうとすると、客間の扉が音もなく外から開いて、
「お父様、お時間で御座います」
ソッと貴族的な感じのする美しい顔。娘の美保子と言って十八歳、先妻の子で継母の濤子とは十二三しか違いませんが、濤子が咲き誇る牡丹のように美しいのに対して、これはまた、露草のように淋しく、たよりなく、そして可憐な娘でした。
「もうそんな時間かい、相変らず酒井博士は頑固で、私にどんな事があっても十時には寝なければいかんと言うのです。あとは家内がお相手しますから、どうぞいつものように御ゆるりと願います、御免下さい」
それでも残り惜しそうに、娘の美保子に伴われて寝室に退きます。
こんな事には馴れて居るものと見えて、一座の人達は別に不思議に思う様子もありません。年取った主人の存在は、若い者勝ちなこの座には何うでもよかったのでしょう。
唯、娘の後姿を追う田庄平の眼が、不思議な情熱に燃えて居るのを、千種十次郎は見落しませんでした。内気な動物学者の眼にも、あの可憐な娘の姿が、決して無意味には映って居なかったようです。