Chapter 1 of 7

「八、良い月だなア」

「何かやりませうか、親分」

「止してくれ、手前が鹽辛聲を張り上げると、お月樣が驚いて顏を隱す」

「おやツ、變な女が居ますぜ」

錢形の平次が、子分のガラツ八を伴れて兩國橋にかゝつたのは亥刻(十時)過ぎ。薄寒いので、九月十三夜の月が中天に懸ると、橋の上に居た月見の客も大方歸つて、濱町河岸までは目を遮る物もなく、唯もうコバルト色の灰を撒いたやうな美しい夜です。

野暮用で本所からの歸り、橋の中程まで來ると、ガラツ八がかう言つて平次の袖を引きました。大した智慧のある男ではありませんが、眼と耳の良いことはガラツ八の天稟で、平次の爲には、これ程誂向のワキ役はなかつたのでした。

「あの女か」

「ありや身投ですぜ、親分」

「人待ち顏ぢやないか、逢引かも知れないよ」

「逢引が欄干へ這ひ上がりやしません、あツ」

橋の上にシヨンボリ立つて居た女、平次とガラツ八に見とがめられたと氣が付くと、いきなり欄干を越して、冷たさうな水へザンブと飛込んで了つたのです。

「八、飛込めツ」

「いけねえ、親分、自慢ぢやねえが、あつしは徳利だ」

「馬鹿野郎、着物の番でもするがいゝ」

さういふうちにパラリと着物を脱ぎ捨てた平次、何の躊躇もなく、パツと冷たさうな川へ飛込んで了ひました。

女は一度沈んで浮かんだところを、橋の下にやつて來た月見船が漕ぎ寄せ、何をあわてたか櫂を振上げましたが、氣が付いたと見えて、水の中の平次と力を併せ、身投女を舷に引揚げました。

女は激動の爲に正體もありませんが、幸ひ大して水は呑んで居ない樣子、月見船の客は船頭と力を併せて、濡れた着物を脱がせて、船頭の半纒や、客の羽織などを着せて、擦つたり叩いたり、いろ/\介抱に手を盡して居ると、何うやらかうやら元氣を持ち直します。

蒼い月の光に照らされたところを見ると、年の頃は二十二三、少しふけては居りますが、素晴らしい容色です。

「何うだい、氣分は。少しは落着いたか、何だつてそんな無分別な事をするんだ」

平次は素つ裸のまゝで、女を介抱して居ります。近間に居る月見船が二三隻、この騷ぎに寄つて來ましたが、無事に救ひ上げられた樣子を見ると、この頃の町人は『事勿れ主義』に徹底して、別段口をきく者もありません。

「有難う御座います」

顏を擧げた女、平次はそれを正面から眺めて、何うやら見覺えがあるやうな氣がしてなりません。

「違つたら謝るが、お前さんは、お樂といやしないか」

「えツ?」

女はもう一度心を取直して、橋間の月に平次の顏をすかしました。

「ね、矢張りお樂だらう?」

「あツ、錢形の親分、面目ない」

女は毛氈の上へ身を投げかけるやうに、消えも入りたい風情です。男の羽織と半纒を引掛けた淺ましい姿がたまらなく恥かしかつたのでせう。

「錢形の親分さんで、――これは良い方にお目にかゝりました。私は長谷川町で小さな質屋をして居る笹屋の源助といふ者で御座います。身分不相應な贅で、生意氣にお月樣などを眺めながら、十七文字を揃へて居ると、いきなり鼻の先へ人間が降る騷ぎでせう、全く、こんなに驚いたことはありません」

成程、俳諧の一つ位は捻りさうな、質屋の亭主にしては、肌合の粹な男。錢形の平次と聞いて、いくらか冷靜さを取戻したものか、身投女の後ろから、こんな事を言つて居ります。長谷川町の笹屋といふと、新しいながら相當繁昌する店で、商賣柄平次も滿更知らないところではありません。

「お蔭で一人助けました、飛んだ功徳でしたよ」

と平次。

「功徳には違ひありませんが、町人はこんな時は何の役にも立ちません」

「ところで、お樂、お前のやうな女が、何んだつて又身を投げる氣になつたんだ」

平次は質屋の亭主にはかまはず、船を兩國の方へ漕がせながら、漸く心持が落着いたらしいお樂に話しかけました。

「何も洒落や道樂に死ぬ氣になつたんぢやありません、親分、お怨み申しますよ」

「何?」

「兄の香三郎が、親分の繩に掛つて、傳馬町に送られてから、世間の人は私を相手にしてくれません」

「――」

「兄は泥棒かも知れませんが、妹の私は何にも知りやしません。それを町内の構者にして、厄病神のやうに追拂つたのは、何といふ譯の解らない人達でせう」

「――」

「大泥棒の妹と知れると、何處でも三日と置いてはくれません。三月の間に五軒も越して歩いて少しばかりの貯へも費ひ果し、身でも投げなきア、乞食をするより外に身の振方の工夫もつかなかつたのです。親分やお上を怨んぢや惡いでせうか」

平次も驚きました。その頃江戸中を騷がせた三人組の大泥棒のうち、一人は逃げ、一人は死に、香三郎といふのだけ捕つたのを、今年中の大手柄にして居ると、何時の間にやら、こんな飛んでもないところに罪を作つて居たのでした。

「そいつは氣の毒だ。岡つ引だつて鬼や蛇ぢやねえ、早くさういつて來さへすれば、何とかお前一人の身の振方位考へてやつたのに――」

「親分、さういつて下さると嬉しいけれど、私はどうせ大泥棒の妹だから」

「さうひがんぢやいけねえ、お前の身の立つやうに、及はず乍ら何とか工夫をしてやらう。もう死ぬなんて、つまらねえ心持は起しちやならねえよ」

「――」

お樂は泣いて居りました。

「親分、土左衞門は何うしました」

輕舸で摺れ違つたのは八五郎でした。河へ飛込んだ親分の身を案じて、西兩國の橋番所に駈け付けると、船を出して貰つて現場――橋の下――へ漕がせたのです。

「八か、何て口をきくんだ」

「それぢやお土左」

「馬鹿ツ」

こんな他愛のない掛合が、船の中の空氣をすつかり柔げてくれました。

「親分、寒かつたでせうね、――その女は橋番所に引渡して大急ぎで歸りませう。姐御は一本付けて待つてますぜ」

「この人を伴れて歸るんだ、駕籠をさういつてくれ」

「へエ――、お土左を? 物好きだねえ」

「つまらねえ事をいふな、――笹屋の旦那、それぢやこの女はあつしが引取つて參ります。飛んだお世話になりました」

Chapter 1 of 7