Chapter 1 of 8

「親分、あれを聞きなすったかい」

「あれ? 上野の時の鐘なら毎日聞いているが――」

銭形平次は指を折りました。ちょうど辰刻(八時)を打ったばかり、――お早うとも言わず飛込んだ、子分のガラッ八の顔は、それにしては少しあわてております。

「そんなものじゃねえ、両国の小屋――近頃評判の地獄極楽の活人形の看板になっている普賢菩薩様が、時々泣いているって話じゃありませんか」

一流の早耳、八五郎はまた何か面白そうな話を聞込んで来た様子です。

「地獄極楽の人形は凡作だが、招きの普賢菩薩が大した名作だってね」

「作人は本所緑町の仏師又六、大した腕のある男じゃねえが、あの普賢菩薩だけは、後光が射すような出来だ。そのうえ木戸番のお倉てえのが滅法いい女で、小屋は割れっ返るような入ですぜ」

「お倉と普賢菩薩を拝んで、極楽も地獄も素通りだろう。そんな野郎は浮ばれねえとよ」

「全くその通りさ、親分、――その普賢菩薩が、時々涙を流しているから不思議じゃありませんか、岡っ引冥利、一度は見ておかなくちゃ――」

「手前はもう五六遍見ているんだろう。懐の十手なんかを突っ張らかして、ロハで小屋を荒らして歩いちゃ風が悪いよ」

「冗談でしょう、親分」

ガラッ八をからかいながらも、銭形の平次は支度に取りかかりました。両国の活人形が泣いているというのは、どうせ勧進元のサクラに言わせる細工で、ネタを洗えば人形の眼玉へ水でも塗るんだろう――ぐらいに思ったのですが、それにしても、少し細工が過ぎて、なんとなく見逃し難いような気がしたのです。

「出かけようか、八」

「ヘエ――、本当に行ってみる気ですか、親分」

「岡っ引冥利、お倉と普賢菩薩は拝んでおけと――たった今手前が言ったじゃないか」

「お倉だけは余計ですよ、――ところで親分、行ってみるのはいいが、朝でなくちゃ泣いていませんよ」

「寝起きの機嫌の悪いお倉だ」

「お倉じゃねえ、泣くのは仏体で」

「あ、そうそう」

平次はまだからかい面ですが、気の合った親分子分は、こういった調子で話しながら、お互の微妙な心持を、残すところなく伝える術を知っているのでした。

「明日の朝にしちゃどうでしょう、親分」

とガラッ八。

「早い方がいいぜ、明日行ってみたら普賢菩薩が笑っていたなんてえのは困るだろう。そうなると、岡っ引より武者修業を差向けた方がいい」

「口が悪いな親分、もっともここから向う両国までは一と走りだから、涙の乾く前に着くかも解らない」

二人は無駄を言いながら、朝の街を飛ぶように、両国橋を渡って、地獄極楽の見世物の前に立った時は、もう気の早い客が、五六人寄せかけておりました。

「いらっしゃい、御当所名題の地獄極楽活人形、作人の儀は、江戸の名人雲龍斎又六、――八熱八寒地獄、十六別所、小地獄、併せて百三十六地獄から、西方極楽浄土まで一と目に拝まれる、一流活人形はこちらでござい」

木戸番はお倉という新造、塩辛声の大年増と違って、こいつは水の滴るような美しさを発散しながら、素晴らしい桃色の次高音でお客を呼ぶのでした。

襟の掛った少し地味な銘仙、繻子の帯、三十近い身柄ですが、美しさや声の韻から言うと、せいぜい十九か二十歳でしょう。白粉っ気なしの疣尻巻、投げやりな様子も、一種の魅力で、両国中の客をここへ吸い寄せたのは、何としても普賢菩薩のせいばかりではないようです。

「八、大層な木戸番だな」

と銭形の平次も少し感に堪えます。

「ね、親分」

八五郎のガラッ八は、呑込み顔に顎をしゃくると、平次の後から狭い木戸を通りました。

Chapter 1 of 8