Chapter 1 of 7

相模屋の若旦那新助は二十一、古い形容ですが、日本橋業平といはれる好い男の癖に、去年あたりからすつかり、大弓に凝つてしまつて、大久保の寮に泊り込みのまゝ、庭ので一日暮すことの方が多くなりました。

主人の喜兵衞はそればかり心配して、親類や知己に頼んで、縁談の雨を降らせましたが、新助はそれに耳を傾けようともしません。

大久保の寮の留守番には、店中の道樂者茂七を置いて、出來ることなら、若旦那新助の趣味を、歌舞伎芝居なり、江戸小唄なりに振り向け、間がよくば、遊びの一つも覺えさせようとしましたが、それが大當て違ひで、道樂者の茂七までが、木乃伊取りが木乃伊になつて、大弓に凝り始めたといふ情報が、大久保にやつてある下男の權治の口から店の方へ傳へられました。

相手とも師範ともなるのは、同じ大久保のツイ近所に住んでゐる浪人者佐々村佐次郎、これは二十六七、男が好く、器用で、字もよく書き、弓もよく引き、法螺もよく吹く、一向身は持てないが、その代り遊び友達には此上もなく調法な男でした。

その日も晝頃から始まつて、申刻前にはかなり草臥れましたが、近頃油の乘つて來た新助は、なか/\止さうと言ふことを言ひません。

「熱心も宜いが、お茶を淹れるのを忘れては困るな、俺は咽でも濡らして來る」

佐々村佐次郎は町人風なぞんざいな口を利いて、そゝくさと肌を入れると、苦笑を殘して立ち上がりました。

十月といつても、半日陽に照りつけられると、全く樂ではありません。

それから又暫らく――。

「若旦那、お茶でも淹れさせませうか。當る當らないと言つても、凡そ程合ひのあるもので、――今日はまるで的の方が逃げて居るやうですぜ」

茂七はおどけた顏をしました。主人にこんな事を言ひ乍ら、少しも怒らせないやうな、滑らかな調子があります。

「無禮なことを言ふな、茂七、――お前が見て居るから當らないんだ。向うを向いて居るがいい。一本で金的を射止めるから」

「へエ」

「お前の顏を見ると、大概の的は逃げ出すよ。後向になつて御覽」

「矢を持つて驅けて行つて、的へ突つ立てるんぢやないでせうね、若旦那」

「馬鹿にしてはいけない。私は本當に怒るよ」

「へエ/\斯んな工合に?」

茂七は神妙に後向になりました。

「顏も其方へ向けるんだよ。眼の隅から、チラチラ見たりしちやいけない」

「へエ――驚きましたネ、――的の方が飛んで來て、食ひ付きやしませんか」

「――」

冗談を言ふ茂七には取り合はず、新助は本矢に近い頑固な鏃が入つた稽古矢を一本選ると、その根の方へ、袂から取出した矢文――小菊へ細々と認めて、一寸幅ほどに疊んだのをキリヽと結び付け、手馴れた弓につがへて、ひやうと射ました。

矢はの上を遙かに越えて、その後の疎らな木立を拔け、隣の庭――植木屋の松五郎の庭――へと飛んで行きます。それからほんの暫らくの後――。

「もう宜いんですか、若旦那」

さう言ふ茂七の聲と、植木屋の庭から聞える不氣味な悲鳴と一緒でした。

「――」

新助は何とも知れぬ豫感に、サツと顏色を變へます。

「何でせう? 若旦那」

「――」

新助は立ち盡しました。の上を越して、隣の庭へ射込んだ矢は、何時でも松五郎の娘のお駒が、間もなく木戸を開けて、『矢が飛んで參りました』――さう言ひ乍ら、袂でくるんだやうに捧げて、新助の手へ渡してくれるのですが、今日は何時まで經つてもお駒の姿は見えません。

そればかりでなく、隣の庭は次第に騷がしくなつて、泣き聲や、人を呼ぶ千切れ/″\の聲までが、筒拔けに聽えて來るのでした。

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