一
菊屋傳右衞門の花見船は、兩國稻荷の下に着けて、同勢男女十幾人、ドカドカと廣小路の土を踏みましたが、
「まだ薄明るいぢやないか、橋の上から、もう一度向島を眺め乍ら、一杯やらう」
誰やらそんなことを云ふと、一日の行樂をまだ堪能し切れない貪婪な享樂追及者達は、
「そいつは一段と面白からう、酒が殘つて居るから、瓢箪に詰めて、もう一度橋の上に引返さう、人波に揉まれ乍ら、欄干の酒盛なんざ洒落れて居るぜ」
そんな事を言ひ乍ら、氣を揃へて橋の上に引返したのです。
暮れ殘る夕暮に、大川の水面を薄紫に照して、向島のあたりは花の霞の裡に、さながら金砂子を撒いたやう。
橋の上は水の面も見えぬまでに、さんざめく船と船、これから夜櫻見物に漕ぎ出るのでせう。まことに『上見て通れ兩國の橋』と言つた、低俗な道歌も、今宵だけはピタリとした氣分です。
「成程こいつは洒落れてゐるぜ、サアサア店を擴げたり擴げたり」
欄干に銘々の盃を置いて、乙女たちが人波に揉まれ乍ら、その間を注いでまはります。
兩國橋の上には、いろ/\の物賣りが陣を布いて、橋の上から水肌まで、桃の皮を剥いで垂らした時代です。交通整理も何もあつたものでなく、橋下の船の中の賑ひと呼應して、庶民歡樂の立體圖をそのまゝ、それはまことに、亂雜の中の秩序、無作法の中の美しさとも言ふべき見物でした。
菊屋傳右衞門は、横山町の大きな金貸しで、五十年輩の酒肥りのした老人ですが、それを圍んで、欄干に猪口を据ゑた一族郎黨は、番頭の孫作、手代の伴造、遠縁の清五郎、隣の小料理屋――柳屋の主人幸七、その女房で良い年増のお角、出入りの鳶頭文次、それに若くて綺麗なところでは、娘のお吉、若旦那の許嫁のお延、下女のお市、御近所の娘お六、お舟のともがらを加へてざつと十五人。
暫らく薄れゆく夕明りを惜み乍ら、差しつ押へつ、欄干の饗宴は果てしもなく續くのでした。往來の人達は、少し苦々しく、この放縱極まる酒宴を眺めて行きますが、當人達は更に驚く樣子もなく、わざと突き當つたり、押しのめしたりする往來の人と、威勢の良い惡口を應酬し乍ら、盃の献酬は、お互の顏の見わかぬまで續きました。
やがて四方が眞つ暗になつて、橋の上の人波もやゝ班になると、菊屋の同勢もさすがに酒も興も盡きます。
「さて、そろ/\歸るとしようか」
主人の傳右衞門が聲を掛けた時でした。花見歸りらしい幾十人かの大きい團體が、揉みに揉んでドツと本所の方から橋の上へ襲つて來たのです。
「危ない/\」
「退いた/\」
除ける間もなく、菊屋の同勢を押し包むやうに揉んで、西兩國の方へ、どつと引いて行きます。
「何んといふことだ」
「隨分亂暴な人達ねエ」
女達が不平たら/\、衣紋や髮飾りを直して居ると、主人の傳右衞門が、
「ウーム」
恐ろしいうめき聲と共に、ガクリと欄干の上に崩折れたのです。
「旦那、どうしました」
それを抱き上げるやうに覗き込んだのは、番頭の孫作と隣家の主人――柳屋の幸七でした。
「灯、灯だ、――旦那がどうかなすつたやうだ」
幸七が聲を絞りましたが、さて此處に灯を用意して居る筈もありません。
だが、遠縁の掛り人清五郎と、鳶頭の文次は早くも橋番所に駈けて行きました。その間に柳屋の幸七は、
「旦那、どうしました。氣分でも惡いんですか、旦那」
後ろから抱き上げると、何やらぬらりと手に附くもの、僅かに殘る薄明りにその手を透して見ると、
「あツ、血」
驚いたのも無理はありません。兩掌から腕へかけて、生血でべつとり。
「何? 血?」
と孫作。
「大變ツ、旦那を突いて逃げた奴があるんだ」
幸七は年甲斐もなくひどく取亂して居りましたが、思ひ直した樣子で、
「灯、灯だ」
提灯を持つて行く人を呼びかけます。
だが、此時代の人はひどく掛り合ひを恐れたもので、事件が容易でないと見ると、一度集つた彌次馬も、バラバラと逃げ腰になつてしまひます。
「仕樣がないなア、怪我人があるんだ、灯を貸して下さい」
逃げて行く二三人を追ひ掛けた幸七は、五六間も追つ驅けて、漸く提灯を一つ借りて來ると、慘憺たる現場がマザマザと照らし出されるのでした。
「あツ旦那」
「確りして下さい、旦那」
番頭の孫作と、柳屋の幸七は、左右から抱き起しましたが、主人傳右衞門は、一塊のボロ屑のやうに欄干に蹲くまつて、最早息があらうとも覺えず、生命の最後の痙攣が、僅かにその四肢に殘るだけです。
傷は左の胸らしく、其處から噴出した血は下半身を染めて、橋板の上に流れて居りますが、此凄まじい光景を取卷くのは、菊屋の同勢だけで、其處にはそんな大それた事をしさうな顏もありません。
「退いた/\」
其處へ驅付けたのは、清五郎と文次を案内に、橋番所の役人と、此邊を繩張にして、花時の警戒に當つて居たガラツ八の八五郎、それに彌次馬の一隊でした。