Chapter 1 of 6

兩國橋を中心に、大川の水の上にくり擴げられた夏の夜の大歡樂の中を、龜澤町の家主里見屋吉兵衞の凉み船は、上手へ、上手へと漕いで行きました。

船は大型の屋形で、乘つて居るのは主人吉兵衞、娘お清、養子の喜三郎、番頭周助、それにお長屋の衆が五六人野幇間の善吉に、藝者が二人、船頭が二人、總計十四人といふ多勢で、三味と太鼓の大狂躁曲に、四方の船を辟易させ乍ら、さながら通り魔のやうに白髯のあたりまで漕ぎ上つたのです。

夜は暗く、雨模樣でさへありました。六月二十二日の月はまだ昇らず、意地惡く風さへ死んで、飮んで騷いで大汗になつて、この凉はまことに散々でしたが、アルコールがゆき渡ると、それさへも忘れて、恐るべき出鱈目騷ぎが次から次へと、天才的な飛躍で展開するのです。

この狂躁曲の演出者は、野幇間の善吉で、藝者の粂吉とお吉がその助手。それに女小間物屋のおけさ、その娘のお六、指物職人の勘太、その妹分のお榮など、いづれも申分のない藝達者でした。

これだけ藝達者が揃ふと、小唄や爪彈きや、ほろ醉ひや膝枕の情緒を樂しむ、しんねこ趣味の船は寧ろ邪魔つ氣で、白髯まで伸して、川幅一パイに騷ぐのもまた一つの馬鹿々々しい境地だつたのです。

「あゝくたびれた。まるで御馬前に討死の覺悟でやつてるやうなものだ、安い日當ぢや斯うは稼げねえよ」

野幇間の善吉は、良い年をして居る癖に、お臍で煙草を吸はせて、お尻に彦徳の面を冠せて、逆立ちになつてかつぽれを踊つて、婆ア藝者のお粂と拳を打つて、ヘトヘトに疲れると、お燗番の周助にねだつて、湯呑で一杯呷つて斯んな憎い口をきくのです。

妙に生温かいと思つたら、夕立の來る前觸れでもあつたのでせう。金龍山の堂の上あたりで、遠稻妻が一と打ち二た打ち、それを合圖のやうに、サツとオゾンの匂ひのする突風が吹いて來ると、屋根船の灯の半分を消して、軒に提げた提灯も幾つかは吹き落されてしまひました。

「あツ、怖い」

「もう歸りませうよ」

若い女達の騷ぐのへ押ツ冠せるやうに、

「雨なんか來るものか、――まだ早いよ。お燗を直して改めて飮み直さう」

養子の喜三郎、良い男で道樂者で、精力的で押が強くて、遊びに飽きることを知らないのが聲を掛けると、撥條を卷かれた竹田人形のやうに、一座の人數は再び勇氣を取り戻して、歡樂の殘滓の追求に立ち直るのでした。

「酒だ、酒だ」

野幇間の善吉がそれに應じました。

「此處で用意した灘の生一本を開けよう、――善公なんかに呑ませちや勿體ないくらゐの酒だが、お仕着せに一本づつだぜ」

喜三郎は最初の一本――赤い紐で徳利の口に目印をつけたのを、養父の吉兵衞にすゝめて、あとは一本づつ男の膳に配らせました。それが一巡りゆき渡ると、又も煽られたやうに、亂痴氣騷ぎが蘇生るのです。

浪人者出石五郎左衞門は、下手な謠を始めました。名前は恐ろしく立派ですが、五十二、三の鹽垂れた中老人で、里見屋の長屋に住んで、家主吉兵衞の碁の相手などをして、細々と暮して居る、影の薄い二本差です。

「こいつは三味線に乘りつこはねえや。此方は一番すてゝこと行かうか、お家の藝だぜ」

善吉はフラフラと立ち上がりました。

「駄目よ、師匠は醉つて居るから、――あ、あ、それ御覽、お膳を穿いてしまつたぢやないか」

お粂に叱られ乍ら、善吉は膳の上を這ひ廻つて居ります。

丁度その時でした。又一陣の突風がサツと吹いて來ると、簾を中空に卷き上げて、殘る灯を全部吹き消してしまつたのです。

「あ、灯がみんな消えたぢやないか。誰か、火打道具の用意はないのか」

主人吉兵衞の聲が船の中程からかゝると、

「へエへエ唯今、硫黄附木がありますから、七輪の火からすぐ附けられます」

艫の方から答へるのは、お燗番の周助でした。

その灯がなか/\手輕るに提灯や手燭には點かず、船中を硫黄臭くして居る最中、

「あ、わツ」

不思議な絶叫と共に、凄まじい水の音がして、船の中まで飛沫ましたが、やがてその音もハタと止んで周助の手に灯の入つた提灯が掲げられると、船の中の一箇所、齒の拔けたやうに人が缺けて居るのです。

「若旦那が見えないぢやないか」

小間物屋のおかみで、おけさといふ中年女は若旦那の喜三郎と向ひ合つて居たので一番先に氣が付きました。

「お手水場ぢやないか」

野幇間の善吉は、けろりとして膳を穿いたまゝ、氣のない顏を擧げました。

「船の上だよ、お前さん」

それをたしなめるやうにおけさは四方を見廻します。

「さう言へばツイ今しがた、――水の音がしたやうだが――私は魚がはねるのかと思つたけれど」

年増藝者のお粂でした。

「川なら大丈夫で。河童の申し子と言はれた若旦那ですよ、今に龍宮からお土産を持つて來ますぜ」

番頭の周助は柄にもない洒落たことを言ひます。

「それにしても、斯う暗くちや」

出石五郎左衞門でした。間もなく船中の灯はみんな點けられ、船は二人の船頭に漕がれて、下手へ/\と少しづつ動いて行きましたが、若旦那喜三郎は矢張り川へ落ちたらしく、それつきり姿を見せなかつたのです。

船中は興も醉も醒めてしまひました。船頭を走らせて夜中乍ら出せるだけの船を出し、川の上流下流隈なく搜しましたが、若旦那喜三郎はそれつきり見付かりません。

「何しろ酒を呑んで居たからなア、少しくらゐ泳げたところで――」

出石五郎左衞門は首を捻ります。夜の夕立は遠く外れて、雨の心配はなくなりましたが、斯うなると新しい心配にひしがれて、男も女も顏色はありません。

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