Chapter 1 of 6

「八、あれに氣が付いたか」

兩國橋の夕景、東から渡りかけて平次はピタリと足を停めました。

陽が落ちると春の夕風が身に沁みて、四方の景色も何んとなく寒々となりますが、橋の上の往來は次第に繁くなつて、平次と八五郎が、欄干に凭れて水肌を見入つてゐるのを、うさんな眼で見る人が多くなりました。

「雪駄直しでせう。先刻から三足目の註文ですが、良い働きですね」

「お前も一つやつて見る氣になつたか」

「有難いことに、これでも檀那寺に人別はありますよ」

「雪駄直しぢや不足だといふのか、罰の當つた野郎だ。見て居ると、雪駄直しの合間々々に、往來の人から手紙を受取つたり、懷から手紙を出したりしてゐるだらう、雪駄直しの片手間に、使ひ屋にも頼めねえ文を預かつて居るんだね、細くねえ商法ぢやないか」

兩國の橋の袂の雪駄直しが、お店者や水茶屋の姐さん連の文の受け渡しをして、飛んだ甘い汁を吸つてゐようとは、錢形平次も思ひ及ばなかつたのです。

雪駄直しといふのは、編笠を冠つた爺々むさい男が多いのですが、これは若くて小意氣で、何かの彈みに顏を擧げるのを見ると、編笠の下の顏は二十七八、苦み走つた良い男でさへあります。

「聲をかけて見ませうか」

八五郎は相變らず好奇心でハチ切れさうです。

「待ちなよ、脅かすと鳥が立つ」

「へエ」

「錢の外に膝の下に、眞鍮の花形になつた變なものを持つて居るだらう」

「もう暗くなるから、店を仕舞ふに違えねえ、お前はそつと後をつけて行つて見るが宜い」

「やつて見ませう」

橋の袂に隱れて、雪駄直しが店を片付けるのを待つて、八五郎がその後を跟けて行つたことは言ふ迄もありません。

その頃になるともう、橋の上にも橋の外にも、さすがに陣立ひろげて居る者もなく、謠を歌つてゐた浪人者も、齒磨を賣つて居た居合拔きも、法螺の貝を吹き立てゝゐた修驗者も姿を隱して、橋は暮色のうちに、靜かに暮れて行きます。

その晩亥刻(十時)少し前、八五郎は世にも哀れな姿で、明神下の平次の家へ飛込んで來ました。

「わツ、面目次第もねえが――親分」

などと濡れ鼠になつた姿を上り框に這ひ上つて少し醉つてゐるやうでもあります。

「どうした、八、二つ三つ背中をどやしつけてやらうか」

平次は障子を押しあけて、その體たらくを灯にすかし乍ら、ひどく不機嫌さうです。

「いやもう、それには及びませんよ」

「それとも井戸端へ連れて行つて、釣瓶で二三杯御馳走しようか」

「もういけません、水も酒もお斷りだ。お藏前で散々呑んだが、大井の水はあまり結構ぢやねえ」

「あんな野郎だ、――折角跟けさした、雪駄直しはどうしたんだ」

「その事ですよ、親分、兩國を渡つて、お藏前までつけて行くと、あの野郎いきなり足を留めて、ちよいと親分――と聲を掛けるぢやありませんか」

「フーム」

「どうせ感付かれたものなら仕樣がねえ、と、性根を据ゑて、何んだ若けえの――とやり返すと」

「――」

「十手のガン首が、懷中から喰み出してゐるのはイキで良い、――同じつけて下さるなら、話し乍ら行かうぢやありませんか。退屈しなくつて飛んだ助かる――てやがる」

「人を喰つた野郎だな」

「それから、あの雪駄直しの言ふ事には、――駒形樣の門前に、馴染のどぜう汁があるから、つき合つちやくれませんか。腹を減らして、誰も待つて居てくれないお屋敷へ歸るなんざ智慧が無さ過ぎるし、親分の方にお調べがあるなら、かう一杯キユーツとやり乍ら承はらうぢやありませんか。あつしと一緒に呑むのが嫌だと仰しやるなら、膳だけ別にして背中合せでやることにしませう、お役人に粕臭え酒をおごつちや、あつしも仲間に濟まないし、親分だつて、十手のガン首に相濟まねえことになるでせう――とかうだ」

「行屆いたことだな」

「それから、二人で始めましたよ。下地は好きなり御意はよしと來ましたね、あの野郎と背中合せになつて、てんでの銚子から、呑むほどに浴びる程に、どぜう汁が來た時は、もう大ヘベレケ」

「頼りない野郎だな」

「それでも役目の方は忘れませんや。根ほり葉ほり訊くと、あの野郎、山の宿の三軒長屋で、留吉と言へば知らない者の無い男ですつてね。――お調べの筋は何んですか知らないが、雪駄を直す外には藝當の無い男でござんす、家へ歸つたつて女房も子供もなく、連れ添ふのは自分の膝つ小僧ばかり、毎日儲けただけづゝ呑んでしまつて、明日の事は考へないことにして居るし、かうですよ」

「あの手紙の取次と、手紙と一緒に見せた眞鍮の札は何んだつたか、訊かなかつたのか」

「訊きましたよ、恐ろしく念入りに。すると、雪駄直し丈けぢや暮しの足しにも、飮代にもならないから、頼まれて人樣の手紙を取次いでゐるが、數多いことで、一々顏を覺えちやゐない。そこで飾り屋に頼んで眞鍮の迷子札のやうなものを打たせ、番號をつけて、それを一緒に見せて貰ふことにして居る。番號を合せて手紙を渡さないと、八兵衞さんの勘定書が六兵衞さんへ行つたり、お光坊の戀文がお花坊のところへ間違つて行かないものでもない――とね」

「成程、それで一應はわかつたが、それからどうしたんだ」

「其處まで聞けば、山の宿の家へ行つて見るまでもあるまいと、黒船町で別れて、ブラリ/\と引返すと、後ろからやつて來た人間が、摺れ違ひ樣、あつしの襟髮に手を掛けて、阿身陀樣に背負はれたと思つたら、あつといふ間もなく、頭の上で二つ三つもんどり打たせられ、氣のついた時は、大川の水の中に抛り込まれて居ました。岸から一間も先へ飛込んだから、冷やりとしただけで、幸ひ怪我は無かつたが――」

「馬鹿野郎、誰がお前の怪我なんか氣にして居るんだ」

「へエ」

「呆れ返つてモノが言へねえ。第一あの雪駄直しは、山の宿の留吉なんかぢや無いぜ」

「へエ? 親分はそれを知つて居たんですか、隨分、人が惡い」

「お前に後を跟けさせてから、橋番始め近所の衆に訊いたんだよ」

「なーアる」

「あの雪駄直しは、山谷の巳之松といふ男さ。わけがあつて自分から身を落してあんなことをして居るんだとよ、わけても柔術は名人ださうで、お前のやうな間延のした人間を、二人や三人大川へ抛り込むのは屁でもない」

「よーしツ、明日は兩國へ行つて、あの野郎をヒドい目に逢はせなきや」

「無駄だよ、當分兩國橋の側へも寄りつくものか」

「へエ」

八五郎は如何にも口惜しさうですが、この一夜の冒險は、思ひ措くところなき大失敗です。

Chapter 1 of 6