Chapter 1 of 8

江戸の閑人の好奇心は、途方もないところまで發展しました。落首と惡刷りと、グロテスクな見世物が、封建制の彈壓と、欝屈させられた本能の、已むに已まれぬ安全瓣だつたのかも知れません。

錢形平次のところへも、夥しい忠告と、皮肉と、當てつ摺りと、中傷の手紙が舞ひ込みます。それを一々取合つても居られないのですが、中にはどうかして、思ひも寄らぬ事件に發展するものもないではありません。

栗唐一座の、眞珠太夫の噂も、近頃平次の注意を惹いた一つでした。何しろ、善惡共に滅茶滅茶の評判です。惡口の方は、商賣敵の陷穽にきまつて居ますが、漠然と江戸中に擴がつた、眞珠太夫の人氣も大變なものです。これだけの人氣をたつた三月くらゐの間に掴んだのは、切支丹の魔法使ひではあるまいか、と飛んだことを言ふあわて者もあつた程です。

眞珠太夫といふのは、泰西のヴイナスの傳説のやうに、越中の國で蜃氣樓を吐く大蛤を見付け、磯へ引あげて一と晩砂濱へ置くと、中から、玉のやうな女の兒が生れたといふのです。

長ずるに從つて、それは美しくも悧發にもなりました。琴棋書畫いづれもおろそかなものはなく、わけても、踊りと唄は習はざるに體得して、これが、大變な魅力になりました。

長く信州の山の中に隱れてゐたのが、この正月江戸へ出て來ると、たつた三月の間に、氣の早い江戸つ兒を、すつかり捕虜にして了ひ、最初は町々の寄席を歩いて居りましたが、凄まじい人氣に押しあげられて、三月になると兩國に小屋を借り、『娘手踊栗唐一座』といふ大看板を掲げてしまひました。

あんまり評判が凄まじく、それに伴ふ中傷も多くなつて、捨て置き難い有樣になつたので、平次は到頭八五郎を檢分にやる氣になりました。そんなことはまた、好きで/\たまらない八五郎です。

少し遲れた櫻が、三月になつても蕾がふくらみかけただけ、閏月を控へて、お祭騷ぎの好きな江戸つ兒達は、花を待つのがもどかしさうでした。

それから三日、恐ろしく手間取つて八五郎が歸つて來ました。

「親分、今日は。御無沙汰いたしました」

手拭を肩から外して、それで埃だらけの足でも拂ふのかと思ふと大違ひ、押し頂くやうに、月代を撫で廻す八五郎です。

「御無沙汰過ぎるよ。兩國へひとつ走りのつもりでやつたのは三日前だぜ」

「相濟みません。念入りに調べたもので」

「越中の國まで行つて、大蛤でも調べたのか」

「そんなわけぢやありませんがね。何しろあの眞珠太夫の人氣には驚きましたよ」

「お前もその魔法に掛つて、三日も金縛りになつたんだらう」

「へツ、魔法とやらに掛り度えくらゐのもので――取つて十八といふんだから、まだ本當に小娘ですが、その綺麗なことと言つたら」

「涎を拭けよ、八」

「相濟みません。噂をしてこれくらゐだから、眞物を見ると氣が遠くなつて、唄を聽いたり踊りを見たりすると――」

八五郎の語彙には、形容の言葉もなくなつて、唯もう兩手を、ワヤワヤと宙に泳がせるのです。

「三日も立てつ續けに眼を廻して居たんだらう。まア宜い。それからどうした」

「眞珠太夫とはよく言ひましたね。身體が透き通つて、うぶ毛が銀色に光つて、本當に桃色眞珠で拵へたやうな娘ですよ。あんまり肌が綺麗だから、他の者の附けて居る白粉も紅も小汚なく見えるくらゐ。その踊りと來たひにや」

「もう澤山だが、お前の踊りの眞似は案山子に魔が差したやうで、氣味がよくねえ」

「それに聲が良い――」

「もうわかつたよ。切支丹の魔法でも、若い男を生け捕つて、精血を絞るんでもなささうだ。唯の娘の子の綺麗なのは、こちとらに用事はねえ。――俺のところへ來た手紙では、その眞珠太夫に焦れた男は、何人となく死んでゐるといふから、唯事でないやうに思つたのよ」

「綺麗に生れついたばかりに、男を焦れ死にさしたところで、それだけぢや罪にも科にもなりませんね」

「大の男が、女の子に焦れただけで、さう脆く死ぬものだらうか。お前は情事にかけちや本阿彌だと言つてるが、どんなものだ」

「へエ、あつしも焦れ死にした覺えはありませんがね」

「間拔けだな」

八五郎の報告は、相變らずこの調子です。

とも角も、眞珠太夫の人氣は、江戸中の評判で、湯屋でも床屋でも、共同井戸でも、男も女もその噂で夢中でした。鈴木春信の描いた笠森お仙、喜多川歌麿の描いたお北など、一世を風靡した美人も少なくはありませんが、栗唐一座の眞珠太夫もまた、それに劣らぬ評判を取りました。

但し、掛り合ふ男は、必ず死ぬ――といふ噂も根強く、確かな證據はないのですが、妙に無氣味な陰翳があつて、この美しい娘太夫を、益々怪奇な、そして美しいものに仕上げてしまつたのです。

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