Chapter 1 of 7

「あ、八五郎親分ぢやありませんか」

江の島へ行つた歸り、遲くもないのに、土藏相模で一と晩遊んだ町内の若い者が五六人、スツカラカンになつて、高輪の大木戸を越すと、いきなり聲を掛けたものがあります。

「誰だい、俺を呼んだのは」

振り返ると、海から昇つた朝陽を浴びて、バタバタと驅けて來た女が一人、一行の前に廻つて、大手を擴げるではありませんか。

「巴屋のお六よ、忘れたぢや濟まないでせう。家は、大變な騷ぎ」

女は早立ちの旅人が、眼を聳てるのも構はず、八五郎の袂を取つてグイグイと引くのです。

「待つてくれ、無闇に引つ張ると、袖口がほころびる。家へ歸ると、叔母さんに叱られる」

「冗談ぢやない。紅白粉で、裲襠を着た叔母さんがあつたまるものか。此方には人殺しがあつて二三人縛られかけて居るんだから、來て下さいよ、親分。何んの爲めに十手なんかブラさげて、江の島詣りをするんだい」

女はまくし立てて、八五郎を引張るのです。高輪車町の巴屋といふのは、江戸の土産物も賣り、店では一杯飮ませて、中食も認めさせますが、横へ廻ると立派な旅籠屋で、土地も家作も持ち、車町から金杉へかけての、物持として有名な家でした。

一昨日江戸を發つとき、巴屋へ押し上がつて、旅の前祝ひの大騷ぎをやらかし、二人の女中、お六とお梅といふのを、散々からかつたことは、八五郎も忘れる筈はなく、相手のお六も、品川から朝立ちで、江戸へ戻つて來た賑やかな旅人の中から、八五郎の長んがい顎を見付けたのも無理のないことでした。

「人殺しは穩かぢやねえ。誰がどうしたんだ」

「旦那が殺されたんですよ。金杉の竹松親分が乘り込んで來て、ギヨロギヨロ睨め廻して居るから、氣味が惡くて皆んな顫へ上がつてゐますよ。八五郎親分なら、地藏樣でも縛つて行つて下さるわねえ」

三日前の晩の、羽目を外した騷ぎを知つてゐるので、お六はすつかり八五郎を甘く見てゐる樣子です。尤も、神田を發つたのは遲かつたにしても、馴染があるとか何んとか、仲間の者に誘はれて、高輪で宿を取つてしまひ、『おいとこさうだ』に『炭坑節』『トンコ節』から『東京ブギ』の類ひまで踊つたり唄つたり、あらゆる醉態を見せた一行の、オンド取りの八五郎が、お六に甘く見られたのも無理のないことでした。

このお六といふのは、渡り者の大年増で、中低で盤臺面の、非凡の愛嬌者で、高輪の往來――遲發の旅人の、好奇の眼を見張る中から、八五郎をしよつ引いて、巴屋の店に飛び込むほどの勇氣と腕力を持つてゐたのです。

入つて見ると、巴屋は表戸をおろしたまゝ、中の騷ぎは大變でした。主人山三郎は、裏庭の崖下に、石の地藏樣を抱いたまゝ轉げ落ちて、その上、刺身庖丁で首筋を深々と刺され、更に、縞の前掛で顏を包んで、眞田紐でその上を、耳から眼、鼻へかけて縛つてあるのです。

「おや、向柳原の八五郎兄哥ぢやねえか」

暗い中から光つた眼は、金杉の竹松といふ、四十年配の顏の良い御用聞でした。

「金杉の親分ですかえ。江の島の歸り、騷ぎがあると聽いて覗きました。見せて頂くと、神田へ歸つて、錢形の親分に、飛んだ良い土産話になります」

八五郎も近頃は、こんな世辭が言へるやうになつたのです。

「さうか、蓋も底もねえやうな殺しで、大方下手人の見當もついたやうだ。貝細工よりは、氣のきいた土産になるかも知れないよ。見るが宜い」

金杉の竹松はすつかり良い心持ちになつた樣子で、金壺眼を細めます。

主人山三郎の死骸は、裏の一と間に納め、香華だけは供へましたが、まだ佛前の用意も、入棺の手順もつかず、多勢の家族と奉公人と、町役人と近所の衆が、ザワザワと騷ぐだけ。

「幸ひと申しませうか、昨夜は一人も客がなく、――尤も此處は江戸の内と申しても、海道の入口ですから、泊りのお客は滅多にございません。奉公人達も早寢をして、今朝はいつも早起きの甲子松が、雨戸を開けて庭を覗くと、――主人が崖下の裏庭に轉げてゐたんださうで。前掛で顏を被つて、崖の中腹に建立してあつた、地藏樣を抱いて、――」

番頭の勘三郎は金杉の竹松に代つて、八五郎に説明してくれました。三十五六のこれはなかなかの好い男で、道樂強さうですが、ハキハキした口調から察すると、なか/\の働き者でもありさうです。

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