一
錢形の平次は、椽側の日向に座布團を持出して、その上に大胡坐をかくと、女房のお靜は後ろに廻つて、片襷をしたまゝ、月代を剃つて居りました。
八五郎は少し離れて、頬杖を突いて足を投げ出し、お先煙草を立てツ續けに燻して、これも引つきりなしに、無駄の掛け合ひをして居ります。
「お願ひだから八五郎さん、その冗談は止して下さいな。今丁度髯にかゝつてゐるんですもの、吹き出すたびに、危なくて危なくて――」
お靜は困じ果てて、剃刀を持つた白いかひなをあげました。不斷着の粗末な身扮、八つ口の赤いのだけが眼に沁みますが、身體にも若さと優しさがあつて、何んとも言へない良いポーズです。
「剃刀を使つてるものを笑わせるのは危ないぢやないか。一つ間違へば、下手人はお前だ」
平次は扇面型になつた、毛受けを下に置いて、方圖もなく冗談を言ふ八五郎をたしなめました。
「私は不器用で、剃刀はそりや下手なんだから」
お靜は自分のせゐにして、それとはなしに八五郎を庇つてやるのです。
「不器用は俺さ。貧乏人は、自分で月代をするくらゐの修業をするのもたしなみだが、知つての通り、俺は、髯を剃つても無事ぢや濟まないから、女房を仕込んでゐるんだが――」
平次はさう言つて、苦笑ひをするのです。平次の不器用は通りもので、ろくな棚も釣れないくせに、捕物となると、用意周到で、鬼神の働きをするのを、八五郎は不思議でたまらなかつたのです。尤もさう言ふ八五郎も、あまり器用ではなく、お靜の手から剃刀を取上げて、親分の月代をしてやるほどの自信はありません。
その頃の女は、剃刀を使へるのが一つのたしなみで、姑の眉を剃つてやつたり、亭主の髯を剃つたり、赤ん坊の罌粟坊主を剃つたり、なか/\に利用價値があつたわけです。安全剃刀のなかつた時代、亭主が度々髮結床へ行つて、將棋を指してばかり居られなかつた社會の、それは親しみ深い、つゝましやかな風景の一つだつたのです。
「ところで、どうした、まだ顎の下が殘つてゐるやうだが、急に止したりして」
平次は首をねじ曲げて、後ろを振り返りました。髯を剃るのを半分にして、肝心のお靜が、立ち縮んでしまつたのです。
「でも、私、急に怖くなつたんですもの、――濟みませんけれど、八五郎さん代つて下さいな」
お靜は何を考えたか、心持顏色が惡く、白い額に、僅かながら、冷汗が浮いて居るのです。
「代つて上げても構はないが、あつしも器用ぢやないから、親分の喉笛を掻き切るかも知れませんな」
「あ、宜いとも、思ひ置くところなくやつてくれ」
あゝ言へば斯うです。眼を半眼に、首を伸ばして見せる平次です。
「お願ひだから、そんな話は止して下さいな。私はもう」
お靜は剃刀を箱の中に入れて、小娘のやうに自分の眼を蔽ふのでした。
「おい、どうしたんだ。このまゝぢや外へも出られないぜ」
「でも、本當に怖いことを思ひ出したんですもの、それもツイ昨日」
「何があつたんだ、話して見な」
平次は問ひ返しました。どうかすると、自分の胸一つに疊んで、つまらない苦勞してゐる、日頃のお靜の氣性を知つてゐる平次には、その日のお靜の恐怖が、尋常でないものを見拔いたのです。
「お話して宜いでせうか」
御用のことに口を出すな――と、日頃嚴しく言はれてゐるお靜は、何處までが御用に關することか、それがわからなかつたので、ツイ言ひそびれて居たのでせう。それに平次が忙し過ぎて、この二三日は靜かに話す隙もなかつたのです。