一
「お嬢さん、あなたはヴァイオリンをひきますか」
隣席の西洋人は、かなり上手な日本語で、斯う信子に話しかけました。
「ハ、イーエ、私のでは御座いません、これは兄ので――」
信子は少しドギマギしながら、ヴァイオリンの革箱を椅子の上に置いて、心持顔を赧らめました。
身体も大きく、心持も大人びて居りますが、信子はまだほんの十六になったばかり、可愛らしい円顔にお河童で、碧色の勝った、更紗ボイルの洋服も、又なくハイカラですが、まだ学校の英語の先生の外には、西洋人というものに話しかけられた事が無かったのです。
「お兄様というと?」
中年輩の立派な西洋人は、その優しい青眼をまたたいて、腑に落ちないような顔をして居ります。
軽井沢を宵に発った汽車が、丁度高崎近くまで来た時のことです。二等車の中は存分に空いて居りましたが、ゆっくり寝そべるように、立花兄妹は別れ別れに席を取ったので、この若くて美しい信子に、連れがあろうとは誰も思わなかったのでしょう。
「僕です」
幾久雄は妹の迷惑相な様子を見兼ねて、向う側から声をかけました。青白い高貴な顔をした青年で、真ん中で分けた少し長い毛と、黒のボヘミアンネクタイに、何んとなく芸術家らしい趣があります。
「失礼しました。楽器を持っていらっしゃる方を見ると、ツイ懐しくなります――私の故郷は中央欧羅巴の小さい小さい国ですが、世界でも有名な音楽の盛んなところで、上手なヴァイオリンひきを、非常に沢山出して居ります。私も、どうせ上手ではありませんが、ほんの少しはやります、この通り――」
見ると成程、信子の持って居る革箱と瓜二つの、よく似たヴァイオリンの箱を、これも網棚にも載せず、如何にも大事そうに椅子の後に立てかけて、それに凭れるように守護して居るのでした。
「ですから――」
西洋人は続けて申します。
夜汽車のつれづれもあったでしょうが、この西洋人の眼には、それ以上に、何んとも言えぬ人なつかしさが動いて居るのでした。
「ヴァイオリンをひく方を見ると、他人のようには思いません。御免下さい――突然知らない方に話しかけるのは、お国ばかりでなく、何処の国でも失礼に極って居ります――」
「よくわかりました、お察しいたします、私もつい此春までドイツへ行って居て、貴方と同じような心持になった事が幾度あったかわかりません。一人も知己の無い異国では、私と同じ好みを持った方だけが、お友達とも同胞とも思ったものです。言葉は通じなくとも、音楽の解る人であったら、私はきっとその人とお友達になれるような気がしたのです」
芸術家らしい感激が、こう語るうちに、幾久雄の立派な顔を輝やかしく染めます。
「有難う、そう言って頂くと本当に嬉しい、こんな場所で、重ね重ね失礼ですが、貴方のお名前を伺うことは出来ませんでしょうか――私の忙しい旅の思い出にいたし度いと思います。――私はポーランドの近くの小さい小さい国に生れた、フランツ・ベーカーと申す者で、祖国を離れて、こう旅から旅へ、世界中を飛歩るくのが私の仕事です」
西洋人の顔にも、人懐かしさと、やるせなさが、ほのかに動きます。
「有難う、ミスター・ベーカー、私は立花幾久雄と申すヴァイオリンひき、これは信子と言って、私の本当の妹でもあり、私の大事な伴奏弾でもあります」
「お、お、よく知って居ります。近頃天才兄妹として有名な、立花幾久雄さんと信子さんというのはあなたでしたか、それはいい方にお目にかかりました」
「そう仰しゃられると、極りが悪くなります」
「何処か演奏旅行のお帰りででも? ……」
「いや、軽井沢に居る友人を訪ねて来ました、非常に悲しいような、その癖この上もなく嬉しいような事件で――」
「悲しいような嬉しい事――それは一体どういう意味ですか、差支なかったらお話し下さい」
「エ、喜んでお話しましょう――」
汽車は高崎へ着くと、その二等車からも二三人降りて、ベーカーの側にも一つの席が空きました。幾久雄は大急ぎでその席に移って、妹と二人でベーカーを挟んで坐ると、幾久雄の今まで居た向う側の席へは、同じ箱の中に居たらしい、二人の西洋人がやって来て、いそいそと腰を下しました。一人は眼の鋭い毛の赤い、羆のような感じのする若い男、一人は東洋人との混血児らしい、栗色の髪で額を隠し、宝石をうんと彫めたギラギラする洋服を着た、妖婦型の若い婦人です。