Chapter 1 of 14

夜の編輯局

「勇、一杯つき合わないか、ガード下のお光っちゃんは、怨んで居たぞ、――近頃早坂さんは、何処か良い穴が出来たんじゃないかって――」

古参の外交記者で、十年も警視庁のクラブの主にされて居る虎井満十が、編輯助手の卓の上へ、横合から薄禿げた頭を突き出して斯んなことを言うのです。

「冗談じゃないよ、市内版がこれから始まるんだ、電報はやけに多いし、電話は引っ切り無しだが、整理部の新年会で部長以下皆んな出かけてしまったし、速記まで帰って了って手が付けられない、少し手伝えよ、虎井」

「お前が編輯して居たのか、――タガの外れた新聞が出来上らなきゃ宜いが、な勇」

「細工は粒々さ、明日の朝の新聞を見ると同業者は肝を潰すぞ」

「整理部の新年会だから整理部長の留守はわかって居るが、社会部次長の千種は何処へ行ったんだ、宵のうちから姿を隠すなんざ、あの男には例の無いことじゃないか」

社会部次長の千種十次郎の姿が、その晩の東京ポストの編輯室に見れないのは、まさに年に一度の奇蹟だったのです。

それはまだ、新聞が毎日十六頁も出せた時代、軍部の横暴が、日本を破算的な戦争に導く前の、特種ニュース競争華やかなりし新聞社の編輯局風景でした。

「兄貴は東京一番の御馳走にあり付いて居るよ」

千種十次郎を兄貴という早坂勇も、もう三十近い働き者で、昔は「足で種を採るから」足の勇と異名を取った男でしたが、今では若い乍ら東京ポストの社会部では良い顔で、時には千種十次郎の代りに、若い外交記者にも指図をし、手の足りない田舎版位の編輯は手伝って居るのでした。

「そいつは聞捨てならない、何処の売出しの披露だ」

「兄貴がそんな間抜けな御馳走を喰うかな、今夜のは同郷の大先輩、熊谷財閥のオン大、熊谷三郎兵衛の誕生祝の御座敷だよ」

「そいつは気が詰るだろうな」

「此方が新聞記者だ、大臣大将が束で来ても屍とも思わない位の修行を積んで居るが、その座敷はたった一人、兄貴をワクワクさせる相手が居るんだよ」

早坂勇は原稿を整理して居る筆を投り出して、何時の間にやら虎井満十の相手になって居るのでした。

虎井満十は呑ん平で喧嘩早くて、始末の悪い男には相違ありませんが、正直で感がよくて、特種取りの名人で、新聞記者としては、東京で何人と言われた腕達者だったのです。

新聞記者のヒネたのには、よく斯んな途方もない人間が居りました。虚無的でダラしが無くて、箸にも棒にもかからないようで、そのくせ純情的で正義感が強くて、悪の摘発のためには、どんな艱難でも、笑って押し切ってやろうと言った肌合の人間です。

足の勇こと、わが早坂勇が、虎井満十と馬が合うのも、御同様貧乏で、些か呑ん平で、そして恐ろしく正義感が強くて、経済観念の全く無いという共通点の為だったかもわかりません。試みに会計部の婦人部員に訊いて見たとしたら、二人は東京ポスト社中の、前借二大横綱で、まともに算盤を取られると、向う一ヶ年位は、一銭の月給も受取れないことになって居るという、驚く可き事実を発見するでしょう。

「その千種十次郎をワクワクさせる相手というのは、何処の女優だ」

虎井満十はもう良い加減でガード下できこし召したらしい、トロンとした眼を挙げました。七つ下りの背広、襟飾が神田っ児の旋毛位に曲って、モシャモシャと無精髯の生えた顔は、思いきや哲学者のような峻烈なのに変って居ります。

「女優? 飛んでも無い、兄貴と来たら新聞記者中の清教徒だよ、――兄貴をワクワクさせる相手というのは、熊谷合名会社の若い社員で、潮田春樹の妹の美保子という麗人さ」

「ヘエ、そいつは平凡過ぎて愛嬌が無いね」

「お前は美保子さんを見たことが無いから、そんな罰の当ったことを言ってるが――」

「罰の当ったことをね」

「全くの素顔で、あんなに清潔で美しい乙女を、俺は想像したことも無いよ」

「ウ、フ、乙女と来たか、古風で良いね」

「外に適当な日本語は無いよ」

「物凄いな、――その乙女が千種のフィアンセでもあるのか」

「黙契だけだよ、俺ならドンと当って砕けるが、兄貴はジェントルマンだから、女を口説くなんて、下等な隠し芸は無い」

「下等な隠し芸は良いな。俺もチョイチョイその隠し芸を試みるが、成功率は零コンマの三パーセント位かな、いまだに独り身なのはその為だ」

「呆れた満十だ、早く女房でも持って郵便貯金でも心掛けちゃどうだ」

「残念乍ら、相手が無いよ、ガード下の光ちゃんは、とうの昔に愛憎を尽かして居るし、本社の受付嬢にも小当りに当って見たが」

「間抜けだな、――不義はお家のきつい法度だ、社内で変なことをすると、容赦もなく首だよ」

「安心しなよ、受付嬢はまるっ切り相手にしないから。会計の女史が下らない事を言い触らすもんだから、俺は東京ポスト社中のやくざ扱いだ」

二人の漫談は際限もなく弾みます。後ろの方には瓦斯ストーヴが燃え盛って、隣の校正部からは、原稿とゲラ刷を読み合せる、一種のメロデーが、物淋しく響いて来るのでした。

宵の編集室は、思いの外に閑散でした。これが十一時過ぎになると、もう一度市内版の為に帰って来る、外交記者で賑うのですが、中間の地方版の編輯は、さすがに呑気で、早坂勇の代用米でも、随分間に合わないことはありません。

「早坂さん。第六版をおろしますよ」

工場からインキで真っ黒になった少年が、濡れたゲラ刷を持って来て、早坂勇の卓の上に広げました。

「あ、宜いよ、おろしてくれ、――そのうちに兄貴も整理部の連中も帰って来るだろうから、間もなく俺は年明けだ、いよいよ光ちゃんの顔でも見に行くか」

虎井満十は早坂勇の卓を離れて大きな欠伸をしました。その頃から外交記者が、それぞれの材料を持って来て、自分の卓で、セッセと原稿を書いて居ります。

丁度八時半、早坂勇の卓上の電話のベルが、勢よく鳴り出しました。

「オイ、勇、電話だよ」

「よし、心得た、どうせ市内通報員だろう。済まないが満十、その鉛筆を取ってくれ、――モシモシ、此方は東京ポストですがね、モシ、モシ、え、僕は早坂――そちらは、え、え? 千種? 兄貴かそいつは済まなかった、早く帰ってくれ、編輯は苦手だよ、何? 大事件がある? 何処だ、番町、能谷邸に、――僕に直ぐ来いと言うのか、よし行くぞ、事件を追っ駆けるのは兄貴の柄じゃ無いよ、――此処は満十に頼むさ、そのうちに誰か帰って来るだろう、構わないとも」

早坂勇はガチャリと電話を切りました。

「おいおい、勇、俺に編輯をさせる気か」

満十は赤い鼻を突出しました。

「済まないが、ちょいと繋いでくれ、整理部長がもう帰って来る筈だ、不自由はさせない」

「弱ったなア、俺はまだ飲み足りないんだ」

「一本取って嘗め乍らやってくれ、出がけにガード下の光ちゃんに出前を頼んで置くよ宜いか、満十」

早坂勇は外套を引っかけると、洒落れた鳥打帽を、頭の上の釘から取りました。

「何が始まったんだ、一体」

「兄貴の大事よ、うまく行くとこいつは大特種だ、頼んだぜ満十」

早坂勇は、木枯吹く街へ、鉄砲玉のように飛出してしまったのです。

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