Chapter 1 of 4

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万葉集にある浦島の長歌を愛誦し、日夜低吟しながら逍遥していたという小泉八雲は、まさしく彼自身が浦島の子であった。希臘イオニア列島の一つである地中海の一孤島に生れ、愛蘭土で育ち、仏蘭西に遊び米国に渡って職を求め、西印度に巡遊し、ついに極東の日本に漂泊して、その数奇な一生を終ったヘルンは、魂のイデーする桃源郷の夢を求めて、世界を当なくさまよい歩いたボヘミアンであり、正に浦島の子と同じく、悲しき『永遠の漂泊者』であった。

しかしこの悲しい宿命者も、さすがに日本に渡ってからは、多少の平和と幸福を経験した。日本は後年の彼にとって、最初の幻惑した印象のごとく、理想の桃源郷やフェアリイランドではなかった――後年彼は友人に手紙を送り、ここもまた我が住むべき里に非ずと言って嘆息した――けれども、貞淑で美しい妻をめとり、三人の愛児を生み、平和で楽しい家庭生活をするようになってから、寂しいながらも満足な晩年を経験した。ヘルン自ら、絶えずそれを羞恥したごとく、彼のように短身矮躯で、かつ不具に近い近眼の隻眼者で、その上に気むずかし屋の社交下手であったことから、至るところ西洋の女性に嫌われ通していた男が、日本に来て初めて人並の身長者となり、人並以上の美人を妻としかつその妻に終世深く愛されたことは、いかにしても得がたき望外の幸福であったろう。彼の妻(小泉節子夫人)が、その旧日本的な美徳によって、いかに貞淑に良人に仕え、いかによく彼を愛し理解していたかということは、後年彼が多少日本に幻滅して、在外の友人に日本の悪評を書いた時さえ、日本の女性に対してだけは、一貫して絶讃の言葉を惜まなかったことによっても、またその多くの『怪談』に出て来る日本の女性が、ちょうど彼の妻を聯想させるごとき貞婦であり、旧日本的なる婦道の美徳や、そうした女に特有の淑やかさいじらしさ、愛らしさを完備した女性であることによっても知られるのである。筆者がかつて評論した、有名なヘルンのエッセイ『ある女の日記』も、校本に拠るところがあるとは言いながら、実はその愛妻節子夫人を、半面のモデルにしたものと言われている。幼にして母を失い、他人の家に養われ、貧困の中に育ち、飢餓と冷遇を忍びながら、職を求めて漂泊し、人の世の惨たる辛苦を嘗めつくして、しかも常に魂の充たされない孤独に寂しんでいたヘルンにとって、日本はついにそのハイマートでなかったにしろ、すくなくともその妻に抱擁された家庭だけは、彼の最後に祝福された、唯一の楽しい安住の故郷であった。おそらくヘルンはその時初めて心の隅に、幸福という物の侘しい実体を見たのであろう。

すべて貧困の家に育ち、肉親の愛にめぐまれずして家庭的、環境的の不遇に成長した人々は、そのかつて充たされなかった心の飢餓を、他の何物にも増して熱情するため、後に彼が一家の主人となった場合、その妻子の忠実な保護者となり、家庭を楽園化することに熱心である。ラフカジオ・ヘルンの場合も、またその同じ例にもれなかった。彼が日本に帰化したことも、普通の常識が思惟するように、日本を真に愛したからではなかった。その頃の彼は、日本をもはや『夢の国』としては見ていなかった。そして『西洋の国々と同じく、ここにもやはり醜い生存競争があり、常々不義や奸計が行われている』と、地上の現実社会である日本を見ている。詩人がその空想の中で画くような、ファンタスチックな夢の国は、現実の地球上にあるはずがない。しかも宿命的な詩人の悲願は、その有り得べからざる夢の国を、生涯夢見続けることの熱情にある。初めからボヘミアンであったヘルンは、晩年においてもなおボヘミアンであり、永遠に故郷を持たない浦島だった。もし彼に妻子がなかったら、日本に幻滅した最初の日に、再度また『まだ知らぬ新しい国』を探すために、あてのない漂泊の旅に出発したにちがいなかった。だがその時、彼はその妻や子供のことを考えた。既に老いの近づいたヘルンは、自分の死後における妻子の地位を考えた。そして国籍を持たない家族が、財産上にも生命上にも、日本の政府から保護を受け得ないことを考えた。しかもその妻のごとき、純日本的な可憐な女を、彼のいわゆる『野蛮人』である西洋人の社会に、孤独で生活させることの痛ましさは、想像だけでも耐えがたい残忍事だった。だが彼が帰化を決心し、日本の土となることを覚悟した時、言い知れぬ寂しさとやるせなさが、心の底にうずつき迫るのを感じたであろう。それが日本人の抒情的な言葉で、あきらめと呼ばれるものであることさえ、おそらくヘルンは知ったであろう。

東京帝国大学の招聘に応じて、松江や熊本の地を去ったことも、同じくヘルンの身にとっては、愛する妻への献身的な犠牲だった。上陸当初の日に一瞥して嘔吐を催し、現代日本の醜悪面を代表する都会と罵り、世界のどんな汚い俗悪の都市より、もっと殺風景で非芸術的な都市と評した東京は、彼が死んでも住みたくない所であった。しかも彼の夫人にとって――世の多くの若い女性と同じく――東京はあこがれの都であり、そこでの生活は一生最高の理想であった。『わたし、フロックコート着る。東京に住む。皆あなたのためです』と、さすがにヘルンも夫人に愚痴をこぼしている。夫人もよくその良人の心を知り、『ヘルンの一生は、皆私や子供のために尽してくれた犠牲でした。勿体ないほどありがたいことでした』と、その追懐談の中で沁々と語っている。

彼がいかにその妻を熱愛していたかは、焼津の旅先から、留守居の妻に送った手紙によく現われている。

小サイ可愛イママサマ。

ヨク来タト申シタイアナタノ可愛イ手紙、今朝参リマシタ。口デ言エナイホド喜ビマシタ。

ママサマ、少シモアブナイ事ハアリマセン。ドウゾ案ジナイデ下サイ。今年ハ一度モ夜ノ海ニ行キマセン。乙吉ト新美ノ二人ガ、子供ヲ大事ニ気ヲ附ケマス。一雄ハ深イ所デ泳イデモ危イコトハアリマセン。コノ夏ハクラゲヲ大変恐レマス。シカシヨク泳ギ、ソシテヨク遊ビマス。

アノ成田様ノオ護符ノコトヲ思ウ。アノイワレハ可愛ラシイモノデス。

私少シ淋シイ。今アナタノ顔ヲ見ナイノハ。マダデスカ。見タイモノデス。

蚤ガ群ッテ集マルノデ眠ルノハ少シムツカシイ。シカシ朝、海デ泳グカラ、皆、夜ノ心配ヲ忘レマス。

今年私ハ、小サイタライノオ風呂ニ二三日ゴトニ入リマス。

焼津 八月十七日

パパカラ

可愛イ子ニ、ソレカラ皆ノ人ニヨロシク。

小泉八雲

小サイ可愛イママサマ。

今朝成田様ノオマモリガ参リマシタ。パパハ乙吉ニヤリマシタ。スルト大変喜ビマシタ。(中略)

ママニ願ウ。自分ノ身体ヲ可愛ガルヨウニ。今アナタ忙ガシイデショウネ。大工ヤ壁屋ヤ沢山ノ仕事デ。デスカラ身体ヲ大事ニスルヨウニクレグレモ願イマス。

私今日ハ忙ガシカッタ。本屋ガ校正ヲヨコシタカラ。シカシモウ皆スマセマシタ。

巌ト一雄、丈夫デ可愛ラシイ。海デ沢山遊ビ黒クナリマシタ。乙吉ハ二人ヲ大事ニシテクレマス。勉強毎日シマス。

サヨナラ、可愛イママサマ。

オババサンニ可愛イ言葉。

子供ニ接吻。

焼津 八月十八日

小泉八雲

この情緒纏綿たる手紙は、新婚当時の手紙ではない。結婚十数年、ヘルン既に五十歳を過ぎ、二人の男児と一人の女児の親となってる晩年の手紙である。妻を愛称して『小サイ可愛イママサマ』と呼んでるヘルンは、同時にいかにまた子煩悩であったかが解る。彼はいつも手紙の終りに『オババサマニヨロシク』とか『オババサマニ可愛イ言葉』とか書いている。オババサマとは彼の妻の母であって、名義上、小泉家の養子たる彼にとっては、姑の義母に当る老婦人である。ヘルンはその妻と共に、姑の老婦人と一家に同居し、純日本風の仕方でよく孝養の道を尽した。この姑の婦人もまた、旧武士の家庭に育った士族の娘で、純日本風の礼儀正しき教育を受け、かつ極めて善良に優しい心根の人であった。ヘルンの文学に出る日本婦人のモデルは、多くその妻に非ずば姑の老婦人だといわれてるが、すくなくともヘルンは、この点での好運にめぐまれていた。なぜなら日本においても、それほど貞淑な妻や善良な姑は、一般に沢山は居ないからである。それ故ある人々は、ヘルンがもし悪妻をめとり、意地悪の姑等と同居したら、彼の神国日本観は、おそらく顛倒した結果になったろうと言っている。

ヘルンの生活様式は、全く純日本風であった。彼はいつも和服――特に浴衣を好んだ――を着、畳の上に正坐し、日本の煙管で刻煙草を詰めて吸ってた。食事も米の飯に味噌汁、野菜の漬物や煮魚を食い、夜は二三合の日本酒を晩酌にたしなんだ。(しかし朝はウイスキイを用い、ビフテキも好んで食った。)住居は度々変ったが、純日本風の家を好んで、少しでも洋風を加味したものを嫌った。日本人の知人を訪問しても、洋風の応接間などに通されると、帰ってからも甚だ不機嫌であった。当時の日本は、文明開化の欧米心酔時代であったので、至るところ、彼はそうした不機嫌の目に逢わされた。日本人は立派な文明を持っていながら好んで野蛮人の真似をしたがると、彼は常に不満を述べていた。『野蛮人』という言葉は、彼の語藻において『西洋人』と同字義であった。

そうしたヘルンの生活は、極めて質素のものであった。彼は学生に向っても、常に奢侈を戒めて質素を説き、生活を簡易化することの利得を説いた。贅沢な暮しをするほど、生活が煩瑣に複雑化して来て、仕事に専念することができなくなるからである。一日二三合の米の飯と、少しばかりの副食物と、二三合の日本酒とさえあれば、それで私の生活は充分であると、その訪問客に語っているヘルンは、実際に学者風の簡易生活をしていたのである。

しかし彼の精神生活は、反対に極めてデリケートで贅沢だった。いやしくもその詩興を損い、趣味を害するようなものは――人でも、家具でも、物音でも――絶対にその家庭に入れなかった。書斎に仕事をしている時のヘルンは、周囲のちょっとした物音にも、すぐ『私の考え破れました』といって、腹立しくペンを投げた。夫人はその追想記の中で、箪笥の抽出を開けるにさえも、そッと音を立てぬように気をつけたと書いている。しかしその他の場合では、罪のない笑談を言ったりして、妻や子供の家族を笑わせ、女中までも仲間に入れて、一家団欒の空気を作った。

どこへ旅行する時にも、彼はいつもその妻と同伴した。唯一の例外は、二児を連れて焼津へ行った時だけだった。(その時末の女の児が生れたばかりで、母の手を離れることが出来なかったから。)そうした彼の習慣は、普通に多くの西洋人が、彼等の風習によってするごとき、単なる形式的のものではなかった。『私少シ淋シイ。今アナタノ顔見ナイノハ。マダデスカ。早ク見タイモノデス』という焼津の手紙でも解るように、妻と同伴することなしには、どんな旅行も楽しくないほど、夫人を熱愛していたからだった。まだ子供が出来ない頃、この新婚の若夫婦は、山陰道の辺鄙な島々を旅し歩いた。それは本土との交通がほとんどなく、少数の貧しい漁夫たちが、所々の寂しい山蔭に住んでるような、暗く荒寥とした島嶼であった。人跡絶えた山道には、人力車の通う術もなかったので、二人の若い男女は、互に助け合いながら、蔦葛の這う細道を、幾時間となくさまよい歩いた。そして気味わるく物凄い顔をした、雲助のような男たちに脅やかされたり、黒塚の一軒家のような家に泊って、白髪の恐ろしい老婆に睨まれたりした。夫人はその時のことを追想して、草双紙で読んだ昔物語を、そっくり現実に経験した様だったと言ってる。新婚まもなく若い稚気のぬけなかった夫人は、恐らく恐怖にふるえながらも、人生の最も楽しく忘れ得ない夢を経験したのだ。

ヘルンは常に散歩を好み、学校の帰途などには、まだ知らない町の隅々を徘徊したが、新しい興味の対象を見出すごとに、必ず妻を連れてそこへ再度案内した。『今日私、面白い所見つけました。あなた一所に行きます』と言って、ヘルンが妻を連れ出す所はたいてい多くは寂しい静閑の所であり、寺院の墓地や、邸の空庭や、小高い見晴らしの丘などであった。つまり一口にいえば、今の日本の若い娘たちが、最も退屈を感じて『詰まンないの』というような場所であった。しかし琴、生花、茶道によって教育され、和歌や昔物語によって、物のあわれの風雅を知ってた彼の妻は、良人と共に、その楽しみを別ち味わうことができた。しかしある時、ヘルンが案内して連れ出した所は、暗い闇夜の野道の中に、小高い丘があるばかりで、周囲は一面の稲田であった。何の見る物もなく風情もないので、夫人が怪しんで質問したところ、ヘルンは耳を指して、『お聴きなさい。なんぼ楽しいの歌でしょう』と言った。あたり一面、稲田の中で蛙が雨のように鳴いていたのである。

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