Chapter 1 of 18

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煩悩秘文書

林不忘

深山の巻――女髪兼安――

猿の湯

岩間に、黄にむらさきに石楠花が咲いて、夕やみが忍び寄っていた。

ちょうど石で畳んだように、満々と湯をたたえた温泉の池である。屹立する巌のあいだに湧く天然の野天風呂――両側に迫る山峡を映して、緑の絵の具を溶かしたような湯の色だった。

三国ヶ嶽を背にした阿弥陀沢の自然湯――。

白い湯気が樹の幹に纏わる。澄んだ湯壺の隅に、山の端の夕月が影を落していた。

「なんという静かさだろう! まるで大昔のような――。」

千浪は、あたまの中で独り言をいいながら、透きとおる底の平たい小石を、珍しげに数えはじめた。

岸の岩に項を預けて、彼女は深く湯に浸かっている。十九の処女の裸形は、白く、青く湯のなかに伸びて、桜貝を並べたような足の爪だ。小さな花びらが流れ付いたと見える乳首である。うす桃色に上気した、くっきりと美しい顔が、魅されたように、いつまでも湯底を覗いている。

耳の痛くなるような山の静寂――。

頭の上に覆いかぶさる深い木立ちは、いま、宵へ移ろうとして刻々に黒さを増し、空を屋根のこのいで湯の表は、高い夕雲の去来を宿して、いっそう深沈と冴え返ってくる。

谷あいに群立つ岩のあいだに、一枚の小鏡を置いたよう――落葉松、白樺、杉、柏、などの高山のみどりを縫って、ほのかな湯の香が立ち迷い、うえの尾根を行く人には、この沢壺の湯は、茶碗の底を指さすように眼に入るのである。

だが、旅人の通る道すじではない。

ましてこの夕ぐれ時、父の法外も、あの大次郎様も、この上の森かげのたった一軒の湯の宿――それも、宿屋とは名ばかりの藤屋で、夕餉の膳を前に自分の帰りを待っているだけで、今どきこの湯つぼへ下りて来る人はあるまいと、千浪は安心して、惜気もなくその身体を湯に嬲らせて、上ることも忘れたふうだった。

逢魔が刻という。

山の精にでも憑かれたのか――やがて、涼しい声が千浪の口を洩れて、

「ひとうつ、ふたあつ、三つ――、四つ、いつつ、六つ、七つ――。」

数を唱えだした。興に惹かれるまま唄のように節をつけて底の礫を読んでいるのだ。

「九つ、十、十一――。」

一つは二つと、思わず、声が高くなった。

その声が、魔を呼んだのである。

「はてな――?」

と小首を傾けて、その時、この阿弥陀沢の頂きを急ぎ足に来かかった葛籠笠が、はたと、草鞋を停めた。

「声がする。待てよ。女の声のようだが――。」

ふかいつづら笠に面体は隠れて、編目の隙に、きらりと眼が光るだけだが、道中合羽に紺脚絆、あらい滝縞の裾を尻端折って、短い刀を一本ぶっ差した二十七八のまたたび姿。

「ううむ! 好い声だなあ。この文珠屋佐吉の足をとめる声、聞いていて、こう、身内がぞくっとすらあ!――駿、甲、相の三国ざかい、この山また山の行きずりに、こんな、玉をころがす声を聞こうたあ、江戸を出てこの方、おいらあ夢にも思わなかった。おお、何か数えている声だが――。」

右手に谷を望んで、剣の刃わたりのような一ぽん路だ。草のなかの小径に、釘づけにされたように歩を忘れた男の耳へまたしても響いてくる銀鈴の山彦――。

「下から聞える。それに、湯のにおいがする。」男は片手を耳屏風に、「十一、十二、十三――何を数えてるのか知らねえが、とんだ皿屋敷だ。ここらは猿の棲家だてえから、定めし狐も多かろう。化かされめえぞ。」

と、歩きかけたとたん――木の間をとおして、閃めくように眼に入った眼下の湯の池と、そして、そこに何を認めたのか、江戸の文珠屋佐吉と自ら名乗るその男は、ひた、ひた、と吸い寄せられるように路を外れて、歯朶を踏みしだき、木の根を足がかりに、たちまち、そこに、谷を覗きぐあいに生えている一本の山桂の枝へ、油紙包の振分けを肩にしたまま、ひょいと飛びついた。

ひらり!

奇怪! なんという身の軽い男!

天然露天の風呂の真うえに高く、自分こそまるで、猿のように、枝の繁みに身をかくして。

そっと窺う文珠屋の顔が、葛籠笠の中で、にたりと笑った。

はるか下に、岩のあいだに湯を使う山の人魚がある。

三国ヶ嶽のふもとに、木樵や猟人のみ知る無蓋自然の温泉で、里の人は呼んで猿の湯という。

富士も、ここまで来ると低い。

靉靆たる暮色が、山伏、大洞、足柄の峰つづきに押し罩もって、さざなみ雲のうえに、瘤のように肩を出している宝永山の一面にだけ、相模潟の入り陽が、かっと照り映えていた。

胸突き三里

甲斐、駿河、相模と――三国が三角点に境を接している三国ヶ嶽。

東はさがみの足柄郡、西、するがの国駿東郡、そして、北は甲斐の都留郡である。この三つの国が、富士の裾の籠坂峠から一線に延びる連山の一ばん高いてっぺんに出会ったところが、この三国ヶ嶽で、いうまでもなく、訪う人も深山の奥だ。

阿弥陀沢は、この三国ヶ嶽のすぐ下にある。朝夕、檐の端に富士を仰いで、春から夏を飛んで、すぐ秋虫の音を聞く山家住まい、あみだ沢は山あいに五、六軒の草葺きが集まって炭焼き、黒水晶掘り、木こりにかりうど、賤機木綿、枝朶細工などを生業の、貧しい小部落だった。

が、温泉が出る。と言っても、部落から小半町下りた谷間の岩に。

稀に、山越えの諸国担ぎ売りが宿をとるくらいのもので、もとより浴客などはないのだから、温泉とはいっても、沢の底の奇巌のあいだに噴き出るに任せ、溢るるままに、ちょうど入浴りごろの加減のいい湯が、広やかに四季さまざまの山の相をうつしているだけ、村びとは屋根ひとつ掛けず、なんらの手も加えていない。

岩からいきなりあつい湯へ飛びこんで、鼻唄まじりに富士をあおごうという寸法。

風流――などとは他国者のいうことで、遠国から旅をかけてわざわざ湯にはいりに来るものがあろうとは、阿弥陀沢の人は、何百年来誰ひとり考えてみたこともなかった。

湯治などという語は、あみだ沢にはないのだった。

で、前の谷の猿の湯は、長いこと、猟人が峰づたいの山狩りの汗を洗い、炭やきが、煤煙を落すだけの場所だったが――それがこのごろ、遙か下の町の人々にも知れて来たとみえて、ぽつぽつ入湯の客が登山って来る。遠く、山にとっては外国のようなひびきを持つ、花の都のお江戸からさえも、といっても、月にふたりか三人の逗留客があるにすぎないが、それでも、上って来る者のあるのに不思議はないので、じつはこの猿の湯は、さながら神薬と言っていい霊験を有っているのだ。

きく。打ち身、切り傷にうそのようにきく。

たいがいの金創は、三日の入浴で肉が盛り上り、五日で傷口がふさがり、七日でうす皮が張り、十日ですっぱり痛みが除れて、十五日目には跡形もなく、一月もいれば、傷あとを打っても叩いても、何の痛痒も感じないという。

ことに、二つき三月とこの猿の湯に浸かりあげれば、年どしの季候の変り目に、思い出したようにふる傷が泣くということがない。

別人のような達者なからだになって山を下りられる――と旅の者の口が披露めて、おのずから諸国へ散ったのであろう。この、幕運ようやく衰えかけて、天下なにとはなしに騒然たる時節である。肩から背へ大きく繃帯して、葛籠笠に顔を包み、山ふじの杖をつく武家すがた。賭場の喧嘩で長脇差を喰らったらしいやくざ者など、そういった物凄い手傷者が、世をはばかり気に爪さき上り、山へ、この阿弥陀沢へ、と志すのだった。

相模から登る者は山北路。

駿河路は、竹の下みちから所領、中日向とまわって、

甲斐筋は、勘治村から道士川を越える。

その誰もが、傷もつ身。世を忍ぶ面をかくして、山露をしのぐよすがのつづら笠――。

猿の湯をとりまいて、三国ヶ嶽の麓に唄ができている。

あみだ上りはみな葛籠笠、どれが様やら主じゃやら

で、杣しか通わなかった道に、湯治客の草鞋のあと繁く、今は、阿弥陀沢村の一戸にまあたらしい白木の看板が掲がって――御湯宿、藤屋。

内湯ではないから、客は、藤屋から山下駄をはいて、小みちづたいに、谷底の猿の湯まで下りるのである。

だが――。

文珠屋佐吉は、金創をもつ身体ではない。

桂の枝にぶら下がって、真下の猿の湯に千浪の裸体をさんざん眺めあきたかれ佐吉、ふたたびかるく枝をゆすぶって、元の小径へとんと跳びかえると、

「いい女だなあ。どうやら、山の娘っこじゃあねえらしいぜ。おいらの面さえ、こんな化けものでなかったら――。」

と心から口のなかで呟いたが、恐ろしいことに触れたようにぶるぶると口びるを鳴らして、かれはさっさと歩き出していた。葛籠笠の奥ふかく、にたり、にたりと蒼い微笑を洩らしながら。

谷について一町ばかり上ると、こんもりした森の向うに、小さな家の集団が見える。阿弥陀沢の部落である。なかに、庄屋づくりの白壁の家が、一軒しかない。旅籠藤屋なのだ。

ここへ泊るのだろうと思いのほか、文珠屋は、村の入口から道をかえて、不意に横へきれた。

胸を突く小坂が、まっすぐ、宵やみの雑木林の奥へ消えている。三国ヶ嶽の登山ぐちである。

これから上に、家はない。

この夕方から夜みちをかけて、文珠屋佐吉、三国ヶ嶽へのぼろうというのだろうか。

なにしろ――。

そして、この文珠屋とは何者?

間もなく、佐吉のつづら笠は、あみだ沢の家々を遠く下に見て、三里の上りを、三国一点の頂上をさしてすたすたいそいでいた。

さながら、空ゆく風――疾い足だ。

第二の葛籠笠

斬り傷、金創の入湯客が多い。

自然、人別あらための山役人の眼がきびしい。

山奥ながら、宿屋とあれば、藤屋も宿帳を一冊備えて、――この宿帳に。

半月ほど前に名を記して、今だにずっと滞在している三人づれの江戸の客というのは、

下谷練塀小路 法外流剣法道場主

弓削法外 六十三歳

同人娘    千浪 十九歳

法外門人 伴大次郎 二十七歳

「ほんとうにお父さまは、どうしてこんな淋しいところに、こうしていつまでもいらっしゃるのかしら――。」

黒ずんできている湯だ。湯気が白く眼立つ。もうすっかり暮れてしまったのに、千浪は上ろうともせず、腰から上を湯のうえに見せて、天然の湯船をなしている岸の巌に、凭りかかって立っている。

江戸育ちで、千浪は、賑やかなところが懐しいのだった。

また、口のうちにひとり言を噛みしめて、

「大次郎さまはこのお山に、何か御用がおありだという話のようだけれど、お父さまは、いったいいつ江戸へお発ちになるおつもりなのだろう。」

うす闇の迫る温泉のなかに、じぶんのからだが、ほのぼのと白く浮き出て見える。

もう墨を溶かしたような湯なのだが手に掬い上げて見ると、空の余映を受けて岩清水のように明るいのである。上半身に残光を浴びて、千浪は、両手に湯をすくってはこぼしいつまでも無心に戯れているのだった。

猿のようなつづら笠の男――文珠屋佐吉が、つい今し方まで、高い真上の木の枝から、こっそり自分の裸形を見下ろしていたことなどは、千浪、もとより知るよしもなかったので。

裸に憑入る魔の葛籠笠と、この凶精に取っつかれた美しい処女と――。

ばしゃ、ばしゃと湯の音が、暮れなずむ谷あいの森閑とした空気を破る。

千浪が、上り支度をはじめたのだ。

小さな波をつくって湯がうごくと、底に立っている彼女の足が、くの字を幾つもつづけたように、ゆら、ゆらと砕け揺れる。

「お猿が怪我をすると、何十里ものお山を伝わっても、この阿弥陀沢のお湯へはいって癒しに来るという。いつかも、負傷の子猿を伴れた親猿が、この近所の木に棲んで、何日もお湯へはいっていたという里の人のはなしだった。だから、いつのころからともなく猿の湯と呼び慣らわしてきたのだとのこと。それで、お猿が入浴っている時は、人間は遠慮して、できるだけ邪魔をしないのだそうな。」

と思い出した千浪は、今にも猿が来はしまいかと、急に恐ろしくなって、いそいで湯壺を出た。

人の見る眼はないが、むすめ十九、裸身を屈ませて小走りに、素早く岩かげへ廻ると、何の設備もないとは言え、女性の浴客のために建てられたささやかな脱衣場がある――竹を立て、莚をめぐらしたほんの掘立小屋。

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