Chapter 1 of 6

第一回

櫻の花に梅が香とめて柳の枝にさく姿と、聞くばかりも床しきを心にくき獨りずみの噂、たつ名みやび男の心を動かして、山の井のみづに浮岩るヽ戀もありけり、花櫻香山家ときこえしは門表の從三位よむまでもなく、同族中に其人ありと知られて、行く水のながれ清き江戸川の西べりに、和洋の家づくり美は極めねど、行く人の足を止むる庭木のさまざま、翠色したヽる松にまじりて紅葉のあるお邸と問へば、中の橋のはし板とヾろくばかり、扨も人の知るは夫のみならで、一重と呼ばるヽ令孃の美色、姉に妹に數多き同胞をこして肩ぬひ揚げの幼なだちより、いで若紫ゆく末はと寄する心の人々も多かりしが、空しく二八の春もすぎて今歳廿のいたづら臥、何ごとぞ飽くまで優しき孝行のこヽろに似す、父君母君が苦勞の種の嫁いりの相談かけ給ふごとに、我まヽながら私し一生ひとり住みの願ひあり、仰せに背くは罪ふかけれど、是ればかりはと子細もなく、千扁一律いやいやを徹して、はては世上に忌はしき名を謠はれながら、狹き乙名の氣にもかけず、更けゆく歳を惜しみもせず、靜かに月花をたのしんで、態とにあらねど浮世の風に近づかねば、慈善會に袖ひかれたき願ひも叶はず、園遊會に物いひなれん頼みもなくて、いとヾ高嶺の花ごヽろに苦るしむ人多しと聞きしが、牛込ちかくに下宿住居する森野敏とよぶ文學書生、いかなる風や誘ひけん、果放なき便りに令孃のうはさ耳にして、可笑しき奴と笑つて聞きしが、その獨栖の理由、我れ人ともに分らぬ處何ゆゑか探りたく、何ともして其女一目見たし、否見たしでは無く見てくれん、世は冠せ物の滅金をも、秘佛と唱へて御戸帳の奧ぶかに信を増さするならひ、朝日かげ玉だれの小簾の外には耻かヾやかしく、娘とも言はれぬ愚物などにて、慈悲ぶかき親の勿体をつけたる拵へ言かも知れず、夫れに乘りて床しがるは、雪の後朝の末つむ花に見參まへの心なるべし、扨も笑止とけなしながら心にかヽれば、何時も門前を通る時は夫れとなく見かへりて、見ることも有れかしと待ちしが、時はあるもの飯田町の學校より歸りがけ、日暮れ前の川岸づたひを淋しく來れば、うしろより、掛け聲いさましく駈け拔けし車のぬしは令孃なりけり、何處の歸りか高髷おとなしやかに、白粉にはあるまじき色の白さ、衣類は何か見とむる間もなけれど、黒ちりめんの羽織にさらさらとせし高尚き姿、もしやと敏われ知らず馳せ出せば、扨こそ引こむ彼の門内、車の輪の何にふれてか、がたりと音して一ゆり搖れヽば、するり落かヽる後ろざしの金簪を、令孃は纎手に受けとめ給ふ途端、夕風さつと其袂を吹きあぐれば、飜がへる八つ口ひらひらと洩れて散る物ありけり、夫れと知らねば車は其まヽ玄關にいそぐを、敏何ものとも知らず遽しく拾ひて、懷中におし入れしまヽ跡も見ずに歸りぬ。

乘り入れし車は確かに香山家の物なりとは、車夫が被布の縫にも知れたり、十七八と見えしは美くしさの故ならんが、彼の年齡の娘ほかに有りとも聞かず、噂さの令孃は彼れならん彼れなるべし、さらば噂さも嘘にはあらず、嘘どころか聞きしよりは十倍も二十倍も美し、さても、其色の尋常を越えなば、土に根生ひのばらの花さへ、絹帽に挾まれたしと願ふならひを、彼の美色にて何故ならん、怪しさよと計り敏は燈下に腕を組みしが、拾ひきしは白絹の手巾にて、西行が富士の烟りの歌を繕ろはねども筆のあと美ごとに書きたり、いよいよ悟めかしき女、不思議と思へば不思議さ限りなく、あの愛らしき眼に世の中を何と見てか、人じらしの振舞ひ理由は有るべし、我れ夢さら戀なども厭やらしき心みぢんも無けれど、此理由こそ知りたけれ、若き女の定まらぬ心に何物か觸るヽ事ありて、夫れより起りし生道心などならば、かへすがへす淺ましき事なり、第一は不憫のことなり、中々に高尚き心を持そこねて、魔道に落入るは我々書生の上にもあるを、何ごとにも一と筋なる乙女氣には無理ならねど、さりとは歎かはしき迷ひなり、兎も角も親しく逢ひて親しく語りて、諫むべきは諫め慰むべきは慰めてやりたし、さは言へど知りがたきが世の中なれば令孃にも惡き虫などありて、其身も行きたく親も遣りたけれど嫁入りの席に落花の狼藉を萬一と氣づかへば、娘の耻も我が耻も流石に子爵どの宜く隱くして、一生を箱入りらしく暮らさせんとにや、さすれば此歌は無心に書きたるものにて半文の價値もあらず、否この優美の筆のあとは何としても破廉耻の人にはあらじ、必らず深き子細ありて尋常ならぬ思ひを振袖に包む人なるべし、扨もゆかしや其ぬば玉の夜半の夢。

はじめは好奇の心に誘はれて、空しき想像をいろいろに描きしが、又折もがな今一と度みたしと願へど、夫よりは如何に行違ひてか後ろかげだに見ることあらねば、水を求めて得ぬ時の渇きに同じく、一念此處に集まりては今更に紛らはすべき手段もなく、朝も晝も燭をとりても、はては學校へ行きても書を開らきても、西行の歌と令孃の姿と入り亂だれて眼の前を離れぬに、敏われながら呆れる計り、天晴れ未來の文學者が此樣のことにて如何なる物ぞと、叱りつける後より我が心ふらふらと成るに、是非もなし是上はと下宿の世帶一切たヽみて、此家にも學校にも腦病の療養に歸國といひ立て、立いでしまヽ一月ばかりを何處に潜みしか、戀の奴のさても可笑しや、香山家の庭男に住み込みしとは。

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