Chapter 1 of 8

おい木村さん信さん寄つてお出よ、お寄りといつたら寄つても宜いではないか、又素通りで二葉やへ行く気だらう、押かけて行つて引ずつて来るからさう思ひな、ほんとにお湯なら帰りにきつとよつておくれよ、嘘つ吐きだから何を言ふか知れやしないと店先に立つて馴染らしき突かけ下駄の男をとらへて小言をいふやうな物の言ひぶり、腹も立たずか言訳しながら後刻に後刻にと行過るあとを、一寸舌打しながら見送つて後にも無いもんだ来る気もない癖に、本当に女房もちに成つては仕方がないねと店に向つて閾をまたぎながら一人言をいへば、高ちやん大分御述懐だね、何もそんなに案じるにも及ぶまい焼棒杭と何とやら、又よりの戻る事もあるよ、心配しないで呪でもして待つが宜いさと慰めるやうな朋輩の口振、力ちやんと違つて私しには技倆が無いからね、一人でも逃しては残念さ、私しのやうな運の悪るい者には呪も何も聞きはしない、今夜も又木戸番か、何たら事だ面白くもないと肝癪まぎれに店前へ腰をかけて駒下駄のうしろでとんとんと土間を蹴るは二十の上を七つか十か引眉毛に作り生際、白粉べつたりとつけて唇は人喰ふ犬の如く、かくては紅も厭やらしき物なり、お力と呼ばれたるは中肉の背恰好すらりつとして洗ひ髪の大嶋田に新わらのさわやかさ、頸もとばかりの白粉も栄えなく見ゆる天然の色白をこれみよがしに乳のあたりまで胸くつろげて、烟草すぱすぱ長烟管に立膝の無沙法さも咎める人のなきこそよけれ、思ひ切つたる大形の裕衣に引かけ帯は黒繻子と何やらのまがひ物、緋の平ぐけが背の処に見えて言はずと知れしこのあたりの姉さま風なり、お高といへるは洋銀の簪で天神がへしの髷の下を掻きながら思ひ出したやうに力ちやん先刻の手紙お出しかといふ、はあと気のない返事をして、どうで来るのでは無いけれど、あれもお愛想さと笑つてゐるに、大底におしよ巻紙二尋も書いて二枚切手の大封じがお愛想で出来る物かな、そしてあの人は赤坂以来の馴染ではないか、少しやそつとの紛雑があろうとも縁切れになつてたまる物か、お前の出かた一つでどうでもなるに、ちつとは精を出して取止めるやうに心がけたら宜かろ、あんまり冥利がよくあるまいと言へば御親切に有がたう、御異見は承り置まして私はどうもあんな奴は虫が好かないから、無き縁とあきらめて下さいと人事のやうにいへば、あきれたものだのと笑つてお前などはその我ままが通るから豪勢さ、この身になつては仕方がないと団扇を取つて足元をあふぎながら、昔しは花よの言ひなし可笑しく、表を通る男を見かけて寄つてお出でと夕ぐれの店先にぎはひぬ。

店は二間間口の二階作り、軒には御神燈さげて盛り塩景気よく、空壜か何か知らず、銘酒あまた棚の上にならべて帳場めきたる処もみゆ、勝手元には七輪を煽ぐ音折々に騒がしく、女主が手づから寄せ鍋茶椀むし位はなるも道理、表にかかげし看板を見れば子細らしく御料理とぞしたためける、さりとて仕出し頼みに行たらば何とかいふらん、俄に今日品切れもをかしかるべく、女ならぬお客様は手前店へお出かけを願ひまするとも言ふにかたからん、世は御方便や商売がらを心得て口取り焼肴とあつらへに来る田舎ものもあらざりき、お力といふはこの家の一枚看板、年は随一若けれども客を呼ぶに妙ありて、さのみは愛想の嬉しがらせを言ふやうにもなく我まま至極の身の振舞、少し容貌の自慢かと思へば小面が憎くいと蔭口いふ朋輩もありけれど、交際ては存の外やさしい処があつて女ながらも離れともない心持がする、ああ心とて仕方のないもの面ざしが何処となく冴へて見へるはあの子の本性が現はれるのであらう、誰しも新開へ這入るほどの者で菊の井のお力を知らぬはあるまじ、菊の井のお力か、お力の菊の井か、さても近来まれの拾ひもの、あの娘のお蔭で新開の光りが添はつた、抱へ主は神棚へささげて置いても宜いとて軒並びの羨やみ種になりぬ。

お高は往来の人のなきを見て、力ちやんお前の事だから何があつたからとて気にしてもゐまいけれど、私は身につまされて源さんの事が思はれる、それは今の身分に落ぶれては根つから宜いお客ではないけれども思ひ合ふたからには仕方がない、年が違をが子があろがさ、ねへさうではないか、お内儀さんがあるといつて別れられる物かね、搆ふ事はない呼出してお遣り、私しのなぞといつたら野郎が根から心替りがして顔を見てさへ逃げ出すのだから仕方がない、どうで諦め物で別口へかかるのだがお前のはそれとは違ふ、了簡一つでは今のお内儀さんに三下り半をも遣られるのだけれど、お前は気位が高いから源さんと一処にならうとは思ふまい、それだもの猶の事呼ぶ分に子細があるものか、手紙をお書き今に三河やの御用聞きが来るだろうからあの子僧に使ひやさんを為せるが宜い、何の人お嬢様ではあるまいし御遠慮ばかり申てなる物かな、お前は思ひ切りが宜すぎるからいけないともかく手紙をやつて御覧、源さんも可愛さうだわなと言ひながらお力を見れば烟管掃除に余念のなきか俯向たるまま物いはず。

やがて雁首を奇麗に拭いて一服すつてポンとはたき、又すいつけてお高に渡しながら気をつけておくれ店先で言はれると人聞きが悪いではないか、菊の井のお力は土方の手伝ひを情夫に持つなどと考違へをされてもならない、それは昔しの夢がたりさ、何の今は忘れてしまつて源とも七とも思ひ出されぬ、もうその話しは止め止めといひながら立あがる時表を通る兵児帯の一むれ、これ石川さん村岡さんお力の店をお忘れなされたかと呼べば、いや相変らず豪傑の声がかり、素通りもなるまいとてずつと這入るに、忽ち廊下にばたばたといふ足おと、姉さんお銚子と声をかければ、お肴は何をと答ふ、三味の音景気よく聞えて乱舞の足音これよりぞ聞え初ぬ。

Chapter 1 of 8