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ルイ十八世復古政府の第三年、仏領西亜弗利加の海岸で、過去にもなく、将来にもあろうとも思えぬ惨澹たる海難事件が起った。
半世紀の間見捨てられていた植民地を再建するため、セネガル河口のサン=ルイ島に行く新任の総督、総督府の官吏、書記、植民地附属の司祭、土木技師、主計、酒保係、地方人の入植団、細君と子供達、植民地警備の歩兵約二個中隊を乗せたラ・メデュウズという三檣戦艦は、海事にも運用にも、なにひとつ心得のない疎漏愚昧な艦隊司令官の指揮にしたがい、当然の帰結として、天気晴朗の昼のさなか、どんな初心な水夫でも知っているアルグゥイーンの浮洲 banc d'Arguin に乗りあげてしまったのである。
これも無智と怯懦な畏怖心から起ったことだが、乗員は一人残らず、なぜか軍艦は間もなく沈んでしまうのだろうと判断した。全員三百三十七名は離脱を肯んじない十七名を軍艦に残し、六隻の端艇と長さ八トアーズ(約七十尺)幅四トアーズ(三十五尺)という馬鹿げ切った巨大な筏――その後長く「ラ・メデュウズの筏」という名で記憶されるようになった有名な筏に分乗して、漠然と南大西洋の未知の海域に漂いだす。六隻の端艇のうちの二隻は、思いもかけぬ僥倖によってサン=ルイ島に辿りついたが、あとの四隻に乗った百八十八名は、海が恐いというだけの理由で端艇を捨て、流賊の出没する、水も草も一点の日蔭もないサハラ沙漠の中で、それぞれが生けるなりの姿であらゆる愚行を演じ、自分から悪運をひきだしていよいよ不幸を深めて行く。「君主」を書いたピェール・ミルはこういっている。
「どいつもこいつも、未練で、卑怯で、大嘘つきばかりだ。この百八十何人かのなかで、いくらか人間らしいやつは、豹に食いちぎられた細君の首のミイラを最後まで離さなかったゲランという軍曹だけだ。それも、どこまで真実なのかわかったものではない。好んで二人だけで独行していたので、誰も見たものはない。吐こうと思えば、どんな嘘だってつけるのだから」
筏に乗った百四十九名の境遇もまた比類のないものであった。それほどの人間を乗せた、砲艦の一隻分ほどもある木材の巨大な結束が、うやむやのうちに自分らをサン=ルイ島まで運んで行ってくれるかも知れないという、放埓な夢想に耽りだしたところから悪運がはじまった。乗合のうちの百二十二名は、掠奪と放火をこの世の生甲斐にしている無智兇暴な外国人の傭兵の寄せ集めで、なおまた、わずか百人あまりの人間が瑞西、バヴァリヤ、伊太利、西班牙、プロシャ、リュクサンブルグ、セネガル黒人国と、十二以上のちがう国籍を持っていたというのも不幸なめぐりあわせであった。そういう雑多な素質が一つの筏の上に集約され、否応なく異常な現実に直面させられると、いったいどういうことが起るか、察しるに難くないのだが、漂流の第一日目の夜から、果して予期どおりの事態が惹きおこり、陰謀、裏切り、掠奪、争闘、殺し合い、その他、人間と獣がなし得るかぎりの見事な行為が、活社会の縮図といったぐあいに、巨大な筏の上で、十二日の間、休むまもなく繰返される。悽惨そのもののような情景で、想像するだに溟濛たる感じが身に迫るような思いがするが、ドラマの本態は悽惨でもなんでもないので、その百何十人かが、そういう境界に置かれたら、万人がかならずやりだすようにしか動いていないところに、言うにいえぬ恐しさがあるのである。
ファーレルからブノアまで、千八百年代の作家はみな一度はこの事件を手がけているが、その後、アルマン・プラヴィエールが「亜弗利加沖難破事件の真相」で仕遂げたほどのことは誰もやっていない。ダングレェ夫人などは、とめどもない人間の愚行に呆れはて、何年かにわたる調査の結果を三行足らずの文章に要約し、執筆のほうは思いきりよく断念してしまった。
「百四十九名の人間が筏に乗って漂流した。発見されたときは十五名だけが生残っていた。あとの百三十四名は、海の底に沈むか、生残った連中に啖われるかしてしまったというのである。それだけのことだ…… ou avaient t dvorss par Les survivants. C'est tout.」
ルゥヴル博物館の第三室といっている画廊に、漂流中の筏をテーマにしたジェリコォの大画がある。人啖いの十五人のうちのクゥルタードという砲術長が、救いにきたラルギュスの帆影を見て布を振っているところを、事ありげなロマン派の筆法で描きあげている。この絵は事変後二年目の千八百十九年のサロンに出されたものだが、二つの大陸の国民がラ・メデュウズ難破事件の審判の結果を医しがたい不満と嫌悪の情をもって追懐していた折だったので、それゆえに猛烈な批難を受けた。社会一般は、こういう非道の実態を殊更テーマに選ぶのは人間倫理にたいする公然の挑戦だというので、あらゆる方法をもって撤回させようとしたが、「ラ・メデュウズの筏」に描かれているのは、事実とは似てもつかぬアトリエ出来の浮きあがったような情景にすぎない。習作のほうは画面の調子が沈鬱で、人物の心理的な陰影がほどよく滲みだし、いくらか実相に近づいているが、それとてもさほどに騒がれるほどのものではないのである。ジェリコォはそれから間もなく馬から落ちて大怪我をし、以来、癲狂院へ行って狂人の肖像ばかりを描いていたが、五年もたたぬうちに三十二歳で死んでしまった。世間では神の罰を受けたのだといった。
ラ・メデュウズ難破にたいする文献と記録は二つに大別され、難破前後の航海記事、漂流中の覚書、報告、公文書、警備隊の駐留日誌の類は「セネガル文庫」に、ロシュフォール軍港で行なわれた軍法会議と海事審判の公判記録、訊問調書の一切は「ロシュフォール記録集」にそれぞれ収輯され、難船から関係者の帰国までの顛末が微細な点にわたって洩れなく解析されているようにみえる。海難から救助までの事変の梗概は、いかにも首尾一貫していて、誰でも容易に納得するのだが、いざ調べる気になって精読しだすと、随所にモヤモヤした不分明なところが出てくる。よく晴れているくせに、どこかはっきりしない四月頃の空模様とでもいうように、すべては明白に解説されているにもかかわらず、記録の紙面の上に、眼に見えぬ靄のようなものが立迷っていて、なんとなく率直な理解を妨げるため、一向に事相の核心に行きつくことができない。どう骨を折ってみても、相変らず漠然としているところが、この事変の特色だとでも説明するほか、言いようのないものである。
「月が沈んだ。もうなにをする気力もない、たえず高波にうたれながら、私はうとうととしていたらしい。アルプスの山々――すばらしい絶景が眼に浮ぶ。木蔭の涼しさといったら、たとえようがない。印象がそのときのままの状態で、感覚に蘇ってくる。いまやカイゼルラウテルンの森の中に私は妹といっしょに分け入ろうとしている……ところが、実際は海の中へ上体を突き入れたまま昏睡していたのだ。舷にあたる波のひびきが、断崖を駆けくだる急湍の音のように感じられる。たぶん私の身体は一二度波の下にもぐったのだろう。いくらか頭がはっきりしたとき、やっとのことで身体を起し、唇を舌で舐めてみたが、苦い海の塩の味が残っているだけで、たったいま見た泉のすがたなどはどこにもなかった。恐ろしい時だった。絶望の極みであった」
これは漂流中の入植団の嘱託技師(ブレディフ氏)が(正確にいえば、七月八日、短艇が浮洲に擱坐したとき)記憶の薄れないうちにと書きとめた日記の一節で、その後、総督府に提出されたものだが、同行の連中は、ブレディフ氏が字を書いているところも、手帖を持っているところも、誰一人見ていないのである。文章がうますぎるということには、問題はあるまい。そういう困難な状況にあると、誰でもいちどは幻覚をみるものだから、そのほうにも異存はないが、この日記はかならずしも素朴な事実だけを書きとめているのでないことが、いろいろな点から察しがつく。
ブレディフ氏は沙漠の行進中、なにか卑劣な行為、たとえば残忍な殺し合いだとか、息のある仲間を遺棄して前進するとか、あるいはもっとひどいことが行なわれたらしいとき、かならず一種の失神状態におちいり、山の雲だとか、虹だとか、木蔭の泉だとか、そういう詩的な幻想にひたってすごすようになっている。何日かの陸行の間、結局のところブレディフ氏はなにひとつ仲間の非人道的な行為を自覚していないなどというのがその例である。
これも陸行組のアングラス中尉の手記。
アングラス中尉は地方人を含めた六十人ばかりの一隊の指揮をとることになったが、出発前、こういう訓示を与えたといっている。
「ひどい不運がわれわれをつけまわしている。一つすましたと思うと、こんな風にすぐつぎのがやってくる。溺死することだけはまぬかれたが、こういう沙漠のありかたでは、食物も水も期待できないかもしれない。だが、すべてを天命にまかせ、勇気をふるって前進しよう。神のゆるしたまわぬ罪業だけは、おかさぬように。フランス人は、同胞の血を啜ったの、肉を喰ったなどと言われないように戒心しよう。生涯、暗い罪の思い出に苦しむより、潔白のまま笑って死ぬ方がどんなにいいか知れない」
この訓示の趣旨からおすと、指揮者のアングラス中尉は、フランス人というものは、食うものがなくなるとすぐ Cannibalisme(人肉啖食)をやりだす種属だと思っていたのかもしれない。そうだとすれば、あまりに気をまわしすぎたというほかはない。フランスという旧教国では、中世の暗愚の時代でさえ、公然たるカンニバリスムということはなかった。だからこそ、この難破事件は一世の人心を衝動させ、何百万人かの食慾を奪ってしまったわけだが、実際にそういう先覚があったのなら、アングラス中尉はおどろくべき哲人だが、そんなことは信じられない。雑多な国籍をもった筏組の傭兵部隊にくらべると、アングラス中尉のひきいた一隊は比較にならないほど質がよく、フランスの正規兵、分管区の屯所長、書記官、医師、入植団の学術指導者たるクンメルという理学博士さえいたばかりでなく、セネガルの海岸地帯にはトラルザスのいろいろな種属や遊牧民の天幕があることが予想されていたから、最悪の場合を想像しても、出発の当初に、そんな行きすぎた訓示をする必要があろうとは思えない。これは後の話だが、アングラス中尉とクンメル博士の対質になったとき、「訓示らしいことは言ったが、Cannibalisme のことなどは全然触れなかった。かりにもそういう発言をしたら、それほどの侮辱にたいして、われわれが黙っているはずはない」と博士は述べている。
アングラス中尉は、十個、少なくとも六個の死体を沙漠に遺棄している。アングラスの陳述によれば、それにはいちいち至当な弁明がなされているので、そう言われれば、なるほどそういうわけだったのかと納得できるのだが、後から考えたらしい訓示の一件があるばかりに、十人乃至六人の人間だって、実のところは、どんなことをされたかわかったものではないという疑問が起きるのである。
対質者のクンメル博士のほうは、では正直な告白をしているのかといえば、これのほうにもあやしいところがある。クンメルはなぜか一隊と分かれて沙漠を独行し、モール人の酋長の天幕で優遇された顛末をユーモラスな筆で綴っているが、なんのために、皆と分れ自分から困難な旅を選んだのか諒解できない。邪推すれば、蛮行を見るに耐えないとか、悪行の責任が自分にかかるのを回避したのかとも想像されぬことはない。殊更な分離の真の理由については、六十七歳で死ぬまで、ついに一言も洩らさなかった。博士は「トラルザスの古蹟をしらべて見たかったから」と書いているが、一片のパンも一滴の水もなく、一歩一歩が生命の源泉を疲弊させる絶苦の徒歩を何日かつづけた後、なお且つそういう意慾が湧き起るものであろうか。事実だとするなら、偉大な熱情だというほかはない。
擱坐したラ・メデュウズに残った十七人の情況も、究極になればわかったようなわからないようなところがいろいろと出てくる。五十日の後、救助船が行ったとき、三人だけが檣楼の上に残っていた。あとの十四人のうち、十二人は擱坐後二十日後の朝、小さな筏をつくって船から離れ、一人は、その後、檣の破片に跨ってこれも海に出て行き、あとの一人は病死し、そうして、三人だけが残ったという。