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一九二八年(昭和三)の十二月二十九日、三発のフォッカー機で、西経百五十度の線を南極の極点に向って飛んでいるとき、南緯八十度附近の大氷原の上で、見せかけの花むらのような世にも鮮かな焔色したものがバード大佐の視覚をかすめた。
南極大陸はあたかも盛夏の候で、空は無窮の蒼さに澄み、雲の影ひとつなく、プリンクという南極氷原特有の光暈で彩られた無住の寒帯が、百万劫の静寂のなかに茫漠とひろがっている。風房の視野に入ってくるものは、すべて氷河時代の病的な形容のみで、氷の崖か、氷の瀑布、氷卓の根もとに吹きよせた漂雪、さもなければ大きな口をあけた内陸氷の亀裂といったようなものでしかない。見るかぎり白一色に結晶し、白金よりも堅く厳めしい大氷原のただなかで、眼をくすぐるような都雅な色彩に接しようなどとは思っていなかった。高度は四百で、最初の触目では、右前方十粁ほどのところにあって、赤い二つの点としか見えなかったが、進むにつれて、川面に散りこんだ花びらのように、たえずゆらゆらとゆらめきながら右の機翼の下へ流れ寄ってきた。
バード大佐は樹の高さを目測して、反射的に「火焔木の花だ」と思った。この相会はあまりにも唐突であった。なにか愕然と人を搏つものがあって、われともなく取乱したが、しかしほどなく冷理にたちかえった。ここには「ロス海の悪魔」だの「エレブス山の妖精」だのという奇体な幽霊がたくさんいて、いろいろなあやかしをやってみせるが、この辺は、時には零下八十二度(一九三四年七月二十一日、南緯八十度〇八分における記録)まで下る、想像に絶した八寒地獄の登り路で、沼地の水垢をつくる藻類と遠いつながりのあるコレスロンという微生植物しか生棲しえないことを知っている。この大陸の内奥には、人間の智慧では解けないような、どういう不可知な現象が隠されていようとも、百万年の劫を経た不壊の氷の上に黒土で養われる植物が生きているというような奇怪な「実在」は考えられもしなかった。プリンクの悪戯か、視覚の障害か、たぶんどっちかだろうと思ったが、それにしても、風に洗われるように、たえずゆらゆらとゆらめいているのがふしぎである……それは火焔木の花でなどなかった。二米ほどの竹竿の上でひるがえっている日本の国旗なので、その下で目まぐるしくめぐりめぐってやまぬのは、赤ペンキを塗った三角形のブリキの標識板であった。
「あの連中の仕業だ」と咄嗟のうちにバード大佐は思いついた。
南北の両極で探検事業がひしめきあっている二十年ほどの間に、世界中の人間を唖然とさせた三つの超俗的な事件があった。
一つは、北極の極点を通過してアメリカへ行く企図をもって、手軽な軽気球で欧羅巴を飛びだしたまま、案の定、行衛不明になってしまった瑞典の「アンドレー教授の軽気球事件」、もう一つは、北極探検家が一度一分を争っていた一九〇二年に、フレデリック・クックというアメリカの外科医者が、北極点到達を宣言した「クック博士の北極征服虚報」、それから、世界中の人間が誰一人予期さえもしなかった「日本人の無類の南極探検」の三つがそれなので、アンドレー教授は軽妙な着想によって、クック博士は辛辣な諷刺のゆえに、日本の指南丸は比類のない無謀の点で、いずれも人の心に忘れられぬ印象を残した。
何者とも正体の知れぬ、捕捉しがたい、意図不明瞭な日本の南極探検のことは、バード大佐も、当時、濠洲のシドニー・サン紙の記事を読んで知っていた。新聞によると、その連中は「中形端艇よりまだお粗末な、百五十噸ばかりの漁船に乗ってやってきた、蒙昧無頼な日本人」の一団で、ホテルに泊る金もなく、ミルストホーン公園の隅で野営をし、上着の下にシャツも着ない不体裁な恰好でうろつきまわるため、大方の市民の鼻っつまみになっていたが、その乞食のような連中が、われわれは南緯七十四度十六分まで行ってきたなどと出鱈目な放言をするのでよけい評判が悪かった。
シドニーの市民はシャクルトンの探検隊を送迎し、七百噸の「ニムロッド」号でさえどんな目に逢ったか知っているので、難破船の寄せ集めのようなみじめな船が、一年中、やむときなく暴風雨が吹き荒れている南氷洋の怒号帯や五里霧中の濃霧帯を越え、氷山と圧氷の間を徘徊してきたなどといってみても、誰一人、真に受けるものはなかった。
とんでもない法螺吹きどもは、その年の十一月の中頃、ボロ船に乗ってなんということもなくシドニーを出て行ったが、翌年の三月の末、新西蘭(英国の自治領)のウエリントン港に帰ってきて、こんどは南緯八十度〇五分まで行ってきたと発表した。タカセという隊長はインタヴュウに行った土地の新聞記者に、こんな挨拶をしたというのだった。「こんどの探検で、われわれは気をよくしているんです。だが、たいした成功だとは思って居ませんよ」
そのとき、こんな対話をしている。(新西蘭タイムス一九一二年三月二十四日、ウェラー記者)
「南極探検はこれが最初ですか」
「そう、はじめてです」
「こういう成功を見るまでには、相当な準備をされたことでしょう」
「いや、格別、どうということもしなかった。なにしろ、あてのないことだから」
「こんどの行程は、前もって計画されたのですか」
「南極については、正直なところ、われわれはなにも知らなかった。往航でここへ寄ったとき、ヤング名誉領事から南極の地図と、シャクルトンの探検記(The Heart of Antarctic, vol. , London 1909のこと)を貰ったので、それを読んで、だいたいの方針をたてた」
「食糧は」
「米と罐詰、鯛味噌、昆布(トロロ昆布)……それから金平糖。まあ、そういったようなもの」
「橇行中の炊事は」
「日本から火鉢を持ってきたので、それでやった」
ロス海の鯨湾で日本の探検船と出逢ったことは、アムンゼンがタスマニヤ島のホバート港でデイリイ・クロニクルの記者に語って居り、その写真と消息の一部が、フランスの「世界一周」という雑誌に載ったのを、バード大佐も見ていた。一九一二年のはじめというと、あらゆる科学的な手段と方法を網羅したモーリンのオーロラ号とフィルネルのドイチェランド号が探検に従事していたが、それでさえ圧氷に追いまくられ、七十度内外の内陸の周辺を彷徨しただけで終ってしまった。
極地の神々ともいうべきアムンゼンとスコット大佐を除けば、ただ一人シャクルトンだけが二回目の探検(スコットといっしょに南極に来ているから、実際は三回目)で、やっと八十度圏内へ犬橇を乗り入れた。というのは、言い方を変えれば、ジェームス・クックがはじめて七十一度十分の南極圏に接触した一七七三年(安永三)から一九〇九年まで、百三十六年の間に二十回以上の探検が行なわれたが、この三人のほか、かつて八十度を越えたものはなかったということなのである。
一七七三 ジェームス・クック(英) レゾリュウション号 南緯七十一度十分一八〇三 リジョウスキー(露) イムペラトール号 同五十九度五十八分一八二一 ベリングハウゼン(露) ウォストーク号 同七十度〇五分一八二四 ウェッデル(英) ジェーン号 同七十四度十五分一八三八 ドュルヴィル(仏) アストロレーブ号 同六十九度五十七分一八四二 ウィルクス(米) ヴィンセネス号 同六十九度十五分一八四二 ジェームス・ロス(英) エリバス号 同七十八度十分一八九五 ボルヒグレヴィンク(諾) サウザーン・クロッス号 同七十八度五十分一九〇三 ドリガルスキー(独) ガウス号 同七十七度三十分一九〇三 ノルデンショルト(瑞典) アンタークチック号 同六十八度二十分一九〇四 ロバート・スコット(英) ディスカヴァリ号(第一次) 同八十二度十六分一九〇四 ブルース(英) スコティア号 同七十七度〇五分一九〇五 シャルコー(仏) フランセェ号 同七十度二十六分一九〇九 シャクルトン(英) ニムロッド号(第一次) 同八十八度二十三分 これがこれまでのギリギリの実績で、例外というようなものは一つもなかった。隊長から探検船の下級水夫まで含めれば、万という数に達する壮烈な大機動戦で、三人の世界選手――諾威のアムンゼン、英国のスコットとシャクルトンだけが八十度以南を征服した。アムンゼンは十四年前、ゲラヤへのベルジーカ号に乗り、南極海で十四カ月も漂流し、北氷洋で北西通路突破の苦難に充ちた体験を経たのち、一九一一年になって南極征服に成功した。スコットは一九〇一年から四年まで、南極海の圧氷の間に船をとめて執拗な攻撃を繰返し、四年がかりで八十度以南へ二度十六分だけ進み、それから八年後に「世界最悪の旅」といわれる、歌にもうたえないような橇行をつづけたすえ、辛くも極点に辿りついた。シャクルトンはスコットの第一回南極探検に同伴し、壊血病であわや死籍に入りかけるほどの苦楚をなめたうえ、六年後、再度、南極大陸に迫って、八十八度二十三分まで行った。ところで、この三人の世界選手は、もう一人も生きていない。スコットは南極点からの帰り途、(日記の日付から推すと、たぶん三月二十九日)氷原の上で凍死した。シャクルトンは第二回目の探検で、南極大陸周航の企図に失敗し、疲労困憊して南ジョージア湾の捕鯨基地で死んだ。アムンゼンはついこの年の五月末、ノビレ大佐の救援に飛行機で飛びだしたきり、消息を絶ってしまった。
世界の初年のような南極大陸の景観に、いささか新しい意味を附与するのに、ぜひとも危険だけが必要だというのではないが、探検の道は、死もまた、事業上の秩序による当然の行為と見るような、人間の篤実さに疏通した、極めて合理的なもので、気紛れな思いつきや、出たところまかせといった、いい加減なことでやれるような仕事ではない。濠洲のシドニー・サン紙は、
新大陸の発見者なりとおめおめ吐かす酔どれ水夫どもは鉄鎖に縛して海に投げこむべきにあらずや? (ボードレール「航海」)
という詩の一句を報道に代え、新西蘭タイムスを通じて発表した新大陸発見の囈言を体よく黙殺してしまった。
アムンゼンは、鯨湾で日本の探検船に逢った、といっているが、間もなくタスマニヤ島へ引揚げ、内陸探検の実際を見ていないので、それ以上の事実には触れていない。シャクルトン第一回南極探検に同行したことのあるシドニー大学のデヴィス教授だけは、いくぶん好意のある意見を発表していたが、知識も用意もなしに南極の岸に行きついた、日本人の無知の熱情に驚異の念を感じるといったくらいのところで、もちろん新大陸発見のことではなかった。
指南丸の日本人がウエリントン港で架空の宣言をしてから、十五年の歳月が流れた。アンドレー教授の軽気球はまだアメリカに着かないが、何年待っても、もういかなる土地にも着陸しないだろう。クック博士のほうは、ギッブスというデイリー・クロニクルの記者が食いさがって徹底的に糾弾をつづけ、その後、公式調査によって、まったくの虚報だったことが明白にされた。日本の南極探検のほうは、政府の主権要求もなく、占領決議のあった事実も聞かず、完全に無視され、忘れられてしまってから久しくなっていたので、南緯八十度〇五分の国旗の待伏せはいかにも唐突で、実相のあまりの意外さに、しばらくは思考の作用も営みかねるといった有様だった。
なんの奇もない白地の布に、太陽を表徴する未開の赤丸を捺した単純無比な標識は、強悍人種の陽気さを示そうとするかのように快活に身を躍らせ、遠い時の流れの彼方から、忘れかけていた言葉で話しかけてくる。「ここまでは来ましたが、大した成功だとは思って居りませんですよ」