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後白河法皇の院政中、京の賀茂磧でめずらしい死罪が行なわれた。
大宝律には、笞、杖、徒、流、死と五刑が規定されているが、聖武天皇以来、代々の天皇はみな熱心な仏教の帰依者で、仏法尊信のあまり刑をすこしでも軽くしてやることをこのうえもない功徳だとし、とりわけ死んだものは二度と生かされぬというご趣意から、大赦とか、常赦とか、さまざまな恩典をつくって特赦を行なうのが例であった。死罪は別勅によって一等を減じ、例外なくみな流罪に落着く。したがってそのほかの罪も、流罪は徒罪、徒罪は杖刑というふうになってしまう。
一例をあげると、布十五反以上を盗んだものは、律では絞首、格では十五年の使役という擬文律があるが、それでは叡慮にそわないから、死罪はないことにし、盗んだ布も十五反以内に適宜に格下げして、徒役が軽くすむように骨を折ってやる。また強盗が人を殺して物を奪うと、偸盗の事実だけを対象にして刑を科し、殺したほうの罪は主罪に包摂させてしまう。法文は法文として、この時代には実際において死刑というものは存在しなかったのである。
文治二年に北条時政が京の名物ともいうべき群盗を追捕し、使庁へわたさずに勝手に斬ってしまった。これは時政の英断なので、緩怠に堕した格律に目ざましをくれたつもりだったが、朝廷ではいたく激怒して、時政を鎌倉へ追いかえすのどうのというさわぎになった。そういう時世だから、死刑そのものがめずらしいばかりでなく、死刑される当の人は中納言藤原泰文の妻の公子と泰文の末娘の花世姫、公子のほうは三十五、花世のほうは十六、どちらも後後の語草になるような美しい女性だったので、人の心に忘れられぬ思い出を残したのである。
公子と花世姫の真影は光長の弟子の光実が写している。光実には性信親王や藤原宗子などのあまりうまくもない肖像画があるが、この二人の真影こそは生涯における傑作の一つだといっていい。刑台に据えられた花世の着ている浮線織赤色唐衣は、最後の日のためにわざわざ織らせたのだというが、舞いたつような色目のなかにも、十六歳の少女の心の乱れが、迫るような実感でまざまざと描きこめられている。
長い垂れ髪は匂うばかりの若々しさで、顔の輪廓もまだ子供らしい固い線を見せているが、眼差はやさしく、眼はパッチリと大きく、熱い涙を流して泣いているうちに、ふいになにか驚かされたというような霊性をおびた単純ないい表情をしている。公子のほうは、平安季世の自信と自尊心を身につけた藤原一門の才女の典型で、膚の色は深く沈んで黛が黒々と際立ち、眼は淀まぬ色をたたえて従容と見ひらかれている。肥り肉の豊満な肉体で、花世の仏画的な感じと一種の対照をなしている。
いまの言葉でいえば、二人の罪は尊族殺の共同正犯というところで、直接に手に手こそ下さなかったが、野盗あがりの雑武士を使嗾して、花世にとっては親殺し、公子にとっては夫殺しの大業をなしとげたのである。当時の律でも尊族殺は死罪ときめられていたが、比類のない無残な境遇におかれていたこの不幸な娘が死刑にされるなどと、誰一人思ってもいなかった。
寛典に甘やかされた考えからではなく、妻と娘に殺された父にして夫なる当の泰文は、かねて放埓無頼の行ないが多く、極悪人といわざるも、不信心と不徳によって定評のある奇矯な人物で、名を聞くだけでも眉を顰めるものが少なくなかった。のみならず、その妻と娘に、現在の父、そうして夫である男を殺させるようにしたのには、徹頭徹尾、泰文のほうに非があるのであって、二人の女性は無理矢理におしつけられ、やむにやまれず非常の手段をとったものである。公平な立場に立てば公子と花世に罪があるかどうかたやすく判定しかねる性質のものだったから、当然、寺預けか贖銅(罰金刑)ぐらいですむはずだと安心していたのである。
泰文は悪霊民部卿という通名で知られた忠文の孫で、弁官、内蔵頭を経て大蔵卿に任ぜられ、安元二年、従三位に進んで中納言になった。比叡の権僧正である弟を除くと、兄弟親族はほとんどみな兵部関係の官位についていたが、泰文だけは例外で、若いころから数理にすぐれ、追々、大学寮の算博士も及ばぬ算道の才をあらわすようになり、大蔵卿に就任するやいなや、見捨てられていた荘園の恢復にかかり、瞬く間に宮廷の収入を倍にするという目ざましい手腕を見せた。もっともその間に抜目なく私財も積み、深草の長者太秦王の次女の朝霞子を豊饒な山城十二ヵ荘の持参金つきで内室に入れるなど、三十になったばかりで藤原一門でも指折りの物持になり、白川のほとりなる方一町の地幅に、その頃まだ京になかった二階屋の大邸をかまえ、及ぶものなき威勢をしめした。
そのかみ忠文は将門追討の命を受けて武蔵国へ馳せ下ったが、途中で道草を食っているうちに将門が討ちしずめられ、なんのこともなく漫然と京へ帰還した。忠文としては、それはそれなりに一応の働きをしたつもりだったので、大納言実頼の差出口で恩賞が沙汰やみになったことを遺恨に思い、臨終の床で、
「おのれ、実頼」
などと言わでもの怨みをいう、あきらめの悪い死にかたをしたが、忠文が死ぬとすぐ、実頼の息子や娘がつぎつぎに変死するという怪事がおこった。
平安時代は、竜や、狐狸の妖異や、鳥の面をした異形の鬼魅、外法頭とか、青女とか、怪物が横行濶歩する天狗魔道界の全盛時代で、極端に冥罰や恠異を恐れたので、それやこそ、忠文の死霊の祟りだということになった。以来、忠文を悪霊とか悪霊民部卿とかと呼び、忠文の血族を天狗魔道の一味のように気味悪がり、泰文の異常な数理の才を天狗の助けかのように評判した。
泰文はこれも面白いと思ったのか、どこかの家で慶事があると、かならず出掛けて行って中門口に立ちはだかり、
「悪霊民部卿、参上」
と無類の大音声で見参する。稚気をおびた嫌がらせにすぎないが、輿入れや息子の袴着祝などにやられると災難で、大祓ぐらいでは追いつかないことになる。
泰文は中古の藤原氏の勇武をいまに示すかのような豪宕な風貌をもち、声の大きいので音声大蔵といわれていたが、全体の印象は薄気味悪いもので、逢魔ヶ時のさびしい辻などでは逢いたくないなにともつかぬ鬼気を身につけていた。たそがれどき、大入道で手足が草の茎のように痩せた、外法頭という化物が、通りすがりに血走った大眼玉でグイと睨みつけて行く。それがしの中将などはそれで驚死したということだが、つまりはそういった感じである。いつも眠そうに眼を伏せているが、時折、瞼をひきあげて、ぞっとするような冷たい眼附で相手を見る。武芸のある手練者も、泰文の冷笑的な眼附でジロリとやられると、勝手がちがうような気がして手も足も出なくなってしまう。当代、泰文ほど人に憎まれた男もすくないが、思うさま放埓な振舞いをしながら、ただの一度も刀杖の厄を受けずにすんだのは、ひとえに異風の庇護によることであった。
一般の庶民は別にして、公家堂上家の生活は、風流韻事に耽るか、仏教の信仰にうちこむか、いずれはスタイルが万事を支配する形式主義の時代にいながら、泰文は、詩にも和歌にも、文学じみたことは一切嫌い、琵琶や笛の管絃の楽しみも馬鹿にして相手にせぬばかりか、かつて自分の手で拍手を打ったことも、自分の足を、寺内へ踏みこませたこともないという、徹底した無信心でおしとおしていたが、そのくせ侮辱にたいしてはおそろしく敏感で、馬鹿にされたと感じると、その日のうちに刺客をやってかならず相手を殺すか傷つけるかした。
そのほかにも人の意表に出るような行動が多かった。泰文の身体のなかには、陳腐な習俗に耐えられないムズムズする生物のようなものがいて、新奇で不安な感覚を与えてくれるような事柄にたえず直面していないと、生きた気がしないといったように、野性のままの熱情をむきだしにして、奔放自在にあばれまわった。
衒勇をふるうことも趣味の一つであった。当時、粟田口や逢坂越に兇悪無慙な剽盗が屯していて、昼でも一人旅はなりかねる時世だったが、泰文は蝦夷拵え柄曲の一尺ばかりの腰刀を差し、伴も連れずに馬で膳所の遊女宿へ通った。遠江の橋本宿は吾妻鏡にも見える遊女の本場だが、気がむけばそのまま遠江まで足をのばすという寛濶さで、馬で疲れると、行きあう馬をひったくり、群盗の野館のあるところは、
「中納言大蔵卿藤原ノ泰文」
と名乗りをあげて通って行く。声の大きなことは非常なもので、賊どもは気を呑まれて茫然と見送ってしまうというふうだった。
また泰文は破廉恥な愛欲に特別な嗜好をもっていた。醍醐の花見や加茂の葵祭、勧学院の曲水の宴、仙院の五節舞、そういうありきたりな風流にはなじめない。すまし顔の女院や上は面白くない。すべて遊興は下司張った刺戟の強いほうが好ましい。宿場の遊女を単騎で征伐に行くのはもっとも好むところだが、そのほか毎夜のように邸を抜けだして安衆坊の散所へ出かけ、乞食どもと滓湯酒を飲みわけたり、八条猪熊で辻君を漁ったり、あげくのはて、鉢叩きや歩き白拍子を邸へ連れこんで乱痴気騒ぎをやらかす。恋の相手もまともな女どもでは気勢があがらない。大臣参議の思いものや夫婦仲のいい判官府生の北ノ方、得度したばかりの尼君など、むずかしければむずかしいほどいいので、いちど見こまれたら、尼寺の築泥も女院の安主も食いとめることができない。奇怪な手段でかならず成功した。
朝霞が泰文のところへ輿入れしたのは十六歳の春で、十年のあいだに六人の子供を生んだ。泰文には文雄、国吉、泰博、光麻呂の四人の息子と、葛木、花世という二人の娘があるわけだったが、頸居(七夜)の祝儀に立合っただけで、どの子もみな朝霞のいる別棟の寮へ追いやってしまった。泰文にとっては、子供というものはわけのわからない、手のかかる、人に迷惑をかけることを特権と心得ているようなうるさいやつめらで、男の子は、学資をかけて大学寮を卒業させなければ七位ノ允にもなれず、女の子は女の子で、莫大の嫁資をつけなければ呉れてやることもできぬ不経済きわまる代物だくらいにしか思っていず、それに自分のことが忙しすぎるので、子供のことなどは考えるひまがなかった。
朝霞はどういう顔だちの婦人だったかわかっていないが、朝鮮から移ってきた秦氏の血をうけ、外来民特有のねばり強い気質をもっていたようである。泰文が朝霞を妻に迎えたのは、もともと功利的な打算から出たことで、女体そのものにはなんの興味もなかった。朝霞のほうもそれを当然の事と諒承し、毎夜のように母屋のどこかで演じられる猥がわしい馬鹿さわぎを怨みもせず、内坪の北の隅にある別棟の曹司で六人の子供を育てながら、庭の花のうつりかわりを見て、時がすぎていくという感覚をおぼろげに感じる、植物さながらの閑寂な日々を送っていたのである。
吝嗇というのではないが泰文は徹底した自己主義者で、金銭に関しては、前例のないほどキッパリした割り切りかたをし、子供の一代に金をかけることなどに、なんの意義も感じていなかった。あるだけの金は自分ひとりのもので、子供らに使われるのはこのうえもない損だというふうに、そのほうの費えには青銭一枚出さなかった。朝霞は父や兄から泰文の評判をきき、おおよそそんなことだろうと見こみ、嫁資のほかに自分の身につくものをこっそり持ってきたので、子供たちの養育費はみなその土地のあがりから出していた。そのほうはよかったが、おいおい子供たちが大きくなり、上の三人を大学寮へ送らなければならぬ齢がすぎているのに泰文はなにも言いださない。今年は今年はと待っているが辛抱しかね、ある日おそるおそる切りだしてみた。
泰文は羅の直衣を素肌に着、冠もなしで広床の円座にあぐらをかいていたが、
「お前のいう子供とは、いったい誰の子供のことか」
と欠伸まじりに聞きかえし、それが自分の子供のことだと聞かされると、雷にでもうたれたような顔をした。そういえばこの家にも子供が何人かいたようだと、ようやく思いだしたらしかったが、その折、またなにか忙しい思いつきがあったのだとみえ、いいようにしたらよかろうであっさりと話をうちきってしまった。