Chapter 1 of 1

Chapter 1

カイダイ

平山千代子

四年の三学期であつた。

国語の教生が来て、平家物語の重盛諫言のところを教へることになつた。

教生といふのは今年卒業する大学部の学生の中から、一番か二番の人で、卒業後の練習のため女学校へ教へに来る人のことである。

その時の国語の教生は、私たちが一年の時の五年生で、キツネさんと呼ばれてゐた市村先生であつた。

キツネだと云ふので、あてられては大変と皆よく予習して行つた。

いよ/\その時間となり、先生はすまして教壇へお上りになる。後には先生の同級生が大勢(二、三十人)見学してゐる。先生は一通り読みが終つてから、

「では解釈に移ります」とおつしやつた。

さあ腕前(下しらべの)のほど、みせてくれん、と私もノートを開いた。

私がまだノートをひねくつてる中に、

「平山さん」といきなり呼ばれて、私は面喰らつてしまつた。第一、私の名前を知られてるなんて夢にも思つてなかつたのである。

鳩の豆鉄砲より尚甚だしかつたに違ひない。

「どうぞ、カイダイして下さい」

カイダイ? カイダイ?

呼ばれておどろいたばかりぢやない。変なことを仰せつかつた。仰せつかつたが、どうしていゝのかわからない。

私は突差に立ち上つて云つたものだ。

「カイダイ……ッて何ですか」と。

わーツとおこる爆笑の中で、私だけは生真面目にポカンとしてゐた。

先生もゲラ/\笑ひながら、

「カイダイといふのは本について、何時、何があつて、どういふことがかいてあるかをしらべることです」と教へて下さつた。

今までそんなことした事もなし、きいたこともないので、私はさう云はれて初めてわかつた。カイダイッて何ですか、ときいた位だから、やつてないのは分りきつてゐる。

やつてありません、と云つてしまへばよかつたのだが、そこで私は失敗した。

隣の智ちやんが、それどこぢやないといふ様に心配して、これをみろ、これをみろ――とばかりに私の腕をつゝついて、自分のノートを差出してくれた。あまりさゝやくので智ちやんのノートをみたが、何年とか、なんとか、かんとかと極くおぼえ書程度の簡単なもので、何と云つていゝかわからぬ。困つた顔をしてゐたが、智ちやんは親切に、

これを云へ、これを答へろと、つゝつきとほす。私は覚悟をきめて、しどろもどろいゝ加減なことを云つてしまつた。

あの時はトモちやんの親切をすてきれず、あんないゝ加減なことを答へてしまつたが、今思ふとなぜ正直にやつて来ませんでした、と云はなかつたんだらうとほんとに残念だ。

カイダイッてなあに? とこつそりきかずに、折角、正直に先生にきいたのに、なぜ大事なとこで、嘘をついて、胡魔化してしまつたか、今でもあの自分の卑劣さを考へると、がつかりしてしまふ。

(昭和十六年の思ひ出)

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