Chapter 1 of 7

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絹商人のハリスは商用がすんで南ドイツを故国へ帰る途中、この際ひとつシュトラスブルクから登山鉄道に乗って、じつに三十年もの歳月を経たこんにち改めて母校を訪ねてみようと、とつぜん思いついた。そして、ジョン・サイレンス(沈黙のジョン)が全生涯で最も不思議な事件の一つに接したのは、セント・ポールズ・チャーチャードにあるハリス兄弟商会の若い方の協同経営者が起こした、この気紛れな衝動のおかげであった。というのは丁度そのときハリスはたまたま旅行用背嚢を背負って、そのおなじ地方の山々を徒歩で旅しており、こうして羅針盤の二つの違った方位から、期せずして二人の男がおなじ宿屋へ向かって進んでいたからである。

今なおその学校は、三十年のほとんどを儲けの多い絹の売買についやしてきたハリスの胸の奥底に、独特の影響のしるしを残しており、またおそらく彼には自覚されていないにせよ、その後の人生全般を強烈に色どっていた。学校はプロテスタントの小さな村落共同体の徹底的に宗教的な生活に従属しており、ハリスの父は、彼を十五歳のときにそこへ送ったのだった。ひとつには、絹の商売に必要なドイツ語を学ぶためであったし、ひとつは、当時の彼の精神と肉体がほかのなによりも必要としていた訓育が、そこでは厳格だったからであった。

生活はじじつ非常にきびしくて、若かったハリスには、それなりに有益だった。肉体にくわえる懲罰は知られていなかったけれども、なぜか本人の魂を誇り高く立たしめて受け入れさせるような心理的、精神的な矯正法があった。その方法は誤ちのよってきたる根本をついて、おまえの性格はこれで清められ強められるのであり、単に個人的報復の意味で痛めつけられているのではない、と少年に教えるものだった。

それは、彼が夢みがちな感じやすい十五歳の少年だった三十年以上も昔のことだった。今こうして汽車が曲りくねった峡谷をのろのろと登る間、心の中でその歳月をいつくしみながら遡ってゆくと、忘れていたこまかい思い出が、影の中から目の前へ生き生きと立ちもどってきた。あすこでの生活は非常にすばらしかった、と彼には思われた。あの人里はなれた山の中の村では、ヨーロッパの各国から集まった数百名の少年たちに奉仕する献身的な友愛会の愛と信仰によって、生活は俗世間の騒がしさから守られていた。と、だしぬけに、さまざまな情景が記憶にまいもどってきた。彼は長い石の廊下の匂いと、松材で造った暑い部屋の匂いをかいだ。その部屋では、太陽の光りをあびてぶんぶん唸る蜜蜂の音を開かれた窓から聞きながら、焼けるように暑い夏の数時間を勉強についやしたものだった。そして、英国の緑の芝生を夢みながら、難しいドイツ文学にとりくんでいると――とつぜん、教師の怖ろしいドイツ語の叫び声が――

「ハリス立ちなさい! お前は居眠りをしている!」

そして彼は、本を片手に持って一時間身じろぎもせずに立っていなければならなかった怖ろしい罰を思い出した。膝が蝋みたいにくにゃくにゃになり、頭が大砲の弾丸よりも重くなってくる、あの罰。

それから、料理の匂いが、そっくりそのまま思い出された――毎日たべさせられた塩づけキャベツ、日曜日の水っぽいチョコレート、週に二度昼食に出される筋の多い肉の匂い。また彼は、英語を喋った罰として食事を減量されたことを思い出して、にっこり笑った。ミルク鉢のあの匂いが――六時の朝食に出されるミルクに浸した百姓パンから立ちのぼる甘い香気が――今またぷうんと匂うような気がした。それから、学校の制服を着た何百人もの少年が、黙りこくって眠そうに食べているだだっぴろい食堂が、まのあたりにうかんできた。少年たちは今にもベルが鳴って食事を中止させられはしないかと怖れながら、粗悪なパンと火傷するほど熱いミルクを、がつがつ呑みくだすのだった――そして、教師たちが席を占めている向うの端には、窓ともいえないほど長くて幅の狭い窓がいくつかあって、そこから向うの美しい野原や森林を眺めることができるのだった。

これがまた次に、みんな一緒に木製の簡易ベッドに寝ていた最上階の納屋みたいな大部屋のことを思い出させた。彼は記憶の中で、冬の朝五時にみんなの目をさまさせ、板石敷きの洗面室へ走らせる残酷なベルの響きを聞いた。洗面室では生徒も教師もひとしく氷のように冷たい僅かな水で顔を洗ってから、まったく無言の行で服を着なければならなかった。

この記憶から彼の心は、あざやかな映像=思考をともなって他の記憶へとすみやかに移っていった。そして、彼は、ぜったいに一人でいることができないための孤独感が自分の胸をむしばんでいたこと、すべてが――勉強も、食事も、睡眠も、散歩も、自由時間も“組”をつくっている他の二十人の生徒たちと共同で、しかも、少なくとも二人の教師の監督のもとで行なわれていたのを思い出すにいたって、背すじが寒くなるような気がした。一人でいられたのは、独房じみた音楽室で半時間の練習の許可を求めたときだけだった。ハリスは自分がヴァイオリンの練習に熱心だったのを思いかえして、ひとりでほくそえんだ。

それから、山々を巨大なビロードの絨氈みたいに覆っている広い松林の間を、汽車がぜいぜい息をきらせて登って行くにつれて、彼はみんなが兄弟と呼んでいた教師たちの親切さを感嘆しながら思い起こし、また、こんな土地に何年間も埋もれていられる彼らの情熱にあらためて驚嘆した。彼らが土地を去るにしても、それはたいていの場合、世界中の未開地方で一層きびしい伝道生活をおくるために出て行くだけだった。

彼は今一度、小さな森のある村の上にヴェールのように覆いかぶさって、悩みの多い俗世界をはばんでいた静かな宗教的な雰囲気のことを想ってみた。復活祭、クリスマス、新年などの、絵のように美しかった儀式。いくつとなくあった祝日や、非常に愉しかった祭日。殊に、ベシェール・フェスト――クリスマスを祝って贈物をする日――のことが思いかえされた。その日には、村中が二人づつ組んで、たいていの者が贈物を作ったり、それを買うために貯金したりするのに何週間もかけて、プレゼントのやりとりをしたのだった。それから彼は、教会で新年を祝う真夜中の儀式と、説教壇にいた牧師の光り輝く顔をまざまざと目の前に見た――それは村の説教師で、去りゆく年の最後の夜、パイプ・オルガンの向うの回廊に、次の十二カ月間に死ぬさだめにある人びとの顔を見、そして遂に自分もその仲間入りをしてしまったが、彼は説教の真っ最中に身も世もあらぬ恍惚状態におちいって、とつぜん神を讃美する言葉を狂ったように口走りだしたことがある。

いろんな記憶が、ごよごよと殺到してきた。山頂にあって没我的な生活を夢み、清らかに健全に素朴に力強く神を求め、数百人もの少年たちを崇高に訓育していた小さな村の姿が、妄執のように激しく彼の心の中によみがえった。彼は今一度、海よりも深く星々よりもすばらしい昔の超自然的な感激を味わった。月の光に照らされた赤い屋根の上にひろがる何リーグ(一リーグは約三マイル平方)もの森林から、溜息のように吹きそよいでくる風の音が、ふたたび聞えた。兄弟たちがあたかも実際に自分の肉体で経験したことがあるかのように、彼岸のものごとを語る声が聞えた。こうしてがたぴし揺れる汽車の中に腰かけていると、言いあらわしようもない憧憬の霊が彼の麻痺して疲れきった魂のしらべをかき鳴らし、心の奥深くにあって、とっくの昔に凍りついてしまったと思われていた、情緒の海をかきみだした。

そして、対照が――昔の理想主義的な夢みる少年と、今の実業家の対照が――彼を苦しめ、この世のものならぬ平和と、瞑想にふける魂だけに知られている美の霊が、彼の心臓にそっと指をふれて、静かだった水面に異常なさざ波をたてた。

ハリスはちょっと身顫いして、自分ひとりしか乗っていない客車の窓から外を眺めた。汽車はとっくにホルンベルクをすぎていて、はるか下の谷川は、石灰岩にぶつかって白い泡をたてながら流れていた。目の前には、林に覆われた山々の円頂にさらに円頂がかさなり、空を背景にしてくっきりと聳えていた。時候は十月で、空気は冷たく肌を刺すようで、樹木が発散する精気と湿った苔の匂いが、松の木のかすかな匂いと一緒に空気とまざりあって、えもいわれぬ香ばしさを醸しだしていた。頭上では、いちばん高い樅の木のてっぺんの間に最初の星がまたたきはじめ、空は清らかで、青ざめた紫水晶の色をしていた。その紫は、彼の心の中であらゆる追憶がまとまっている色合いと、まったくおなじように感じられた。

ハリスは座席へ背をもたせかけて、溜息をもらした。彼は鈍重な男で、洗練された感情なぞ何年来もったことがなかった。大男なので、実際的にも比喩的にも動かすには手間がかかった。彼の胸の中では、金のためにあくせく働くうちに溜った浮き滓で覆われているにもかかわらず、若いとき魂にとり憑いた神についての夢想は、まだ大部分が完全には死に絶えていなかった。

彼はこれほど多くの美しい黄金が集まり、邪魔されずに眠っていながら何年間も無視されていた、この小さな凹地へまいもどって、霊的な感情に乏しいながらも思わずうち顫えた。そして、近づく山々の頂きを眺め、少年時代の忘れられていた香気をかぎなおしているうちに、なにかが魂の表面を溶かして、三十年の昔この村で夢想と葛藤と若き悩みをいだいて生活していたとき以来 初めて彼を感じやすくしてしまった。

汽車がちっぽけな駅にがたんと停車して、灰色の石造りの建物に大きな黒い字で駅名が書かれ、その下に海抜高度がしるされているのを見たとき、彼の背すじを戦慄がはしった。

「この線でいちばん高いところだ!」彼は叫んだ。「よくぞ覚えていたものだ――ゾンメルラウか――夏の牧場、という意味だったな。この次の駅こそ、まさに母校の駅だ!」

汽車がブレーキをかけ、速力をおとして下りはじめると、彼は窓から首をつき出して、黄昏の中の見馴れた目印を一つ一つ眺めた。それらの目印は、夢に出てくる死人の顔みたいに、じっと彼の方をみつめた。胸の中で、奇妙な苦い感じが、なかば痛いような、なかば甘ったるい感じが疼いた。

「いつも二人の兄弟に後から見張られて、しょっちゅう散歩していた暑い白い道があったな」彼は考えた。「それから確かにあれは、森を抜けて“ディー・ガルゲン”へ、むかし魔女が処刑された石造りの絞首台へ行く曲り口だぞ!」

そこを汽車が通りすぎると、彼はちょっと笑った。

「それに、春になると花粉を地べたに撒きちらした“谷間の小百合”がある雑木林じゃないか。それから、まさかあれは」――とつぜん衝動にかられて、ぐっと首をつき出しながら――「フランスからきた生徒のカラムが私と一緒にキアゲハを追っかけたとき、許可なくして道から外れたことと、思わず母国語で叫んだことの罰として、兄弟パーゲルから減食処分にされた空地じゃあるまいな!」そして彼は、あっというまに記憶がまいもどって、あざやかなイメージが頭にあふれると、また笑った。

汽車が停まると、彼は夢の中の人間みたいに、灰色の砂利を敷いたプラットフォームにふわりと降り立った。細引きで縛りあげた木箱を持ってここで汽車を待ち、シュトラスブルク行きの列車に乗りこんで、二年間の流刑を終って故郷へ引揚げたときから、もう半世紀がすぎているような感じがした。彼は時の経過を古着みたいに脱ぎすてて、ふたたび少年の気分にかえった。ただ、物が記憶の中にあるよりも、ずっと小さく見えた。物は縮んで小さく見えるし、距離は妙に尺度が小さくなったように思われた。

彼は道を横ぎって、小さな宿屋へ向かった。歩きだすと、昔の同級生たち――ドイツ人や、イタリア人、フランス人や、ロシア人など――の顔と姿が、暗い森の蔭からするりと抜け出してきて、無口のまま一緒に歩きはじめた。彼らはハリスのすぐそばをすいすいと通りすぎては、いぶかしげに悲しげに目をあげて、じっと彼の目に見入るのだった。だが、名前を忘れてしまっていた。兄弟たちの何人かもついてきたが、これはたいてい名前で思い出すことができた――兄弟レスト、兄弟パーゲル、兄弟シュリーマン、教会の回廊にみえたという死すべきさだめの人たちの仲間入りをした老説教師の、髭だらけの顔もあった――それから兄弟ギージンがいた。暗い森は彼のぐるりを包んで、今にもビロードの浪となりその場へ打ち寄せ、ぜんぶの顔を洗い流してしまいそうだった。空気は冷たくて、すばらしく香ばしかったが、その匂いを吸いこむたびに、蒼ざめた記憶もまいもどってきて……

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