第一章 育種家
ジョン・レスブリッジの眼の前には、様々な色が点々と踊っていた。中はとても暑かったので汗が額に噴き出し、黒髪も濡れてべったり。鉢から顔を上げ、やっと腰を伸ばした。長いこと作業して、我慢できなかった。
温度計を見れば、ほぼ摂氏四〇度を差している。外も同じぐらい暑い。というのも雷雨が南から来て、むしむしする暗夜だったからだ。
小温室の明かり数灯を高段に移したが、温度は変わらない。換気口の新品綿網すら、通風を妨害しているような気がする。
どの棚の花々も華麗、蒸し暑い環境で咲き誇り、生き生きしているのは、ガラス温室ならではだ。でも、レスブリッジの関心はこれらの花じゃなく、足元の浅底苗床にあった。苗床の上部は細長い筒になっており、中に電球が煌々と輝いているため、新緑の葉っぱが暗紫色に見える。
種類ごとに区分けされ、芽生え直後のものから、群葉して開花前のものまであった。すべてナデシコ科で、いずれカーネーションが咲きそろう。中でも大ぶりにかがみ込み、慈しまんばかり。膨らみ始めたつぼみを、らくだの刷毛でやさしくなでて、つぶやいた。
「どんな花が咲くかなあ。人生の盛りをこんなばくちに三年も費やすなんて。競馬とか株じゃなく、花に賭けているんだから。またしても失敗か、はたまた何千ポンドの花を開発寸前か。来週わかる。とにかく今夜は終業だ。ああ神様、この小さな花には、どんな希望やら恐怖やら、歓喜やら悲嘆が待っていることか」
ニヤリ笑って立ち上がり、無意識に片手をポケットに突っ込み、タバコを探った。はっとして苦笑い、そうだ、ナデシコ新種が出現するまで吸わないと決めたっけ。別に美徳じゃなく、必要に迫られてのこと。というのも蟄居し、家賃を払い、残金五ポンドの身では慎重にならざるを得ないからだ。
まさにそんな状況だった。かつて学生時代には、高収入、円満家庭を夢見たこともあった。
スポーツや政治、恋愛すら無関心じゃなかった。平凡な英国人そのものであり、伝統に倣い、まっとうで幸せな人生を送るはずだった。ただ度の過ぎた芸術家肌で、型に収まらなかった。何事も美が基本であり、ほかに欲望を満たすものがなかったので、花々に関心が向いた。花こそ琴線に触れ、これ以上甘美なものはない。
たった一人の親戚である叔父も似た者で、この人と暮らし、順調にいけば、資産を相続するはずだった。
叔父のジャスパーペインも凝り性だった。大好きな花々の名前や性質を教えてくれて、幼い子供時分、字も読めない頃から、園芸家しか知らない花の名前を口走った。ベッカムホールにある広大なガラス温室内で、長い時間を一緒に過ごした。美しい交配種の幾つかにはジャスパーの名が付いていた。
当時、叔父が何をしていたのか分からないし、尋ねようもなかったし、いずれ自分のものになるはずだった。
ところが、叔父はとんでもない山師で、何千ポンドもの大金をひどい実験に使い、盗難に見舞われたとき、金持ちどころか、破産の瀬戸際だった。叔父が花の品種改良で日々の生計を立てていることなど、全く思ってもいなかった。
その盗難は三年前、予期せぬ驚くべき事態になった。高価な苗が盗まれて、自分が疑われてしまった。ある程度、不利な状況だったので、あえて弁解しなかった。深く傷つき、嫌気が差し、何もする気が起こらなかった。こうして二十五歳の時、職もなく世の中に放り出されてしまった。
生来誇り高く、感受性が強いたちで、誰にも頼らす、助言も求めなかった。教育は富裕階級の英国人並に受けたが、特技は花に関する深い知識以外なかった。ほかに何もなかったので、花卉栽培の先端農場に勤めたら、協力してひと儲けできるかも知れないと思った。
だが空しい望み、つまり失望に終わった。勤めた農場は商売一本槍で、商いにしか目がなく、レスブリッジの試みには冷淡で、金食い虫だと決めつけた。
二年後また無職になり、わずか数ポンドに困る有様だった。そこで腹をくくり、小さな農場を借りて、生活の糧を得て、とにかく小規模でも魅惑の実験をやろうと決めた。やがて、幸運が舞い込んだ。仕入れたランの中に新種が混ざっており、増やして五百ギニー稼いだ。
当地では、ため息をつくこともあった。得てして狂信者は無茶で、高価な植物に金をつぎ込んで趣味にのめり込むものだ。豊富な読書によって、新式の電気促成栽培方法を知り、やってみようと決心した。二年目の終わりには進歩もなく、資金もほとんど尽きてしまった。二、三小さな成功があり、たいした儲けじゃなかったが、将来の糧になった。
一方、致命的な失敗がたびたびあり、主因は実験場の気象条件のせいだと思われた。もう絶望的だった。マンチェスターが最適な場所だと聞きつけ、数週間前に、算段して小さな農場に移って来たのであった。やきもきしたが、貴重な苗も無事に移植し、夢の青いカーネーションが現実になりつつあった。
そして今、見よ、まさに開こうとしている。数日で運命が分かるはずだ。他の品種も開花に近づいているが、これは考えなくても良い。少なくとも二週間見なくても、とにかく一つぐらいは豪華な花が咲くだろう。
今まで自分にいいことはなかったが、ジャスパー叔父はすばらしい成果を得ていた。まあ、そのうち分かる。一方のレスブリッジはカーネーションに熱中し、最後の望みをつないだ。