Chapter 1 of 8

レスリイ・シュナイダア夫人は、七歳になる娘ドロシイの登校を見送って、ブレント・クリイクと呼ばれる郊外に近いロレイン街の自宅から、二町ほど離れたディクシイ国道の曲り角までドロシイの手を引いて歩いて行った。一九二八年一月十二日木曜日の朝のことで、雪を孕んだ空っ風が米国ミシガン州マウント・モウリスの町を吹き捲り、地面には薄氷が張っていた。そこらは、緩い勾配をもって起伏する野面の所どころに、伐り残された雑木林が散らばり、土地会社の分譲地の札が立っていたり、あちこち粗らに人家が集団まっていたりする、代表的な、寒ざむしい新開地だった。白い淋しいディクシイ国道が、遠く真っ直ぐに野の末へ走っている。毎朝その角まで送って来て、ドロシイと別れるのだが、小さな女の児が、其処から町の学校まで独りで歩いて行かなければならないと思うと、母親のシュナイダア夫人は、何時も可憐らしくてならなかった。殊にこの朝は、荒涼たる天候の故か、夫人は妙に感傷的な気持ちになっていて、国道まで出ても、娘の手を放したくなかった。固く握り合った儘、母娘は、また一町ほど町の方へ歩いた。ドロシイ・シュナイダアは、眼の碧い、輝かしい金髪の少女で、ロレイン街の家から約一哩離れたマウント・モウリス合同小学校附属の幼稚園へ通っていた。シュナイダア夫人はその朝に限って、学校まで送って行きたい程に思ったが、自宅には、ケネスという三つになる男の子が病気でむずかっているので、そうもならず、直ぐ引き返さなければならなかった。しかし、何かしら重い心臓が夫人の足を捉えて、そこの国道へ釘づけにしたに相違ない。

「ドロシイはいつものようにいそいそと、時どきふり返って手を振りながら遠ざかって行きましたが、私は、ドロシイが見えなくなってから十五分間も、夢中で道の真ん中に立って、その姿の消えた方向をじっと見詰めていました。気が付くと、低声にドロシイの名を呼び続けていました。何んですか、訳もなく耐らなくなって、追っ掛けて行って伴れ帰りたい気が致しました」

と、後でシュナイダア夫人が郡警察官ヘンリイ・マンガア氏―― Henry Munger ――に言っている。

ドロシイの父ウイリアム・シュナイダアは、近くのフリント市のビュイック自動車会社に勤めている塗工で、そのマウント・モウリス町の場末ブレント入江ロレイン街七一二番という自宅から、毎日自分で自動車を運転して工場へ通っていた。もう一台自動車を買って、シュナイダア夫人がドロシイを乗せて学校の送り迎えをするようにしたいと、夫婦で寄りより話し合っていたが、二台の自動車を置くことは、一職工のシュナイダアにとって鳥渡重荷なので、そのままになっていた。

午前十一時三十分になった。もうドロシイの帰って来なければならない頃である。シュナイダア夫人は、表に面した窓に立って、今にもドロシイの笑顔が街角に現れるであろうと、ディクシイ国道のほうを凝視めていた。するとそのとき、一台の自動車が、国道を走って来てちょっと停まるのが見えた。立樹の影を縫って過ぎたので、その自動車はぼやけて映ったが、確かに一度停止して、側面の扉が開いて直ぐまた閉まった音を聞いた。兎に角、そんな印象を受けて、シュナイダア夫人はドロシイが途中で誰か近処の人の自動車にでも乗せて貰って帰って来たのだろうと思ったが、その儘自動車は再び南へ走って、ロレイン街から四分の一哩程隔たったスタンレイ街道へ出ると、西を指して疾駆し去った。誰も降りた様子もないし、いくら待ってみても、国道から曲って来る人影もないので、夫人は病児 Kenneth のところへ帰って、看病に気を取られるまま二十分余り経った。正午である。それでもドロシイの姿が見えない。真剣な憂慮が夫人の上に来た。十二時に一応念のため学校へ訊き合わせると、生徒監 Mr. B. B. Fox が電話線の向うへ出て、幼稚部のドロシイ・シュナイダアは正十一時に校門を出て帰路に就いたと告げた。

筆者は、十代の頃からミシガン州に住んだことがあってこの辺の地理には比較的通じている心算である。

少女 Dorothy の父 William Leslie Schneider の勤務先ビュイック自動車会社の工場は、前に言ったように、ブレント入江から程遠からぬフリント市にある。

このドロシイ・シュナイダア事件の起った一九二八年一月十二日に先だって、前年一九二七年の十一月一日のことだった。骨を洗ったような灰色の墓標が立ち並んでいる其のフリント市の共同墓地で、エヴァリン・ダンカン、十八歳―― Miss Evelyn Duncan ――という美しい娘が、何者かによって残虐な暴行を受けたのち、女袴から破り取った布片で絞殺されていた惨事があった。何一つ遺留品も手懸りもなく、犯人はいまだに眼星がついていなかった。すると、その年の降誕祭の翌日、十二月二十六日の夜である。このフリント市から少し離れた Oak Hill 町の矢張り墓地で、マアサ・ガッツという附近の牧師の家の女中が、手巾で覆面をした労働者風の背の高い男に襲われて、この時は、奪われるものを奪われた丈けで生命には別条なかった。マアサは、靴下一つの殆んど裸体にされた上、靴紐で背ろ手に緊縛されたまま、外套を被って往来へ転げ出たところを、通行人に救われたのだった。それから間もなく、一九二八年に這入ってからだが――一月五日――今度は Floria Macfadden という七歳の少女が、程近いカアランド Carland 町へ通ずる淋しい裏道で、コロロフォルムを嗅がされて××されたと覚しく、心神喪失の状態で路傍に遺棄されていた。そのほか、附近一帯の町村で、夜娘が寝巻に着更えていると、窓硝子に男の顔が写ったとか、樹に登って二階の若夫婦の寝室を覗いた者があったとか――何ものか、眼に見えない淫魔が漂ってでもいるかのように、この、二七年から八年の初頭へかけて、そのミシガン州の一部に、不吉な雰囲気が揺れ動いていたのだ。それが、Mrs. Leslie Schneider の心持へ食い入って、ドロシイの帰宅の遅いことを案じさせずには置かなかったのだろう。

午後まで帰らないなど、ついぞないことである。犇ひしと不安に駆られ出したシュナイダア夫人は、機嫌の悪いケネス坊やを、親しくしている近処の家―― Mr. Thomas Mccarshy's ――タマス・マッカアセイ方に預けて、主人のマッカアセイに頼んで一緒に心当りを捜しに出て貰った。心当りと言っても、別に子供の立ち寄るような相識もない一本道である。捜すといったところで、マッカアセイ夫人がケネスのお守りをしている間、シュナイダア夫人とマッカアセイは、その 712 Lorraine Avenue, Brent Creek のシュナイダア家から、学校のある Mt. Morris 町までの途を、ドロシイの歩いて来るであろう逆に、二人で辿ってみるより他なかった。勿論ブレント入江一帯は隈なく捜索したし、学校友達の家や其処ここの商店にも一々這入り込んで訊いて廻ったが、ドロシイの消息は何処にも発見出来なかった。軈てそろそろ事態の急を意識して、マウント・モウリス町の代理検察官 Harry D. Gleason ハアリイ・D・グリイスンの助力が求められた。近処の店の者なども参加して、今はそれは相当の人数の捜査隊になっていた。彼らは改めて、沿道の村という村、町という町の露路抜け裏から、人家は戸別に叩いて歩いたが――其の時である。狂気のようになっている母親がふと想い出したのは、いつもドロシイの帰って来る午前十一時半頃に自宅の前のロレイン街とディクシイ国道の角に鳥渡停まったように思われた、あの自動車のことである。同時に、ドロシイ・シュナイダアの失踪は、もう学校のほうでも騒ぎになって、受持の女教師アナ・ニコラス Anna Nicholas は、生徒監フォックス氏と相談の上、上級生の全部を散らばせて捜索に当らせていた。既記の三つの暴行事件の他に、同じく前年の秋から、エドワアド・ヒックマン Edward Hickman という少年が行方不明になっていたり、十四歳の娘マリアン・パアカア―― Marrian Parker 殺し、加州に起った当時有名な事件で、全米を震撼して間もなくだった――がこれも普通人の考えられない残酷な状況の下に強姦扼殺されていたりなど、これら到底些少のセンチメントのある人間の所業と思われない兇悪な犯罪が人々の記憶に生なましく、殊にこのミシガン州を貫くディクシイ国道の一角には恐怖の旋風が舞い立っている最中である。シュナイダア夫人が、今から思えば怪しい自動車が家の前を通るのを見たと話すと、一同は早や、これが容易ならぬ事件への端緒であることを覚悟しなければならなかった。「一体ミシガン州は斯ういう悲劇の現場であるべく約束づけられているのか?」―― Is Michigan to be the scene of such a tragedy? これは事件の当時、同州デトロイト市のデトロイト時報記者 Ralph Goll が報道の際スロウガンとして連日紙上に掲げて、全州の警察を鞭韃し、一般公衆の奮起と協力を促したので一寸有名になった文句である――人々は文字通り石を起し草の根を分けて、ドロシイの影を求めて狂奔し出した。気絶に近いシュナイダア夫人をマッカアセイ夫人方へ送り返して置いて、捜索隊は勇躍して其の謎の自動車の行方を追うことになったが、するとここに、マウント・モウリス町からブレント入江に至る一哩程のディクシイ国道の真ん中辺のところに、Sid Hodges という男の経営している小さな瓦斯油供給所がある。シュナイダアの隣人タマス・マッカアセイと代理検察官グリイスンが此処へ立ち寄って訊くと、シッド・ハッジスは、

「ああ其の児なら毎日通るから識っています。今日ですか。ええ、きょうも通りました。朝は知りませんが、お正午近く学校から帰るところでしたろう。十一時二十分頃、独りでブレント入江の方へ歩いて行くのを見かけました」

尚このシッド・ハッジスの口から、ドロシイが通り過ぎて間もなく、紺灰色に塗った一台の箱型がマウント・モウリスの方角からやって来て、ハッジスは此の車に十ガロンのガソリンを売っていることが判明した。その自動車は、南へ、つまりドロシイと同じにブレント入江のほうへ走り去ったが、両者の通過した時間と距離を考え合わせると少女がこの給油所と自宅の間を三分の二まで行かない内に、自動車に追い抜かれたろうという、シッド・ハッジスの推定である。

「男が一人乗って運転していました。何うと言って別に特徴のある人物ではありませんでしたが、人相や着衣は、はっきり覚えています、私はそんなことに注意を払う方ではないんですが、理由があるんです。というのは、代金をはらうのを忘れて行こうとしたので、呼び停めて請求しました。そのために、普通の客よりも余計に言葉を交して、また顔を見た間も長く、それだけ印象に残っている訳です。金は直ぐ、失敬失敬と言って笑いながら出しました」

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