一
テオドル・ルーズベルトが、一九〇二年に大統領の覇権を獲得して、九年までの二期、その前後に於けるW・マツキンレイ及びW・H・タフト――彼等三者の数年間にわたる激しい争覇戦は、北米政戦史の花吹雪と謳はれて、今尚機会のあるごとに多くの人々に噂をのこしてゐるものであるが、――丁度その時代に恰もそれらの三代表の鼎立に伴れて、ワシントン、フイラデルヒア、ハーバードの三大学蹴球争覇戦が、中部地方の人気を弥が上にも湧き立てたといふはなしは、無論そんなお祭り騒ぎの出来事は、夢のやうに消え去つて、おそらくは世界運動史にも残つてはゐないのである。何故なら、それらの試合は全く時の三大統領の政戦に附随したもので、源はと云へば、覇者を讚へるための「大学祭り」に過ぎなかつたのである。ペンシルバニア地方を代表したフイラデルフイア大学はタフトを、ニユーハンプシヤイア地方からのハーバード大学はマツキンレイを、そしてメリーランド地方としてはワシントン大学がルーズベルトを支持した。新しい年の冬に挙行される、この吉例の試合には、云ふまでもなく、時の大統領が臨席して手づから勝盃を贈るのが慣例だつた。
マツキンレイ大統領の任期には、「W」大学と「P」大学が、ハーバードに迫り、ルーズベルトの任期には「H」と「P」がワシントンを敵と構へ、タフトの任期には「W」と「H」がフイラデルフイアを陥入れんといきまくといふが如き勢ひで、終ひにはそれらの勝敗がプレジデントの人気にさへも影響しようといふ理不尽なる風が吹きまくつた。
「W」大学が「P」を一蹴して、ハーバードを一八九八年、九年と続けて撃破した折などは、勝盃を贈らうとするマツキンレイ大統領の腕が悲しみに震えてゐた、あれが次の総選挙に際しての敗戦の陰影をつくつた――といふやうな噂が飛んだ位ゐであつた。
この物語の発端は一九〇四年の秋、ポートマク河畔の合宿に屯した「W」大学の選手連の風景から一挿話を取らなければならない。彼等は前年の冬にはハーバードを破り、フイラデルヒアに迫つて惜しくも破れた。更に前々年は脆くも大敗の憂目を嘗めてゐた。――大統領ルーズベルトは、任期以来三年も続けて「H」と「P」に「憂鬱なる勝盃」を授与してゐた。
あかつきの空にひゞきて自由なる
鐘は鳴りて
ポートマク河の誉れの夢よ
われら青春の永久なる勝利
……
これは新たにつくられた「W」大の応援歌の一節であるが、その大意は白堊館の秘書課から合宿所宛に送られた激励文に従つて、作詞されたものといふ噂であつたが、彼等にとつては寧ろ皮肉の痛手を覚えずには居られなかつた。
「吾等万一今回の試合に敗れたるあかつきは翌年度の出場権をコロンビア大学に譲渡の止むなき絶壁に瀕せるなり。夢に想像するだに悲憤の極みならずや。吾等一党はアラスカを放浪せんよりも、命の片々をポートマク河の吹雪と希ひしが本来の誓ひならざりしや。」
合宿所のホールには、キヤプテン・ジミーが赤インキの刷毛を揮つて大書した檄文が、大統領の肖像の下に貼り付けられた。
「ジヤツキー……今夜の、お前はタキシードは間に合ふのか?」
霙まぢりの雨の中で練習を済ませたラガー達は、濡鼠で合宿に戻ると、いつもより念入りにシヤワアを浴び、中にはもう一遍剃刀をつかふ者もあつた。
「それがね……」
と、ジヤツキーと呼ばれた青年は、洗つたばかりの房々とした茜色の髪の毛が重く額に垂れさがるのを、やけに首だけで後ろに振りあげながら鹿爪らしく唸つた。彼は航海科の学生でJ・L・ハミルトンといふ名前であつたが、ジヤツキーといふのは仲間の誰でもが一つ宛持つてゐる通称だつた。――「あれから、もう三週間目になるといふのに、未だに祟つてやがるんでね……」
「ぢや、今夜の映画会では貴様はもう一遍技手を務めるより他に手はないぞ。」
「ベン、そんな意地悪るを云はずに、今日だけはお前、技手をやつて呉れ。実はだね、ヘンリーと俺に対するローランドの愛情を、今日こそは明白にしようと、約束してあるんだ。どちらを? と吾々は単刀直入に彼女に訊かうといふんだ。そして、その結果に依つて吾々の友情が新しい路に進まうといふ瀬戸際なんだ……」
「ハツハ……羨しい限りだな。それにしても吾輩の上着は永久に吾輩の所有であるだけで、貴様の役には立つ筈はあるまいが。」
「寒い日の鴉のやうに俺はもう一遍控室の隅で孤独の口笛を吹かなければならないのかな……あゝ、辛い哉だ。」
長身のジヤツキイは、水車馬といふ仇名のベンの丸い肩をつかんで、大形に慨嘆の見得を切つたりした。――「せめて半日宛で好いから三日間、W日報社へ働きに行く許可が得られゝば、斯んな安価な悩みに、斯んなに深刻に悩まされるなんていふ空しさから忽ち救はれるといふのに――あゝ、あゝ――だ。」
「一体、ジヤツキーは何処で、そんな大尽遊びをしたといふんだい、白状の仕方に依つたら日報社行の時間をつくつてやらないこともないぜ。」
不図傍らからジミーが呼びかけた。不断なら学生達は小使銭に窮迫するとW日報といふ新聞社に何時でも臨時の雇員になつて日給を稼ぐといふ方法であつたが、練習期に入つて以来の選手は特にそれを禁止されてゐた。
「いゝえ……」
ジヤツキーは相手がキヤプテンだつたと気づくと、苦笑を浮べてあかくなつた。「ほんのちよつとばかりソーダーフアウンテンで騒いだ程度のことなんですが、つい、ヘンリーの愛国心に同感してシヤムペンを三本も抜いてしまつたのが……決して弁解しようとしてゐるんではありませんぜ。」
すると、ジミーは思はず晴れやかな笑ひ声を挙げてジヤツキーの肩を打つた。
「貴様もか。俺だつて今夜はお前と同じ状態なんだ――と云つたら、お前も心丈夫だらう、何しろ、愛国心には予算はないからね。」
噂のヘンリー事、大津弘雄はその夕刻も日報社の外報部で、臨時電信係として全身の神経を緊張させてゐた。――既に日露両国の国交は断絶して、黒木大将の率ゆる第一軍は鎮南浦へ上陸し、奥大将の第二軍は遼東半島を襲ひ、金州城を陥れた。弘雄の末弟にあたる大津行雄は黒木軍の先頭部隊に従つた一上等兵として、沙河の激戦に火花を散らしてゐた。
大津弘雄は、ワシントン大学工学部の電信科の学生で、同時に蹴球部の一選手であつたが、彼の愛国心を擁護しようといふ部員達の特別の好意から、練習時間を繰り合せて外報部への夜勤を許されてゐた。――彼は、その頃あたりの学校ぢゆうで、別段最初の日本学生といふわけではなかつたが、恰度、後にも先にも同胞の姿の絶えた折で、戦争が始まつて以来は、単に彼が一人の日本人といふだけの理由で、急に周囲の人達から特殊な眼で注目されはじめたのを、光栄と感ぜずには居られなかつた。街を歩いてゐても、見知らぬ人から握手を求められたり、女学生達から、
「ベリー・ブライト!」
などゝいふ讚辞を浴びせられるのも、次第に度重つた。彼は新聞社で日本軍の勝利の報を受けとる毎に、多くの社員達にとりまかれて、恰も彼自身が勇士であるかのやうなもてなしを享けた。
「もう、ホールの準備は終つて間もなく見物を入場させるところだが、そつちの用意は何うだ?」
ジヤツキーからの電話だつた。弘雄は日本から着いた「日本映画」の第二報を携へて、合宿のホールへ、その説明者としての役目を振り当てられてゐた。合宿では月々一夜を選んで選手の休養かた/″\、彼等の父兄や友達を招いで茶話会を催すのが例だつたが、この二三回この方日報社にとゞく戦争の実写映画と幻灯とを映写した。それは街々の公会堂でも催されたが、合宿のは日本学生の説明だといふので噂が高まつた。あちこちの映画会から大津弘雄に説明を申し込まれたが、学生は一般の観覧者の前に立つことを禁じられてゐたので、益々合宿所の幻灯会が好評の的になつてゐた。
「君は今、何処に居るんだい? ジヤツキイ、待ち切れないで出かけてゐるんだらう。」
「さうだ。ローランドのフルーツ・パーラーからだよ。」
「今ね、この一週間分の給料を貰ふところだから、あのことは心配しないでも好いよ。」
「……ジミーの分も大丈夫か?」
「金の要るいとまもなかつたからね。」
と弘雄は笑つた。――そして彼は社の裏口から自転車を飛ばして、ユダヤ人の質屋へ赴き三着のタキシードを受け出した。彼等はこの前の幻灯会の帰りに、果物屋の二階の喫茶室で、その晩の弘雄の説明振りに感激のあまり、凡そ自分達の力量では経験もなかつたシヤンパンを抜き過ぎたゝめに、上着を脱がなければならなかつたのであつた。
「ヘンリー、お前の雄弁は生れながらの筈ではなかつたのに、あの説明振りは、共和党を弾劾したわれらのプレジデントの演説よりも素晴しいものだつたぞ。」
ジミーもジャツキイも、そんな大形な讚辞を呈して、弘雄のために、そして勇敢なる日本軍の為に――と熱狂して、一張羅の上着を飲んでしまつたわけであつた。
「お前に働かせてゐる俺達の好意が――却つて俺達の飲代になつてしまふんで、少々矛盾してゐるな。」
ジヤツキーは漸く取り戻した上着の袖を通しながら「お蔭で技手にならずに済んだ。」
と苦笑した。
「愛国心には予算はないからね。」
弘雄も、その流行語を口にして笑つた。ローランドを真中にして、彼等は合宿へ向つて馬車を駆つた。
合宿所のホールは定刻前に満員だつた。学生達は一様に黒朱子の襟を光らせた上着をそろへて、来客の斡旋に多忙を極めた。官舎の秘書長が家族伴れで秘かに見物に現れ、その同伴者の中にはテオドルの令息令嬢が加はつてゐると、控室へ伝達される位ゐの盛況だつた。弘雄は、音楽部員が奏しはじめた「軍国歌」を、夢のやうに聞きながら、切りと説明文書暗誦に余念なかつた。そんな間にも、もはや彼の出場を待ち構へた観客席の方からは、ヘンリー、ヘンリーと呼びあげる声が次第に物々しかつた。彼は、これまでの解説振りがそんな好評を博してゐるのだ――と考へるよりも、勇敢なる日本国民の一員として、時機的なる好奇の眼を寄せられてゐるのだ――とおもふと、おそろしく茫大無比な責任感に圧迫され勝ちであつた。
出物は、例に依つて日本側とロシア側の司令官の肖像幻灯にはじまり、無名戦死者の名前が無数に列挙された。そして順次に、両国の軍隊の輸送の光景を撮つた断片的の活動写真が映写された。弘雄は、桜の造花を一輪胸先に飾つて演壇に現れ、水底のやうに森と静まつた薄闇の中で、おもむろに講演をすゝめてゐた。彼は記憶力が並外れて勝れてゐたので、説明書を見て二三回控室で暗誦したのみで、演壇に現れてからはたゞ画面に伴れてたうたうと弁じながら、日程や数字に関してもいさゝかの誤りもなく、次第にその口調には悲壮気な情熱が加はるのであつた。
「……先づ露軍の陣容を申しあげますならば、戦闘陣営の参謀部を四平街にすゝめて中央となし、その東翼一帯にはクロパトキン大将の統率する第一軍歩兵百六十大隊、砲兵四十七中隊、騎兵八十四中隊をもつて戦線に備へ、中央部より以西遼河に至るまでの平原地帯にはカウリバルス大将の統率する第二軍歩兵百七十六大隊、騎兵四十二中隊、砲兵六十八中隊を敷いて防衛し、更に遼河以西より大蒙古地帯に渡つてはミシチエンコ中将の統率せる騎兵四十八中隊、砲兵三中隊を以て背水の陣に備へ、海竜城地方から北山城子にかけてはレーネンカンプ中将の統率せる歩兵四十二大隊、騎兵二十四中隊、砲兵十四中隊を備へて側面の守備に置き、ビリデルリング大将の統率する第三軍歩兵百二十八大隊、砲兵四十八中隊、騎兵十二中隊を公主嶺方面の全線に配置し、戦略予備隊としてはリネヴイツチ総司令官の新輸送部隊をおくり、こゝに総兵力歩兵五百三十八大隊、騎兵二百十九中隊、砲兵二百七中隊と算上さるゝ一大軍勢であります。凡そ日本軍勢の三倍にあたる兵力であり、加之、日本部隊に於きましては現役士官の大多数は死傷して、予備後備の士官達が出動するの状態に至りつゝあつたのに引き換へて、露軍の輸送力は大陸の無尽――欧露の線列兵を挙げて波の如く尽きざる優勢であります。こゝに於きましては、今や日本軍の鋒先は恰も数万の飛竜に反抗ふ蜂の如き状態であり、一騎兵をもつて千百の敵を斃すべく、ひたすら炎える意気を持つてのみ血戦の覚悟に奮ひ立つたのであります。――あゝ、桜咲く東方の島に果して神は御恵みを垂れ給ふでありませうか!」
弘雄の額からは油の汗が流れた。彼が、最後の言葉を放つて一息いれると、場内には割れるばかりの歓声が巻き起つた。白ちやけたスクリーンの上には、今や小学生の打振る日章旗に送られる出征軍を満載した列車が、濛々たる黒煙を挙げて東海道の風景の中を南下してゐた。
……列車の窓から、上半身を乗り出した出征兵士達は、肩と肩に折り重なつて、見送りの群集の歓呼に応へてゐた。――弘雄は、斜めに画面を見あげながら、
「斯くの如くロシアは、その本国に尚々強大極まりもなき兵力を抱擁するに反し、吾は既に有らん限りの兵力を用ひ尽したるなり、而して開戦以来にうしなひたる多くの将士を、今後容易に補充することも能はざる状態なり。座して守勢をとるも、進んで攻勢をとるも、前途悠遠にして、容易に平和の回復を得るの望みなく、雲さへも日々に暗澹として相争ふ人類の姿を見守るばかりであります。――されど見よ、日本軍人の面上に浮ぶ美しき微笑は、諸君の眼に如何なる意味をつたへて映ずることでありませうか……」
続けるに連れて、弁士の語調も観客の声援も、颯々として熱狂の頂点に達せんばかりであつた。いつの間にか、多くの観客は、
「バンザーイ……バンザーイ……」
といふ言葉を覚えて、応援の声を放つた。
「バンザーイ……バンザーイ――プル・ハード、プルーハード……」
そんな騒ぎの中に立つてゐると、恰度それらが軍用列車を送つてゐる画面の群集からの声とまぎらはれ、弘雄は自分も今、あの列車に投じて出征してゆく者と寸分も違はぬ凜たる夢心地に酔つてゆくばかりであつた。
遥かに――弘雄の故郷の草葺屋根の下でも幻灯会が催されてゐた。十畳間を二つ貫き欄間から欄間には子供のつくつた小さな日章旗と聯隊旗が縦横に張り回され、床の間には、御聖像軸の下に、乃木、黒木、奥、東郷の諸大将の肖像画が掲げられ、※の上に組み立てられた鎧の上には連縄が張つてあつた。そして昼夜の差別もなく灯明が絶えなかつた。老主婦のたいは、百五十の石段を算えて、裏山の摩利支天堂に「丑の刻参り」の祈願をこめてゐた。満洲の野に出てゐる末子の行雄に、実にも潔き護国の鬼と化せよ――と彼の母は神を通じて伝達した。彼女は、また、アメリカといふ国で、生命を賭して闘ひ、一日本人としての名誉を樹てん――と手紙の度に知らせて来る長男弘雄の、その所以は知らなかつたが「御前試合」と同然であるといふ戦ひの、勝利のために神前に額づいた。
座敷には近所の子供達が充満して、廊下に溢れ、庭の泉水の傍らには篝火が焚かれて、老若の見物人で立錐の余地もなく、鹿の角の定紋のついた法被を着た四五人の職人が声をからして整理に没頭してゐた。恰度築山が適度の勾配をつくつて居り、奥の壁に天井から垂れさがつたスクリーンを正面に見下ろすことが出来るので、莚を敷いて席をつくるほどの盛況であつた。
スクリーンの裏側に丸窓を境ひとした北向の六畳間が太郎とその従兄の照雄の勉強部屋であつたが、幻灯会の夜は音楽室並びに弁士控室に当てられた。弁士は湘南新聞の社長で、虎の如き音声と吾から自慢してゐる虎髯の、不断でも木綿の紋付羽織を着て手綱のやうに長い白の羽織紐を首にかけて結んでゐる服部万十郎であつた。「万十――まんぢう……」といふ声援がかゝると彼は、
「それは吾輩の本名を呼ぶのか、それとも嘲笑的、綽名なるか?」と開き直り「否、否!」といふ返事が聞えるまでは、講演を中止してゐるのが癖であつた。彼は得意の絶頂に達すると幻灯の合間に自吟自演の剣舞を披露した。
音楽部は、太郎のオルガンと、ケラア先生の手風琴と、太郎の若い母親の月琴から成立つたトリオであつた。ケラアといふ老境のイギリス人は、町瑞れのメソヂスト教会の宣教師で、太郎のオルガンと英会話の教へ手であつた。
「太郎が学齢に達したならば、当地の小学校へ入学せしめ……」云々といふ手紙を、その父の弘雄は、未だ太郎が三才にも達せぬ頃から、折に触れては細々と遠大な希望を述べて両親や妻に書き送り、ともあれ、彼が言葉を喋舌りはじめたら間もなく、習慣的に英語の会話を教へ込んで欲しい――と熱心であつた。
「母さん――僕はいまにひとりでアメリカへ行くの?」
太郎は、そのことを空想すると、何か自分が不思議な人物であるかのやうな、漠然と、止め度もなく寂しい念に誘はれ、到底まはりの者が実行など出来るものかと高を括つてひとりで安心したり、胸をときめかせたりする習慣が自然と七才の彼に憂鬱を知らしめたかのやうであつた。
「お前は行き度いと思ふかね――そのうちにケラア先生がアメリカをまはつて国へ帰られるといふことなんだが――お前がほんたうに行き度いといふんなら、いつでも父さんのお友達が乗つてゐる船が横浜へ来る時に、頼んでも好いんださうよ。」
お葉はさう云つて、凝つと太郎の顔を視詰めるのであつた。――太郎は、いつもその視線が何故ともなく青光りを堪えてゐて怕く、何う答へたら母の機嫌を害はずに済むだらうか? と、本意なくも、そのことばかりが気に掛るばかりであつた。お葉は、今迄機嫌好く笑つてゐたのに、突然に空色が変つて、狂乱状態にはしる場合が珍らしくなかつた。ひとりで琴を弾いてゐるかとおもふと、遇然にもそこを通りかゝつた太郎の跫音が無礼だつたと憤り出して、がむしやらに楽器を掻き乱して悲鳴を挙げた。――それ故、彼は幻灯会のオルガンを弾ずる時にも、何よりも月琴の母の様子ばかりが案ぜられて、秘かに横目をつかつた。母が眼を閉ぢて余念もなく弾奏に耽つてゐると安心して、指先が自由となり呂律正しいベースをふんで弾ぜられた。戦争がはじまつてケラア先生の帰国の噂も立消えとなり、太郎は八才で学生鞄をさげたところ、第一学期の成績から、操行点一つが乙で、卒業までもそれは取り返しがつかなかつた。別にいたづら者といふわけでもないのだが、特に授業時間中に落着きが足りず、常に左右に心を配つてゐるかの如き腺病状態が乙の原因だと、町役場の収入役であつた祖父が訊いて来た。――。
服部万十郎が、例に依つて戦闘状態の大略を述べ終ると、
「先づ諸君、では精一杯に征露軍歌を絶叫して――」
と力一杯卓子を叩き「ランプ……」と命じ、更に音楽部へ向つて「おう……」と合図する。同時に鎖を引くと消えるアメリカ製のきらびやかなオイル・シヤンデリアが、ワアツ――といふ観客の熱狂と共に幻のやうに消えて、技手役の照吉が写し出す日章旗のへんぽんたる光景が華麗な色彩を浮べた。
「はじめ……ツ!」
万十郎が拳骨を振りあげて真実虎の如くに吠えた。音楽が先に立つて、やがて満場は老若の差別もなく手拍子足拍子も物々しく、血煙も立つかと思はるゝばかりの世にも壮絶なる大合唱が、あはやさしもに重たげな草葺尾根も吹き飛ばさん勢ひで巻き起つた。
〈敵ハ幾万アリトテモ スベテ烏合ノ勢ナラズ 烏合ノ勢ニ非ズトモ 味方ニ正シキ道理アリ 邪ハソレ正に勝チ難ク……〉