一
「電灯を点けて煙草を喫かす、喫ひ終ると再び灯りを消してスツポリと夜着を頭から引き被る――真暗だ。彼は、眼を視開いてゐた。……云ふまでもなく、何も考へてゐない。眠り度い! と希ふ心は、とうに麻痺してゐる。……時計の音ばかりが、イヤに勢急に響いて来る、――一寸快よいやうな気もする。――間もなく彼は、また慌てゝ灯りを点ける……。一種特別な疲れを覚えて、また指の先が煙草へ触れる……」
「眠い一日」といふ小説の冒頭に、彼は斯う書いた。まだ続く。――「全く同じ動作を何辺か繰返してゐるうちに、雨戸の隙間から蒼白い明りが滲み込むだのに気付くと、彼はホツとして、その勢ひで起きあがる。さうして、努めて静かに一枚だけ雨戸をあける。――外気は未だ夜と明方との間を彷徨して、煙つてゐる。彼は、えがらつぽい唾気を庭先へ吐き飛ばすと、再び寝床へもぐつて、両眼をパツチリと視張つた儘、障子の明るいところを眺めてゐる。其処は、水底のやうにぼんやりと明るいだけで硝子越には何も見えない。――そのうちに、恰度この明方の静かな曙光に似た軽い疲労が何処からともなく湧き出して、つい彼が気附かぬ間に眠りがやんわりと愚かな意識を覆つて了ふ……これで彼は、他合もなくぐつすりと眠つて、午過ぎになつて漸く目を醒ます。だから彼が、夜眠れないのは当然なのだつた。」
「君の、「眠い一日」ツてやつ読んだよ。」鶴村は、斯う云つたぎり容易に次の言葉を続けやうとしなかつた。彼は、直ぐに鶴村の沈黙のうちに軽蔑の意が含まれてゐるのを悟つた。「相変らず、とでも云ひたいやうなものだね。」鶴村は、電灯の球に煙草の煙を吹きかけてゐた。
「初めの二枚ばかり、厭だね。全体に調子が甘い。――殊に書き出しの甘さッたらない、歯が浮いたよ。それから、第一主題が、恰であそびだ。魂に触れる何物もないぢやないか。何らの象徴がない。……憧憬もない、と云つてまた倦怠のメランコリアもない。ただ君の例の、蒼白い心の戦慄とでも云つたやうな詩的な気分は軽い調子で割合に好く出てゐたよ。」鶴村が此処で一寸言葉を絶やすと、安価な感情の持主であるところの彼は、もう、一寸浮ついた心持に変つて有りがたさうに、腕組をした。
「……(未だ画を写し出さないのみか、灯りの鈍い幻灯のやうな明るさが、ほとほとと濃度を増して、やがて小さな庭木の数々が海底の藻のやうに浮び出した。)と、いふあたりは一寸うまいよ。君は、仲々叙景は巧だね。」鶴村は、それで反つて軽蔑的に云つたつもりなのだが、彼はそれには気づかず、「フヽン。」と、ワザと恥しさうに笑つた。
「だが――」と鶴村は彼の悟りの悪いのに焦れた、「銀のナイフでトンカツを喰ふかたちだね。ハッハッハ。」
鶴村は、バーナード・ショウの如き名評を降したつもりだつたが、頭の鈍い彼には、その言葉の意味が解らなかつた、得体の知れないことを云ふ奴だ、と思つた。
「ドストイエフスキーは、刑場に引かれる時その足に繋がれた鎖の重味に一種の快感を覚えたと云つてゐるが……そこだ、そこ迄ゆかなくつては駄目だ、つまりわれ/\の……」
鶴村は、突然声を高めて斯んなことを云ひはじめたが、さすがに彼も、鶴村の言葉が無稽な興奮に過ぎないやうに思はれて来て、退屈になつた。