一
すゝきの穂が白んで、山道で行きちがふ子供達から青い蜜柑の香気がかがれる。――夕暮にちかい時分に岡の裏側にある競馬場へ行つて見ると、「シーズン」が近づいたといふので日毎に練習馬の数が増えてゐる。
僕は、馬や競馬に特別の興味を持つたことはないが、散歩に出かけるとそこの岡の上の木さくによりかゝつて、下に、盆地になつて見降される競馬場を中々面白く見物するやうになつてゐる。晴れの日の事は好くは知らないが、かうした静かな夕暮時に競馬の練習を見物してゐるのも、また一興といふほどの心地なのだつた。――さうしてゐるうちに、おゝ、彼女は! といふ風に遠眼でも、幾頭かの馬の名前なども覚えてしまつた。
ドリアン――。
これは知友が飼育してゐる馬の名前であるから普段からどこでゝも一目で解つてゐて、何となく好意を寄せてゐた。今年は、こゝのレースにはださないといふうはさを聞いたが、いつ来ても僕はさつさうとして練習に余念のないドリアンの姿を見うけてゐた。
「やあ、今日も来てゐるな。」
と僕はドリアンを見だす毎につぶやくのであつた。その日も僕は主にドリアンの様子ばかりを眺めてゐたが、ふと乗手に気づいて見るとどうもいつもの騎手とは違ふらしい。ドリアンなら僕はいつも傍へ寄つて何かしら愛撫のしるしを施したいほどの親しみを持つてゐるのだが、今度の、その世話係りの若者とはいまだ口を利いたこともない仲なので、堪へて傍見してゐたが、もしや今日のは飼育主のYではなからうか。それならばうれしいが――といふほどの熱心さで、乗手の顔を確めようとした。で僕は肩にかけてゐる望遠鏡を取りだして、見定めようと試みたのだが、切りに駆け回つてゐる最中で騎手の顔はたてがみにかくれて、その上ハンチングを眼深かにかむつてゐるのでたれとも判別し難いのであつた。それにしてもYではないらしい。大変に小柄な騎手で、柿色のシヤツを腕まくりしてピツタリと馬の首根に吸ひついてゐる様子を見ると、少年らしく思はれた。