Chapter 1 of 15

稽古

「今つけてやる」

そう言ったきり、フイと師匠の雷門助六は、立っていってしまった。もうそれから二時間近くが経っていた。キチンと座ったまま両方の足の親指と親指とを重ね合い、その上へ軽く落とした自分のお尻がはじめ小さな風呂敷包みを膝の上へ載せたほどに、だんだんギッチリと詰まった信玄袋の重さに、しまいにはまるで大きな沢庵石でも載せられたかのようになってきていた。

「…………」

いかにも江戸っ子らしい嫌味のない面長の顔全体をしかめて、お弟子の古今亭今松はジッとジーッと耐えていた。

でも最前までは算盤責めの拷問かとなんとも言えない烈しい痛みだった腰から下が、もう今ではなんの感覚もなくなってしまっていた。

押しても、突いても痛くなかった。

恐らく大身の槍をプスリ通されたとて、なんの痛みももうあるまい。

肉全体が痺れてしまって、もう完全なバカみたいになりきっていた。

落語家なればこそ、この長い長い時間を、たとえ痛もうが痺れようが、ジッと耐えて座り通していられるのだ。そこらの牛屋で、東雲のストライキを怒鳴りちらして、女義太夫の尻でも追っ駆け廻している書生さんたちには、頼まれてもこの辛抱はできまい。

自分で自分に感心しながら今松は、この間の晩の大雪がまだ消え残っている、枯れ松葉をいっぱい敷きつめた小意気な庭先の手水鉢へ、ふッと目をやった。ベットリ青苔の生えている手水鉢の水の真ん中へ、一月の午後のおてんとさまが薄白い顔を小さく浮かせ、どこかの猫が背伸びするように後脚だけで立って、音立ててその水を飲んでいる。

…………飴屋の唐人笛が聞こえる。

下谷も入谷田圃に近い、もとなんとかいう吉原の大籬の寮の跡だという、冷たくだだッ広いこの家は、明治三十八年の東京市中とは思われないほど、ものしずかだった。ましてや日露の大戦争が、あの巨大国を向こうに廻して未曾有の大勝利を占めとおし、全日本をあげて万歳また万歳の連呼に夜も日も足らない今日この頃であろうとは。

「叱、叱……畜生」

退屈まぎれに今松は猫を追ってみた。水を飲むのをやめて真っ白な大猫はチロッとこっちを見るようにしたが、そのままふてくされたようにノソリノソリ枯松葉を踏んで、突き当たりの椎の木の下の石燈籠の陰へ姿を隠してしまった。薄白い雪の上へ、煤色に小さな足跡が残された。

それにしてもこの間の大雪の晩は――。

今松はさっきとは別にキリリとした眉をしかめた。

ひどいのなんのってあんなことってあるだろうか。

去年の暮れの下席、千住の天王前の寄席だった。

ところが場末も大場末の千住の寄席のうえに、上野の公園の桜の枝なんか何本折れたかわからない、何十年来の大雪。

まるで芸人さんがやってきてくれなかった。

六人の無断休演があって、七回も高座へ穴があいてしまった。

前の人は下りてもう他の寄席へ行ってしまっているし、あとの芸人さんはまだやってきていない。

高座は空っぽにしてはおけない。たった一人だけ楽屋にいる今松がよんどころなくそのたんび高座へ上がっていった。

これだけでもいい加減、体裁の悪いところへもってきて、まだ落語家になったばかしの悲しさ、柳寿斎爺さんに教わった刀の銘を聞きにいく「波平行安」っておよそ他愛のない小噺をたったひとつ今松は知っているっきりだった。

しかたがないから、それをやった。

まあ最初の一回は、よかった。

きまりの悪さを押し隠して二回目も、同じ「行安」をやった。

三回目も、四回目もまた「行安」だった。いや五回目も、六回目も。面の皮千枚張りと言うが二千枚三千枚張りの供車にして同じ噺をしゃべり立てた。

もう、これで――今度こそ誰かやってきてくれるだろう。そうしたらあとは真打の左龍さんまで、ヌキなしでトントンといく。どうか、どうか神様、皆が休まずきてくれますように。

にもかかわらず、また一人きて、また二人ヌキ。

万事休すなり。

ほんとうにもう心から底から、オイオイ泣きたくなってしまった。いや、涙こそこぼさないが、顔中、大泣きに泣いていたろう、今松。

泣きべそで第七回目の「行安」をしゃべりに上がった。さぞや聴くほうも辛かろうが、演るほうも並や大抵じゃ――。

「御苦労だったな、若えの。サ、祝儀だ」

見兼ねたのだろう。大べそで今松が高座から下りてくると、宵から正面桟敷にいた痩せぎすの刺っ子を着た侠な頭がガラリ楽屋の板戸を開けて入ってきて、二十銭銀貨一枚くれた。

……でも、ほんとに今考えても、ゾーッとする。

いくら大雪の晩とはいえ、よくもお客様がおとなしく聴いていてくれた。

よせよせとも言わなければ、蜜柑の皮や下足札や座蒲団を投りつけられることもなく、かえって二十銭銀貨一枚いただけたなんて。

……言ってみればその晩のことが、しみじみ、つくづくと骨身にしみて、今松、いけない、こんなことでは、「波平行安」の小噺ひとつ覚えたまんまで、いくら前座でも、もうとって二十。落語家のはしくれで候と俺はすまし込んではいられない。

覚えることだ、早くまとまった噺をひとつでも、二つでも。

深く深く心に感じるところあって、にわかに、師匠助六のところへ、激しい稽古に通いはじめたのだった。

が――。

そのまた、稽古の辛いのなんのって。

師匠の雷門助六は、片目であったが、噺も巧く唄も巧く三味線まで器用に弾けて、いっぽうの大看板だった二代目古今亭今輔、俗にめっかちの今輔の一番弟子で、なんともいえない愛嬌のある盤台づらの赤ら顔。人、仇名して軍鶏と呼ばれ、その頃柳派では指折りの人気者だった。

高座は他愛なく馬鹿馬鹿しかったが、楽屋は正反対に厳しかった。それに、短気。

笑い鳥のような高座の軍鶏は、ひとたび楽屋へ下りるが否や、嘴を尖らせ、羽交に波打たせ、意気巻いて相手へ突っかかっていくあの闘鶏の凄まじさがピリピリ全身にうずいていた。

とりわけ、稽古はやかましかった。

自分の気が向かなければ十日が二十日もしてくれなかったばかりでなく、気に入らないとひとつ噺を二カ月でも五カ月でもやり直させた。

現に、今松の兄弟子の今朝には、こんな話がある。

「親子のつんぼ」という小噺。

つんぼの親父が、つんぼの倅に向かって、

「倅や今、向こうを通ったのは、横丁の源兵衛さんじゃないかえ」

言うと倅が、

「なあに、今向こうを通ったのは、横丁の源兵衛さんだよ」

「アアそうか」

親父コクリと肯いて、

「俺はまた、横丁の源兵衛さんだと思ったよ」

……たったこれだけの小噺であるが、今朝、この噺を覚えるのにじつに六カ月かかった。

それでも師匠の気に入らず、とうとうオジャンになってしまった。

あまり毎日毎日、時刻を定めてはやってきて、

「今向こうを通ったのは横丁の源兵衛さんで……」

とやるもので、とうとうしまいにはこの今朝が入谷の助六の宅の横へ曲ってくると、遊んでいる近所の子供たちが、

「ヤー横丁の源兵衛さんが来やがった」

……でも、まだそこまではいいとして、ある朝、助六が隣の家の婆さんと垣根越しに挨拶していたら、その婆さん。

「あのおッ師匠さん、もっと大きな声でおっしゃってくださいましよ、私しゃ至って横丁の源兵衛さんのほうで……」

「…………」

これにはさすがの助六が参ってしまった。

すぐ隣にこんな耳の遠い人のいたこともしらず、面当てがましく六カ月もつんぼの噺をやらせる奴もないものだっけ。

こう助六は照れたのであるが、その耳の遠い婆さんにまでいつとはなしに聞き覚えに覚えさせてしまったほど、今朝の「横丁の源兵衛さん」稽古は激烈であり、峻厳であり、執拗でもまたあったのだった。

「……遅いなあ、ほんとに師匠」

いつか手水鉢の中の日が翳り、庭全体が薄暗くなってきて、ザワザワ椎の木の枝々が風立ちはじめた。

ゾクンと今松は肩のあたりをすくめた。

あまり痺れ過ぎた腰から下は、かえって今ではなんでもなかった以前のようにシャンとしてきてしまっている、つねってももう痛い。

「サ、この間教えたとおりやってみねえ」

そのときサラリ襖が開いて、さらぬだに真っ赤な顔から咽喉首へかけてをいっそうテラテラ光らせ、黄八丈の丹前へ大柄の半纏を引っかけて師匠の助六が入ってきた。

ア、お湯だったのか道理で。

今松は、納得がいった。

師匠のお湯ときた日には――。

仲間でも長湯で知られた助六、二時間は御定法だった。

「サ、やんねえ早く」

ドデンと今松のまん前へ座ってまた言った。

「ヘエ」

いきなり、許嫁の前かなにかへ出たように浅黒い顔をボーッと染めて今松は、ピョコリとお辞儀をした。黙ってもうひとつ、お辞儀をした。

「やるんだよ早く」

気短そうに、助六は銀煙管で、ポンと円火鉢のへりを叩いた。

「ヘ、ヘエ、ただいま」

もう一ぺん小さくお辞儀をして、もうチャンと座っているものを、さらに座り直すようにした。

「寿限無」

あの、子供に長い長い名前をつけてもらって困る噺。

そのほんの一部を、今松は一昨日、師匠から聴かせてもらったところだった。

今日はそれを、師匠の前で丸ごかしにしゃべらなければならない。

「……エー……エー……」

二度ばかり言ってから、

「エー、かくばかり偽り多き世のなかに、子のかわいさは誠なりけり、親御さんのお子供衆をおかわいがりになる味はまた別でございまして……」

しゃべりながら今松は、自分の声がふるえていることを感じた。

調子もよくない。

それには「子供衆をおかわいがりになる味はまた別で」なんて言うけれど、この自分は孤児で、親はほんとうに子がかわいいのかどうか、実のところはまだそのへんもたいへんに疑っている。その俺が白々とこんなことをしゃべったところで、どうして巧い調子で言えるものか。「寿限無」なんてとんだものを稽古してもらうことにしてしまった。

もっともっと今の俺らしいお色気かなにかの噺でも稽古してもらうんだった。そうしたら拙いなりにも、もう少し、どうにかしゃべれたろうに。

短い時間のうちにこんなことを考えて、師匠のほうをチラと盗み見た。

赤ら顔を伏せるようにして、助六は居眠りでもしているよう、うつむいている。

……いよいよ、八さんの登場。本題だ。

「エーごめんください」

前より少し調子を高くして、八さんを登場させた。

「いけねえ」

ムクッと盤台面が持ち上がった。

「八さんは商人じゃねえ、職人だ、江戸っ子だ、それもガラッ八って仇名のある代物なんだ。そんな、ごめんくださいなんて、おとなしい調子で言うかよ。……今日は――ッ」

いきなり頓狂に調子を張り上げて、

「今日は――ッ……てんだ。やってみねえ」

「ヘイ」

頭を下げたが、二度三度、首を傾げた。考えてみた。

孤児ではあったけれど今松、生みの親は家柄だったと聞くし、薄情だった育ての親夫婦も、お玉ヶ池界隈では一、二と呼ばれる町医者。その義理の親との間が巧くゆかず、医者にされることもまた死ぬよりいやで家を飛び出し、好きで飛び込んできた落語家の世界ではあったけれど、「ガラッ八」になることは氏より育ち、奇妙に恥しくてならなかった。でも、こんな自分の心持ち、どうして師匠助六が知ろう。

「……今日は――ッ」

アッサリまた叱られないうちにやってのけて、

「オヤオヤこれは、八さんかい」

とたんにしわ枯れた隠居さんの声で言ったら、

「待て、ちょいと待て」

とたんに怒鳴りつけられた。

「かりにも隠居の身の上だ。相当の暮らしをしていなさるんだぞ。ひと間こっきりの家に住んじゃいなさらねえ」

「…………」

「としたら、八さんが、今日は――ッと声をかけたとき、オヤオヤこれはとすぐ隠居が顔を出して来る奴があるかい。まず玄関があって、次の間がある。そこをこう出てきて、こう表のほうを透かして見てそれから、オヤ、これは八さんかいと、こうあるべきじゃないか」

「ア、なるほど」

「サ、それだけの間を置いてやってみろ、もう一ぺん」

「ヘイ」

もう、「今日は――ッ」と言う声が、少うしばかりイタに付いてきた。それから、ほんのちょっとの間、黙って、表のほうを透かして見るようにしてから、

「オヤオヤこれは八さん、しばらく見えなかったが、どうおしだった。……ヘイ、じつはお子さんがお生まれなすってね……ホー、どこのうちへ……イエ、あっしどものお宅へネ」

「いけねえ」

また師匠が赤い顔を上げた。

「どこのうちへ、と隠居が聞いて、あっしどものお宅へと八さんが答えるんじゃおかしくねえ。ホーどちらのお宅へ……あっしどものお宅へネ……こうくるから面白れえんだ」

言われてみればこれもその通りだった。

「それから、イエ、あっしどものお宅へ……と言う、そのイエも要らねえぜ。イエと言うために、ひと呼吸遅れる。ぶッつけ、あっしどものお宅へネとやりねえ。そのほうがおかしい」

「わかりました」

その通り、やり直した。なるほど、そのほうがずっと自然で、倍、おかしかった。

「……ところでねえ、隠居さん」

また今松は、八さんの言葉をつづけた。

「今日が、その、なんなんだ、うちの餓鬼の、その、なんだ、初七日なんだ……エッ、子供さん死んだかい」

「馬鹿野郎」

だしぬけに師匠が、お閻魔様のような目を剥き出した。

「子供さん死んだかいとはなんだ。そんな薄情な言い草があるかい」

「ヘイ」

今松は頭を垂れた。

「ヘイじゃねえ、覚えときねえ、隠居の口の利きようぐれえ」

しばらく見据えるようにしていたが、

「エッ、そのお子さん、お亡くなんなすったかえ――こう言うんだ。でなきゃ、言葉に情ってものがねえや」

「…………」

黙ってひとつうなずいた。

「サ、もういっぺん、八さんの出からやり直しだぞ」

ピリピリ眉を動かしながら助六はまた、銀煙管を取り上げた。

やり直しては、また、やり直した。

つかえてはいけないもういっぺんと始めからやり直され、その人間のその場合の性根とちがうぞと言ってはまた、なんべんもやり直しをさせられた。

しみじみと辛く、しみじみとありがたかった。

従って序の口にずいぶん長いことかかってしまって、やっと「寿限無寿限無」の長い長い子供の名前を立板へ水を流すように、畳み込んでしゃべるところへと入ってきた。いよいよ庭先が薄暗くなりいよいよ椎の立木が烈しく枝々を鳴らしはじめている。

「じゃ名前のところをやってみろ、一生懸命」

師匠は言った。

「へ」

頭を下げて、

「……寿限無寿限無五劫のすり切れ、海砂利水魚の水行末、雲来末の風来末、食う寝る所の住む所、やぶら小路藪柑子……」

とたんに、助六は立ち上がった。庭に面したほうの細い廊下へ出た。突き当りの厠の戸を開けて、中へ入っていった。そうして、なかなか出てこなかった。

情なや、便所へ行ってしまったのだった。

「やぶら……やぶら小路藪柑子……」

思わず今松は、もう一ぺん同じことを言ってしまった。

これだけ人に一生懸命しゃべらせておいて、大便所へ行ってしまうなんて――。なんとも形容のできない張り合い抜けのした心持ちにされてしまったことだった。

でもしかたなく今松は、続けた。

「……パイポパイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピー、ポンポコナーの長久命の長助」

やっと終わりまでしゃべったものの、あてのないとわかりきっている矢でも放つように、グッタリ調子は萎えて腐っていた。

しゃべり終えてそれっきり、黙っていた。

「なぜ黙っちまったんだ」

いきなり便所の奥から小言の声が飛び出してきた。

「なんべんもなんべんも繰り返してやるんだ。繰り返し繰り返しやるから、口がほぐれて落語家が一人前になるんだ。やれやれ、なんべんでも。第一、今のは調子が弱い」

「ハ、ハイ」

あわてて今松はまたしゃべりはじめた。

「……寿限無寿限無五劫のすり切れ、海砂利水魚の水行末、雲来末に風来末、食う寝る所の住む所、やぶら小路藪柑子、パイポパイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピー、ポンポコナーの長久命の長助……寿限無寿限無五劫のすり切れ、海砂利水魚の……」

叱られないうちまた続けた。

「水行末、雲来末の風来末、食う寝る所の住む所、やぶら小路藪柑子、パイポパイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピー、ポンポコナーの長久命の長助……寿限無寿限無五劫の摺切れ、海砂利水魚の水行末、雲来末の風来末、食う寝る所の住む所、やぶら小路藪柑子……」

もういっぺんやった。さらにまた、やった。またやった。またやった。だんだん舌が硬ばって痺れてきた。ラ行の音が怪しくなった。それでもやっぱり繰り返した。いつか目をつむって一心にしゃべりつづけていた今松の鼻先を、にわかにプーンと掠める花麝香のような匂いがあった。

思わず薄目を開けてみた。

「…………」

マーガレットに結った大柄の艶かしい娘が、やや着古しの紫ぞ濃き元禄模様の普段着のまま、自分と少し離れたところに、ションボリとして座っていた。

ア、お艶ちゃんだ。

今松は少しドギマギした。

同じ柳派へ出て新内を語っているこのお艶は、たしか自分よりひとつ年下だが、あだな節廻し、撥さばきが、美しい高座姿とともに今なかなかの人気を呼んでいる。

なぜか今松とは不思議に気が合って、前座になったばかりの自分なのに、初めて見習いに出た三の輪の新花亭以来、いつも分け隔てのない口を利いてくれている。寄席の帰りにみつ豆や稲荷鮨をおごってくれたことも幾度かあった。

「今松つぁん、今松つぁん」

いつもそう親しげに呼んでくれては、姉のように高座や楽屋の注意をしてくれている。

助六のお神さんが富士松和佐之助といって、新内では女ながらも大看板なので、お艶は始終ここへ習いにきているのだけれど、今こうやって一心不乱に稽古の真っ最中、スーッと近くへきて座っていられると、さすがに妙なバツの悪さを感じないわけにはゆかなかった。

それにお艶ちゃん、いつもこけている頬がいっそうの痩せを見せ、顔色も悪い。元気もない。

今自分がソッと目で挨拶をしたときも、いつものように大きな美しい目で笑いかけてはくれず、寂しくうなずいたばかりだった。

ジーッと座っているなで肩のあたりが、ガックリ打ちのめされたように慄えている。

どうしたんだろうお艶ちゃん。

もしやなにか心配事でもあったんじゃ――。

すぐにも呼びかけて訊きたいけれど、稽古の二字が許さなかった。

「……エエとどこまでしゃべったっけかな、アアそうだあすこだ」

あわてて心のなかで自問自答して、

「……パイポパイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイの……」

ワザとそっぽを向いてしゃべりだした。

が、気にかかる。

やっぱりどうしても気にかかる。

お艶ちゃん、どうしたのさ、お艶ちゃん、なにかよほど心配なことでも……。

訊きたくなるのを無理に耐えて大声で、

「……ポンポコピー、ポンポコナーの長久命の長助……寿限無寿限無五劫のすり切れ、海砂利水魚の……」

ああ気になるなあお艶ちゃん。

「水行末、雲来末の風来末、食う寝る所の住む……」

ねえお艶ちゃん。

「ところ、やぶら小路藪柑子、パイポパイポ、パイポのシューリンガン、シューリン…」

ねえ、ねえ、お艶ちゃん。

「ガンのグーリンダイ、グーリンダイの……」

お艶ちゃん、お艶ちゃんったら。

「ポンポコ……ポンポコナーのお艶ちゃんったら」

思わずこう言ってしまったら、

「バ、馬鹿――」

いよいよ暗くなってきた便所の奥の窓からニューッと師匠の真っ赤な顔が、

「ナナナ、なにがポンポコナーのお艶ちゃんだ。ソ、そんなとんちきな寿限無は、露西亜にもねえや」

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