Chapter 1
”Ja, wie lcherlich! und doch wie reich an solchen Lcherlichkeiten ist die Geschichte! Sie wiederholen sich in allen kritischen Zeiten. Kein Wunder; in der Vergangenheit lsst man sich Alles gefallen, anerkennt man die Notewendigkeit der vorgefallenen Vernderungen und Revolutionen; aber gegen die Anwendung auf den gegenwrtigen Fall strubt man sich immer mit Hnden und Fssen; die Gegenwart macht man aus Kurzsichtigkeit und Baquemlichkeit zu der Ausnahme von der Regel.“Ludwig Feuerbach 哲学はその他の文化の諸形態とつねに或る原理的な連関において繋ぎ合わされている。この連関からして哲学にとって、それの課題は必然的に産まれて来るのであり、生産的であろうとする限り、哲学は、この連関の自覚の上に自己の任務を把握して行かねばならない。文化の諸領域相互の結合の仕方そのものはいつでも歴史的に規定されている。そして私はこの特殊なる規定性の根源をそれぞれの歴史的時代における基礎経験の特殊なる性格において見出し得ると思う*。一層詳しくいえばこうである。おのおのの時代にあって文化の諸形態、あるいは最も広い意味におけるイデオロギーは、単純に平面的な交互作用の関係に立っているのではなく、かえってそれらは層を成して重り合い、かかる立体的なる関係において交互作用を形作っている。しかもこの成層構造は時代によって歴史的に異なる。或る時代においてはイデオロギーのうち例えば宗教が、しかしながら他の時代においては学問的意識がその構造の基礎となっている。このような差異の根柢はそれらの時代における基礎経験の構造のそれぞれの特殊性にある。基礎経験はその特殊性に応じて自己を存在のモデルにおいて抽象せしめる**。かく存在のモデルとしておのおのの時代において新たに把握された存在の領域は、それ自身モデルの意味において、まさに存在論的に過重されるところの必然性をもっている。新たに把握された存在の領域は規則的にまず現実存在、さらには価値存在の絶対圏へ引き入れられ、その対象はつねに一切の世界変化の独立変数として妥当する。この選ばれた領域の構造は他の存在の領域へ導き込まれ、かくして全体の世界、あるいは少なくともその大部分はこのモデルに従って解明されることとなる。ところでかくのごとき過程に相応してあたかも次のことがある。存在のモデルとして必然的に抽出された領域に関する意識すなわちイデオロギーは、その優越なる存在論的性質の故に、いわば「形而上学的なる」妥当性を獲得すると同時に、他方ではもろもろのイデオロギーの連関においてつねに基礎層の位置を占めるに到るのである。しかるに基礎経験の構造はおのおのの歴史的時代においてそれぞれ特殊的であり、そして存在のモデルもまたそうであるから、したがってイデオロギー諸形態の成層構造の土台となるものもまた時代に応じて相異ならざるを得ない。このことがいま我々にとって重要である。もとより諸文化形態の成層構造の認識は、或る人々が注意しているところの文化形態相互の間の類型的および類構的(stil-und strukturanalog)関係の事項と矛盾するものでない。偉大なる時期の芸術、哲学ならびに科学の間には型式と構造との類似がある。例えばフランスの古典悲劇と第十七、第十八世紀のフランスの数学的物理学との間のこの関係はデューエムによって叙述されている。またひとはシェクスピヤおよびミルトンとイギリスの物理学との間に、あるいはライプニツの哲学とバロック芸術との間に、さらにはマッハ、アヴェナリウスと絵画上の印象主義との間にそのような類似を見出し得ると信ずる。ところでかくのごとき事実は単純に文化の諸領域の間に平面的な交互作用の関係があることを語るものではない。その事実はこのような関係に基づくのではなく、またそれらの文化形態相互の間の意識的な翻案によるのでもなく――もちろんかかる場合も存在する、例えばダンテとトマスとの場合、――かえってそれはその根源をそれらの文化形態が一の同一の礎礎経験の表現であるところにもっている。このことはいわゆる型式類似の最も厳密に行なわれている場合が、新しい時代の基礎経験の、伝承され、出来あがった、古い文化形式を力強く推し除けて新たに自己みずからのうちから表現形式を産みつつあるときであるということによって明らかである。このとき個人的な、意識的な影響から全く独立に、もろもろのイデオロギーの間に型式類似が成立する、文化の形式または方向の推移は知識もしくは意志以前に行なわれる。もしそうであるならば、意識形態相互の間の類型的および類構的関係とは撞着することなしに我々はイデオロギーの成層構造を考えることが出来る。そしてもしおのおのの時代においてそれぞれ独自なる構成を有するイデオロギーの層の意味を把握するならば、我々は、何故に唯物史観が経済史観と絶えず混同され、そして何故にかく混同されることに原理的には反対しつつもなおそこに否定し難き統一を認めざるを得ないかの理由を理解し得るであろう。けだし現代にあってはその基礎経験の特殊なる構造に応じてイデオロギーのうち経済学に特に優越なる位置が与えられる。経済学はイデオロギーの構成において基礎層を成す。そこからして現代の全世界観たる唯物史観における唯物論と経済主義とのイデオロギーの範囲内における統一の傾向は出て来るのである。
* 文化の諸領域相互の連関の問題は、近世哲学の歴史において、すでにカントによって意識されていた。我々は彼の第三批判書のうちにこの問題への指示を見出すことが出来る。それはその後の哲学においてカントの提出した方向にしたがっていわゆる「理性の体系」の問題として現われ、フィヒテを初めとしてかくのごとき体系を理性そのものの根拠から先験的に演繹するという放胆な、天才的なる種々の企てがなされた。ヘーゲルはこのような先験的演繹に歴史的発展を結びつけた。ヘーゲル哲学の意図を一層実証的な、一層分析的な仕方で解決しようとしたのがドイツ歴史学派であったのである。それ故に文化形態の相互の連関の研究はこの学派の人々の最も好んだ題目のひとつとなっている。現代の哲学においてディルタイはこの問題についても歴史学派の仕事を哲学的に反省し、そしてヘーゲル主義に再び近づいているといわれることが出来る(Dilthey, Das Wesen der Philosophie, 参照)。** 存在のモデルの意味その他については拙著『唯物史観と現代の意識』参照。 かくて現代哲学の課題は現代におけるイデオロギーの構造の特殊性によって規定されて成立する。すなわち哲学は今や経済学を中心とする社会科学一般と特に密接な連関に立つことを要求されている。このことは現代の基礎経験そのものの構造によってまさにそうなのであって、現実的であろうとする限り哲学はそれを回避することを許されない。かくのごとく哲学が種々なるイデオロギーのうち特に科学、しかも特に社会科学と結びつかねばならぬという主張は、或る人々のするようにいわゆる「科学主義」の名をもって非難さるべきではなく、かえって現実の歴史的特殊性によって理由づけられているのである*。このことは我々に先立って、もとより我々とは異なった根拠からではあるが、すでにディルタイによって十分に自覚されていた。ディルタイの哲学的労作の中心は歴史的社会的諸科学の基礎づけにある。この仕事に対して彼は彼の素質や天分によって規定されているばかりでなく、また実に彼の学問的活動の歴史的地位によって必然的にされている、と彼は考えた。彼によれば、個々の文化現象は相互に歴史的に規定された一定の連関に立っており、哲学の任務はこの連関によって必然的に規定されて存在する。この根本思想に基づいてディルタイはいう、「我々の課題は我々にとって明瞭に予示されている、カントの批判的な道を辿って、人間精神の一の経験科学を他の諸領域の研究者たちとの協同において基礎づけることがそれである。」すなわち彼はカントが自然科学に対してなしたと同じ仕事を精神科学に対して試みるのであって、彼はこの課題がドイツにおける一七七〇年から一八〇〇年に至る詩的および哲学的運動、レッシングからシュライエルマッハーおよびヘーゲルまでの発展、近くは歴史学派の活動によって彼に課せられていると信じた。さらに彼はいう、「現実に対する飽くことなき熱望は現代の学問の強大なる魂である。」そして彼はこの熱望が哲学にとってはただそれが特殊科学と結合することによってのみ満足させられ得ると考える。我々もまた歴史的社会的科学の批判をもって現代哲学の優越なる課題であるとする。我々もまた或る意味では哲学の精神が実証的な経験科学のうちに内在していると思う。その一般的な根拠については冒頭に話された。そして我々の仕事がいかにディルタイのそれと異ならねばならぬかということは、社会科学におけるマルクスよりレーニンまでの発展、世界における無産者階級解放運動の進展の事実がすでに明らかにこれを物語るであろう。ディルタイの尊敬すべき著作『精神科学概論』は一八八三年に世に出たにかかわらず、ヘーゲル主義者たる彼はマルクス主義についてはなんら顧慮しなかったのであった。
* 現今わが国に行なわれるプロレタリア芸術論があまりに科学的なという理由によってしばしば非難されるにかかわらず、かくあることの必然性と真理性とはここに述べられたのと同じ理由から否むことが出来ぬ。問題は他のところにある。