一
言葉は魔術的なはたらきをする。或る人々にとっては、唯物論の名は、すでに最初から何かいかがわしいもの、汚らわしいものを暗示する。彼らはその名を聞くとき、肩をゆすぶり、十字を切って去り、それを真面目に相手にすることをさえ、何か為すまじき卑しきことであると考える。それにもかかわらず自己の唯物論として憚るところなく主張するマルクス主義は、もはや誰も見逃すことの出来ぬ現実の勢力である。一般に現実を回避することによって思想の高貴さを示そうとする者は、ただ単に然か自己を粧うのみであり、かえってたまたま彼の思索の怯懦と怠慢とを暴露するにほかならない。かつて哲学はフランス革命に対する感激によって著しい進展を遂げたように、今はまたそれは何らかの仕方でマルクス主義と交わることによって、恐らく現在の無生産的なる状態を脱し得るであろう。マルクス主義はそれ自身多岐多様なる意味において語られる唯物論の長い歴史の列に属している。人々はこれに特に近代的唯物論の名を負わせている。このとき冠せられた近代的とは正確には何をいうのであるか。マルクス主義はそのいかなる構成の故に、そもそも唯物論として自己を規定するのであろうか。
この問を正しく捉えようとする者は、唯物論の名とともに不幸にも最もしばしば連想されているところの、一は理論的見解に関する、他は実践的態度に関する、唯物論のかの二つの形態を遠くに追い退けておかねばならない。マルクス主義は第一に生理学的唯物論ではない。それは意識の現象が脳髄の物質的構造そのものから導き出され、もしくは思想が、あたかも尿が腎臓から排泄されるように、人間の脳髄から分泌されるというがごときことを説くものではない。かくのごとき唯物論は、それをマルクスが形而上学的と銘打って排斥した当のものである。ところでまたマルクス主義は第二に倫理学的唯物論でもない。それは人間の一切の行為を物質的欲望の満足と個人的幸福の追求とに従属せしめようという主張ではないのである。マルクスはこのような快楽主義的、功利主義的思想に対して手酷しい攻撃を加えており、それについてはつねに侮蔑と憎悪とをもって語っている。
十八世紀風の、粗雑なる、粗野なる唯物論が退けられた後に、我々はまずいかにして、マルクス主義的唯物論のために、現実の地盤を獲得すべきであろうか。我々はすでに、唯物史観の構造を規定する人間学が、プロレタリア的基礎経験の上に立っていることを論述した。したがって近代的唯物論がまた実に近代的無産者的基礎経験のうちにその理論の具体的なる根源を有するということを明白ならしめることが、我々の現在の課題でなければならぬであろう。私はこの課せられた問題を十分に解決し得ることを期待する。
私の意味する基礎経験とは現実の存在の構造の全体である。現実の存在はつねに歴史的必然的に限定された一定の構造的連関において組織されている。存在の組織――アリストテレスのいうτξι――は、最も原始的には、それらの全体を構成する契機であるところの、人間の存在と自然の存在との動的双関的統一のうちに横たわっている。それが現実性においてある限り、人間は自然における存在すなわち生であり、そして自然はこの生に関係して限定されてゆく存在である。基礎経験が我々にとって構造づけられたまたは組織づけられた存在、したがってまさに現実の存在そのものを意味する以上、人々はこの概念によって、何者かの意識もしくは体験が直接に表現されていると考えてはならない。私が無産者的基礎経験というとき、私は特に無産者の体験する、あるいは無産者のみの体験し得る意識をいっているのではない。かえって私はそれによって特殊なる構造ある現実の存在そのものを指しているのである。ひとは基礎経験の名においてなによりも存在的なるものを理解すべきであって、決して意識的なるもの、したがってまた観念的なるものを理解すべきではないのである。むしろ私は意識的なるもの、観念的なるものが一定の構造と組織とを有する――それ故にこそまさに存在は運動し、発展することが出来る、――存在の運動と発展の過程において初めて、現実的になるということを主張したいと思う。基礎経験の「基礎」とは、このものが種々なる意識形態の根柢となって、それを規定することを表わすのである。現実の存在そのものを特に「経験」と称するのは、さきにも記したごとく、存在をそれ自体において完了したものと見なすところの、したがってそれを特に運動において把握することなく、かえって静的なるものに固定する傾向を含むところの、素朴実在論から我々を出来る限り截然と区別するためである。かくして基礎経験とは、相互に自己の存在性を規定しつつ発展する諸契機を有する、動的なる、全体的なる存在にほかならない。しかるに存在を組織づけ、構造づけるものは、根本的には人間の存在の交渉の仕方である。この交渉の仕方そのものは歴史的社会的に限定されているのであって、「無産者的」とはこのような交渉の仕方のいわばひとつの歴史的類型であり、またそれによって規定された現実的存在そのものの歴史的なる性格である。それ故に我々はそれを恐らく正当に存在の歴史的範疇のひとつに算え得るであろう。
さて無産者的基礎経験の構造を根源的に規定するものは労働である。無産者は感性的実践として特性づけられる交渉の仕方をもって存在と交渉する。このとき、彼らがそれをもって、またそれとともに働くところの物は、もし労働ということがその本質を維持すべきであるならば、彼らの心の映像というごとき観念的なるものであることが出来ない。実践はそれの存在においてそれの対象が実践する者とは異なる他の独立なる存在であることを本質的に必然的に要求する。そうであるから、最も徹底した観念論者であったフィヒテにあってさえ、自我は自己の「実践的なる」本質を発揮するために、自己の克服すべき「抵抗」として、自我ならぬものを要請し、かくして必然的に非我を定立するに到る、と考えられた。むしろフィヒテは自我の実践的なる根本規定から感覚、したがって感性的なる世界を演繹した。人間が実践的に交渉する限り、彼のはたらきかける存在がそれの存在において空無なる影であることは不可能である。もとよりフィヒテにおいては、実践はどこまでも叡智的活動であったから、自我がみずからの抵抗として定立する非我もなおかつ観念的なる性格を失うことがない、と彼は思惟することが出来たのであった。これに反して、我々にとって実践は、労働として、それ自身人間的感性的活動であるが故に、かくのごとき交渉の仕方においてその存在性を顕わにする存在は、最後まで独立なる、感性的にして物質的なる存在のほかに何物でもあり得ない。労働はあらゆる観念論を不可能にする。フォイエルバッハはいう、「観念論の根本欠陥はまさに、それが世界の客観性または主観性に関する、実在性または非実在性に関する問題を、単に理論的な立場から提出し、そして解決するところにある。けれど実際には世界は、それが意志の、存在に対する、また所有に対する意志の客体であるの故をもってのみ、もともとはじめて、悟性の客体なのである*。」心の外に世界が実在するか否か、そしてこの世界が感性的物質的であるか否か、の思弁的なる問題は、労働において存在と交渉する者にとっては、問題となることさえ出来ぬ、ひとつの原始的なる事実において解決されてある事柄である。
* Feuerbach, Ueber Spiritualismus und Materialismus, besonders in Beziehung auf die Willensfreiheit, , 216. ところで労働において自然と構造的連関に立つ者として人間はまた彼自身感性的存在でなければならぬ。彼は彼の物質的な力をもって絶えず自然にはたらきかけ、かく交渉することにおいて直接に彼は自己の存在を感性的として把握する。すなわち労働は自然を感性として、そして人間をまたかかるものとして構造づける。この場合ひとは感性を抽象的に理解してはならない。それは感覚そのものもしくは純粋感覚というがごときものを意味するのでない。かえって感性とは存在の「存在の仕方」の概念である。それは魂または意識そのものの作用をいうのではなく、むしろこの現実的なる人間の「存在」――「私は魂ではなく、かえって人間である」、とプルタークの失われた書の断片の中ですでにひとりのギリシアの哲学者がいっている、――がその存在の現実性において存在するひとつの特殊なる仕方を示すのである。人間は言うまでもなく精神物理的統一体である。この存在を感性的として規定するとき、それは感覚主義的観念論の立場を採るものではもとよりないが、しかしながらまたそれは精神から絶対に分離された物質を説く機械的唯物論の立場に与するものでも断じてない。「真理は唯物論でも観念論でもなく、生理学でも心理学でもない。真理はただアントロポロギー(人間学)である*」、とフォイエルバッハはいっている。彼は抽象的な観念論や唯物論に反対して、具体的なる、人間学的なる立場を支持する。単に霊魂が考えたり、感じたりするのでないと同じく、また単に脳髄が考えたり、感じたりするのでない。意識とはかえって全体的な人間的存在の具体的なる存在の仕方にほかならない。マルクスが「意識(das Bewusstsein)とは意識された存在(das bewusste Sein)以外の何物でも決してあり得ない」、といったのはこの意味に解されねばならぬであろう。総じて精神と物質とを絶対的に対立せしめ、その一つを排してその他を樹てる思想は、いずれも抽象的思惟の産物に過ぎぬ。そこでまたフォイエルバッハは記している、「人間を身体と精神に、感性的本質と非感性的本質とに分離することは、ただひとつの理論的なる分離である。実践において、生において、我々はこの分離を否定する**。」実践において生きるマルキシストは観念論者であり得ないとともに、抽象的な意味における唯物論の把持者であることも出来ないであろう。かくて唯物論と観念論の問題は、物質から意識を「導き出し」、もしくは思惟から存在を「演繹する」というがごとき、それ自身すでに形而上学的なる見地から放たれて、他の地盤に移されねばならぬ。マルクス主義はいかにして、具体性を失うことなしにしかも唯物論であり得るであろうか。答えはすでに与えられている。存在は人間がそれと交渉する仕方に応じてその存在性を規定するのであるが、人間はまたかくのごとく交渉する仕方に即して直接に自己の本質を把握する。それ故に労働すなわち感性的物質的なる実践において存在と交渉するところの者は、自己の存在の存在性あるいは存在の仕方を感性的物質的として理解せずにはいられないであろう。マルクス主義の唯物論にいう「物」とはかくして最初に人間の自己解釈の概念であり、我々の用語が許されるならば、一つの解釈学的概念であって、純粋なる物質そのものを意味すべきではないのである。労働こそ実に具体的なる唯物論を構成する根源である。
* Feuerbach, Wider den Dualismus von Leib und Seele etc., , 340.** Op. cit., , 345. 労働はその一層具体的なる規定において生産である。しかるに近代的なる生産はその様式において特に社会的である。マルクスは『経済学批判』の序説の首めにいっている、「社会において生産しつつある人々が――したがって人々の社会的に規定された生産が言うまでもなく出発点である。スミスやリカアドがそれをもって始めるところの、個々の孤立的な猟夫や漁夫は、十八世紀の想像力なき空想に属する。」我々の研究は現実には存在せぬ一個の抽象体であるロビンソンをもって始むべきでなく、社会において生産しつつある人間を出発点とすべきである。人間は彼ら相互に一定の関係に入り込むことなくしては生産し得ない。彼らは彼らの活動を相互に交換してのみ生産する。社会的である限り、私はいつまでも単に私としてとどまることが出来ない。その活動において相互の間に作用し合う限り、我は汝となり、汝は我となる。私は私に対しては我であり、同時に他の人に対しては汝である。私は主観であるとともに客観である。それ故にフォイエルバッハの次の言葉は正しい、「現実的な我はただそれに汝が対立するところの我であり、そしてこの者自身は他の我に対しては汝であり、客観である。しかるに観念的な我にとっては、客観一般が存在しないように、いかなる汝もまた存在しない*。」我と汝との統一として人間の現実性は初めて成立する。人間はひとつの綜合的概念である。「私はただ主観―客観(Sabjekt-Objekt)としてあり、思惟し、否、感覚する**。」しかしながらこのとき、主客の綜合、もしくは統一(Einheit)というのは、両者の同一(Identitt)と直接には等しくないのである。ロマンティクのいわゆる同一哲学諸体系(Identittssysteme)は主観と客観との絶対的な同一性を主張した。これに反して、我々にとって我と汝、主観と客観はどこまでも互に相異なる他の存在である、――もしそうでないならば相互の間の実践的交渉は不可能であろう、――そしてあたかもその理由によって人間は、社会的存在として、主客の綜合である。私は、私の存在の現実性の最後にして最初の根拠から、本質的に私を私以外の他の存在に関係させる存在であり、この関係なくしてあり得ない。このようにしておのおのの人間の存在が主観・客観であり、そしてその意味において独立的であるならば、そこにはもはや、あらゆる客観を生産するものとしての、もしくは支持するものとして観念的な絶対自我、または純粋意識は、どこにも存在すべき余地を見出し得ないであろう。社会的生産はあらゆる種類の絶対的観念論を不可能にする。
* Feuerbach, Ueber Spiritualismus und Materialismus etc., , 214.** Ebd., 215.