Chapter 1 of 4

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加護

加護

宮本百合子

お幾の信仰は、何時頃から始まったものなのか、またその始まりにどんな動機を持っているのか、誰も知る者はなかった。ただそれと心附いた時には、もう十幾人という昔からの友達の中で、一人として彼女から、あらたかな天理王命(てんりおうのみこと)の加護に就て説き聞かされない者はないほどになっていた。

肥って、裕福で仕合わせなお幾は、友達仲間に、何か一寸した不幸でも起ったという噂を聞くと、先ず何事を置いても馳せつけて、その人達の心を慰めずには置かない。丸々と指のつけねにくぼみの入った両手を、盛り上った膝の左右に軽く支え、心持頭を左に傾けながら、

「フーム、フーム」

と心を入れて人の述懐を聞く彼女は、ほんとにどこから見ても気の良い親切な「おばさん」に見えた。種々な批評はしながらも、人々は彼女の正直な、快恬(かいてん)な気分に引立てられる。ただその後で必ず附きものになっている天理教の講釈と、信仰の勧めだけには、彼女が熱心であればあるほど、会うほどの者が悩まされずにはいなかったのである。

処女時代を、相当に高い教育で鍛えられて来た友達は、皆、半ばの揶揄(やゆ)と好奇心とに動かされながら、柄にもない信心に没頭し始めたお幾の行動を注目していた。そして、何かの折に彼女を中心として、例の信仰談に花が咲くと、いつとなく揃ってしめし合わせでもしたように熱烈なお幾の雄弁を、すらりすらりと除けながら、最後にはきっと、

「けれどもねお幾さん。私共には到底そんな信心深い心は持てないのですよ、そんなに有難い神様なら、あなた何故お恵さんを真先に信仰させてお上げにならないの?」

という一句で、止(とどめ)を刺すのが常であった。この一句さえ出れば、どんなに気負っていたお幾も気の毒なほど俄に悄然として、

「ほんとにねえ……」

と云ったまま、もう決して二度とその鋭鋒を現さない。そのこつを、皆はすっかり飲み込んでいたのである。然し誰一人、何故それほどお幾がそれを云われさえすると落胆するのか、理由は知らなかった。恵子とは子供の時分から中年になった今日まで一言「お仲よし」と云いさえすれば、あああの方達のことかと解るほど有名な仲よしで通って来た。そのお幾が、皆を辟易させるほどの真剣さを以ても、なお、第一の理解者であるべきお恵さんを説服し得ないということは、二人の性格を知り抜いている者には、一層不思議なことなのであった。

お稚児に結って、小学校に通っていた頃から、お恵さんは痩ぎすな、淋しい静かな子であった。けれどもお幾の方はまるでそれとは反対で、何時でも自分の仲よしを、或る程度まで思いのままに操縦する活気を持って生れていた。いいにも悪いにも、自分を立てて来られたのが、このこと許りは思うように行かないので勝気なお幾はきっと残念なのだろうと、傍の者は思っていたのである。

お幾にしても、そういう気分がないことはなかった。生れた時から不幸を背負わされて出て来たようなお恵さんを、彼女が物質的にも精神的にも補助して来た友情は、決して並大抵のものではない。それと同時に、自分の深い友情に対して、長い時が経ると共に湧いて来た一種の矜持ともいうべきものが、皆の言葉で何となく権威を失うような心持もされるのである。然し、「お恵さんを云々」という一句で彼女がそれほど悄然とする理由は、決してこれ許りではなかった。それに就ては、さすがのお幾も冷汗を掻かずにはいられないような思い出が、誰にも語られずに、でっぷり重そうな胸の中に蔵されていたのである。

もうそれは足掛三年ほど前のことである。

八月も末近い或る夕、蚊遣を燃(た)きながら、竹縁で風を入れていたお幾は、思い掛けず、お恵さんの良人が死去したという報知に驚かされた。

広田さんの病気は、昨日今日に始まったことではなかった。もう半年ほども腎臓が悪く、近頃は暑気でめっきり弱ったことは、知り抜いていたのである。がげんにその前の日見舞に行った時に、衰えてこそおれそんな急なことはありそうにもなく美味そうに梨の汁などを啜っているのを見て来た彼女は、それを聞くと一緒に、

「死んだ? 広田さんが? お前何か聞き間違ったのじゃあないかい」

と念を押したほど、仰天した。勿論一刻も猶予してはいられない。あわてる女中を急き立てて喪服に更えるとお幾は、帯留を啣(くわ)えたまま、俥に乗った。折悪しく近所の工場の退け時で、K町の狭い通りは浅葱色の職工服や空の荷車で夕闇も溢れるほどの混雑をしている。

その間をようように抜けて質素なお恵さんの家の小門の前に梶棒がおりると、彼女は、もう堪らなさそうな泣顔になりながら、取次の女中を突のけて奥の間へ馳け込んだ。

ことがあまり突然だったためか、家中は、気味の悪いほどしんとしている。その寂寞の中で自分の気勢(けはい)に我ながらハッとしたお幾は、袂で啜泣を押えながら、廊下を抜けて勝手知った主人の居間へ行った。そこには、平常よりなお小さく、なお瘠せて見えるお恵さんが、ぽつねんと幼い二人の子供達に守られて、とりまわした逆屏風の此方に坐っている。――

「まあ、お恵さん……」

彼女は、いじらしい友達の様子を見ると、声を立てて泣き咽(むせ)びながら、べったりとそこに坐ってお辞儀をした。

「いったいまあ、何ていうこってしょう!」

肥った丸い顔中を、涙でぐっしょり濡して、にじり寄ったお幾の顔を見て、今まで泣こうにも泣けなかったお恵さんは始めて涙の解け口を見出した。

左右に怯えたような子供達の肩を抱き擁えながら、

「おいそがしいのに早速来て下すって……」

と、云いながら頭を垂れ、膝の上にポタリポタリと涙を落すお恵さんの様子は、どんなに強くお幾の胸を打っただろう。

灯もつけない薄闇の中に、微かな鳴声を立てて寄って来る蚊を追いながら、彼女は痛々しげにこの不仕合わせな友を眺めた。

「本当に不幸な方……」

彼女が知ってから、ただの一度でもお恵さんが晴々と高笑いしたのを見たことはなかった。家柄はよくても、失敗続きで不自由勝ちな両親の手許から離れたかと思えば良人は、生れつきの病身であった。その日の暮しにこそ困らなくても、片時も心の安まる暇のないうちに、こうやって突然子供を抱えて、後に遺されるような目に会わなければならない。――

今だに両親さえ健全で、普通世間で幸福と呼ばれるあらゆる幸福を一身に集めているお幾には、これ等の苦痛は、想像以上の苛責とほか思われなかった。彼女には考えても見られない。その恐ろしい苦しみを後から後からと、よく、どこまでも背負って行くと思って見ると、慎ましい小柄なお恵さんの姿は、さながら悲運の使者のようにさえ見える。ほんとに若しこのまま続いたら、仕舞にはどんなことになるだろう。

お幾の頭には、ふとしたことからつい半年ほど信仰し始めた、天理教の教が何時となく浮み上っていた。あの教では、人が思いがけない不幸や災害に遭うのはきっとその人が、何時か神の御心に添わないことをしているからなのだというのを、種々様々な実例を引いて話されその言葉を信じている彼女は、やはりこの場合にも同様の理論を当箝(あては)めて考えて見ずにはいられなかった。つまり、お恵さんの身に現れて降懸って来たこの度の不幸は、どこかに神の御旨を奉じなかったという因が在って起った果ではあるまいかということになるのである。

そう思って見ると、お幾には総てのことが明瞭になるような心持がした。

お恵さんの不仕合わせが神のお怒りの結果だとすれば、彼女は神様に懺悔してお詫をしさえすればよいのだ。そうすれば神は許してこの先の不幸は取除いて下さるに違いない。そう心附くと、お幾はもう黙って次に来る不幸まで負わせてはいられない心持がして来た。自分でなくて誰が、そんな先々のことまで案じてあげる者があるだろう。

今ここで天理王命のお慈悲にさえ縋れば将来総てはよくなるのだ。

お幾は、やがて涙に湿った手巾を膝の上で石畳に畳みながら、

「お恵さん、誠にこの度は飛んだことで何とも申しようがございません。けれどもね、今もこうやってつくづく考えて見ると、これはどうしても只事ではないという心持がして、仕様がないのですよ」

と、改まって口を切った。

「ほんとにあまり急でしてねえ……只事ではないとおっしゃると?」

お恵さんは一夜でめっきりやつれた顔を物懶(ものう)げにまげて、お幾を見た。

「あのねお恵さん私――フト今頭に浮んだことなのですがね、あなたが若しやひょっとして、神様のお怒りにでも触れるようなことをなさった覚はありゃあしまいかと思ってね。神様というものはもともと……」お幾はチラリと相手を偸見(ぬすみみ)た。

「決して罪のない者に飛んだ不仕合なんかはお授けにならないものなのですものね、だから、若しあるなら早く――」

「神様のお怒りに触れる――何をおっしゃるんでしょう! お幾さん」

お恵さんはぼんやりと自分に凭(もた)れていた二人の子を突除けるようにしていずまいを正した。急な緊張に驚いて、我知らず面をあげたお幾は、思わず身が縮むような何物かを、お恵さんの瞳の裡に読み取った。

お恵さんは感違いをしたのだ、ひどいこと! いやな、いやなこと! 本能的にお恵さんが思ったことを直覚するとお幾は、サッと顔の色を変えながら、あわててお恵さんの膝に手をかけた。

「まあお恵さん、どうぞ! 私決してそんな積りで云ったのじゃあないのですよ、ただ、ね、お恵さん、私信心しているものだから……」

救いを求めるような手を、お恵さんは静かに自分の膝から払いのけた。

「お幾さん、私はこれでも及ばずながら人の妻としてすべきことだけは尽した積りでございます。たといあなたが、どんな積りでおっしゃっても、私は決して神の怒りに触れるようなことをした覚えは夢にもございません、爪の垢ほどもございません」

強て落付きを保とうとするお恵さんの声は、自ずとこみ上げて来る歔欷(すすりなき)に怪しく掻き乱された。

「あなたに――あなたまでがそんなことをおっしゃるかと思うと……」

肩を震わせて二つの袂の中に泣き崩れたお恵さんは、やがて頭を擡げると、良人の遺骸の枕許にぴったりと寄添って、切れそうに唇を噛みしめながら、静かに新しい線香に火を移した。

「ほんとにまあ何ということを云ってのけたものだろう」

あの恥と憤りとに火のように燃えて自分を見た二の眼を思い出しただけで、お幾は今だに体の竦む思いがした。

たとい、云い廻しの不十分から起った誤解だとは云いながら、場合が場合だけに、お幾は自分をよしとする如何なる口実も見出せなかった。

馬鹿な自分、間抜けな自分、彼女は自分の手に喰いつきたいほど、その失言を悔い悩んだ。

若し自分がお恵さんだったらどうだったろう。きっと相手の顔をぴっしゃり打ちかねず怒ったに違いない。

それから後殆ど日参するようにして、ようよう心の解けた今は、もう一つの淋しい笑話となってはいても、何かの折にお恵さんの顔を見ると、そのことを思い出さずにはいられない。それを思い出すと、流石の彼女も再び神の怒と恩寵とを説くほど厚顔にはなれない。お恵さんが行違いを二人の間だけのこととして、誰にも洩さず、自分の不注意をかばっていてくれることは、お幾にとって、譬(たと)えるもののない恩恵であったのである。

こういういきさつを経て、二人の友情はまた元通り濃(こまや)かなものになった。が一方お幾の信仰談は、傍から想像もつかない位しおらしい遠慮で憚られているうちに、お恵さんには更に第二の不幸が襲って来た。

せっかく十まで育て上げた唯一人の男の子が、急性肺炎でたった三日入院したばかりであえなく死んでしまったのである。

その時、お幾の尽した親切というものは、恐らく親身の姉もそれには及ぶまいと思われるほどのものであった。

実の兄はありながら、寡婦になったお恵さんを厄介者扱いにして、悲しみの最中に、一遍の形式的な悔みを述べに来たきり、後は振向こうともしない冷酷さに義憤を発したお幾は、泊りがけで気の毒なお恵さんの片腕になった。

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