二十五年間の文人の社会的地位の進歩
内田魯庵
二十五年という歳月は一世紀の四分の一である。決して短かいとは云われぬ。此の間に何十人何百人の事業家、致富家、名士、学者が起ったり仆れたりしたか解らぬ。二十五年前には大外交家小村侯爵はタシカ私立法律学校の貧乏講師であった。英雄広瀬中佐はまだ兵学校の寄宿生であった。 二十五年前には日清、日露の二大戦役が続いて二十年間に有ろうと想像したものは一人も無かった。戦争を
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内田魯庵
二十五年という歳月は一世紀の四分の一である。決して短かいとは云われぬ。此の間に何十人何百人の事業家、致富家、名士、学者が起ったり仆れたりしたか解らぬ。二十五年前には大外交家小村侯爵はタシカ私立法律学校の貧乏講師であった。英雄広瀬中佐はまだ兵学校の寄宿生であった。 二十五年前には日清、日露の二大戦役が続いて二十年間に有ろうと想像したものは一人も無かった。戦争を
宮沢賢治
* 旧暦の六月二十四日の晩でした。 北上川の水は黒の寒天よりももっとなめらかにすべり獅子鼻は微かな星のあかりの底にまっくろに突き出ていました。 獅子鼻の上の松林は、もちろんもちろん、まっ黒でしたがそれでも林の中に入って行きますと、その脚の長い松の木の高い梢が、一本一本空の天の川や、星座にすかし出されて見えていました。 松かさだか鳥だかわからない黒いものがたく
宮沢賢治
二十六夜 宮沢賢治 ※ 旧暦の六月二十四日の晩でした。 北上川の水は黒の寒天よりももっとなめらかにすべり獅子鼻は微かな星のあかりの底にまっくろに突き出てゐました。 獅子鼻の上の松林は、もちろんもちろん、まっ黒でしたがそれでも林の中に入って行きますと、その脚の長い松の木の高い梢が、一本一本空の天の川や、星座にすかし出されて見えてゐました。 松かさだか鳥だかわか
寺田寅彦
二十四年前 寺田寅彦 ちょうど今から二十四年前の夏休みに、ただ一度ケーベルさんに会って話をした記憶がある。ほんとうに夢のような記憶である。 それは私が大学の一年から二年に移るときの夏休みであった。その年の春から私は西片町に小さな家を借りてそこに自分の家庭というものを作った。それでいつもはきまって帰省する暑中休暇をその年はじめてどこへも行かずにずっと東京で暮ら
上村松園
雪 とうとう二十年来の肩の重荷をおろしましてほっといたしました。ふりかえってみますと、私が十五歳の折り、内国勧業博覧会に「四季美人図」を初めて出品いたしまして、一等褒状を受け、しかもそれが当時御来朝中であらせられた英国皇太子コンノート殿下の御買上げを得た時のことを思い合わせまして、今度皇太后陛下にお納め申し上げました三幅対「雪月花図」とは、今日までの私の長い
原口統三
ところが今日、僕はふと「寒い」と思ったのだ。 僕はきっと夢を見て来たのに違いない。 ―Etudes ― 一明君 「自己の思想を表現してみることは、所詮弁解にすぎない」 右の最後の反省と共に、僕はこの小さな三つのノートを、君の手に渡そうと思う。 長い間筆を捨てて来た僕が臨終の直前まで来て、まだ一度も試みたことのないこうした感想録を作らずにおれなかったのは、やは
坂口安吾
二合五勺に関する愛国的考察 坂口安吾 元和寛永のころというと、今から三百二三十年前のことだが、切支丹が迫害されておびたゞしい殉教者があったものだ。幕府の方針は切支丹を根絶しようというのだが、みんな殺そうというのではないので、転向すれば即座にかんべんしてくれるのだから、ひところの共産党の弾圧よりもらくだ。転向してもまだ何年か牢屋に入れておくということはやらぬ。
徳田秋声
空の青々と晴れた、或る水曜日、青木は山の手の支那料理採蘭亭で、或るダンサアと昼飯を食べる約束があつたので、時刻を計つてタキシイで出かけた。町は到る処野球試合の放送で賑はつてゐた。素から知らない顔でもなかつた採蘭亭のマダムを、或晩或ダンスホールでそこのダンサアに更めて紹介されてから、紹介したそのダンサア達と一緒にそこで会食したのは、最近のことであつた。採蘭亭は
国木田独歩
二少女 国木田独歩 上 夏の初、月色街に満つる夜の十時ごろ、カラコロと鼻緒のゆるそうな吾妻下駄の音高く、芝琴平社の後のお濠ばたを十八ばかりの少女、赤坂の方から物案じそうに首をうなだれて来る。 薄闇い狭いぬけろじの車止の横木を俛って、彼方へ出ると、琴平社の中門の通りである。道幅二間ばかりの寂しい町で、(産婆)と書いた軒燈が二階造の家の前に点ている計りで、暗夜な
小川未明
新しい道が、つくりかけられていました。おかをくずし、林をきりひらき、町の中を通って、その先は、はるかかなたの、すみわたる空の中へのびています。そこには、おおぜいの労働者が、はたらいていました。 トロッコが、ほそいレールの上を走りました。道ばたには、大きな土管がころがり、くだいた石や、小じゃりなどが、うずたかくつまれていました。 はたらくものの中には、年をとっ
小川未明
達ちゃんの組に、田舎から転校してきた、秀ちゃんという少年がありました。住んでいるお家も同じ方向だったので、よく二人は、いっしょに学校へいったり、帰ったりしたのであります。 ある日のこと、達ちゃんは、夕飯のときになにか思い出してくすくすと笑いました。 「なにか、おかしいことがあったの。」と、お姉さんがおっしゃいました。 「きょう、秀公といっしょに帰ったら、鳥屋
宮沢賢治
(二川こゝにて会したり) (いな、和賀の川水雪代ふ 夏油のそれの十なれば その川ここに入ると云へ) 藍と雪とのうすけぶり つらなる尾根のかなたより 夏油の川は巌截りて ましろき波をながしきぬ ●図書カード
中谷宇吉郎
この二つの序文は、私が前から心がけていた『雪華研究の記録』につけるために書いたものである。初め戦争中にこの本を出そうと思って書いた序文と、敗戦後に書いた序文とを、二つ並べてこの随筆集の中に入れた。 『雪華研究の記録』は、稿を起してから、既に四年半になるが、未だに出来上らない。敗戦前一年半の悪夢のような生活と、敗戦後三年間の自分の心の焦燥とを思い返してみると、
宮本百合子
あとがき(『二つの庭』) 宮本百合子 「伸子」の続篇をかきたい希望は、久しい間作者の心のうちにたくわえられていた。 一九三〇年の暮にモスクから帰って、三一年のはじめプロレタリア文学運動に参加した当時の作者の心理は、自分にとって古典である「伸子」を、過去の作品としてうしろへきつく蹴り去ることで、それを一つの跳躍台として、より急速な、うしろをふりかえることない前
佐藤春夫
愛国の精神に二つはない。しかしその現れは千差万別人さまざまである。たとへばその根も幹も一つでありながら各の枝にさく一つ一つの花がつくづくと見るとそれぞれ多少の相違があるやうなものであらう。 あまりに複雑な差別はさて置いて、およそ二つの型が見られよう。自国の長所と美点とを誇り喜び心酔してゐるとも見るべき、いはゞごく素朴にすなほな型の愛国者で在来の役人や軍人、教
平林初之輔
ごく最近に私は二つの文学論を読んだ。一つはドイツのマルクス主義者フランツ・メーリングの文学論を川口浩氏が編訳した「世界文学と無産階級」という書物で、いま一つは、イギリスでショーと並び称せられた特色ある批評家チェスタトンの「探偵小説擁護論」(『新青年』所載)である。 前者の巻頭の「芸術とプロレタリアート」という論文の一節に「現代芸術が非常に悲観的な特徴をもって
幸田露伴
二日物語 幸田露伴 此一日 其一 観見世間是滅法、欲求無尽涅槃処、怨親已作平等心、世間不行慾等事、随依山林及樹下、或復塚間露地居、捨於一切諸有為、諦観真如乞食活、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。実に往時はおろかなりけり。つく/″\静かに思惟すれば、我憲清と呼ばれし頃は、力を文武の道に労らし命を寵辱の岐に懸け、密かに自ら我をば負み、老病死苦の免さぬ身をもて貪瞋痴毒
牧野信一
八月×日 ――蜂雀の真実なる概念を単に言葉の絵具をもつて描かんと努むるも、それは恰も南アメリカの生ける日光を瓶詰となして、大西洋を越え、イギリスの空に輝く雨と降り灑がうとするが如き不可能事に他ならぬ――。 そんな章句を読みながら、いつかうとうと、眠ると、一羽の蜂雀が渺望たる海の上を飛んでゆく夢を見た。見渡すかぎり睦の影も見あたらず、船に乗つてゐる感もないのに
萩原朔太郎
× えこそ忘れめや そのくちづけのあとやさき 流るる水をせき止めし わかれの際の青き月の出 × 雨落し來らんとして 沖につばなの花咲き 海月は渚にきて青く光れり 砂丘に登りて遠きを望む いま我が身の上に 好しと思ふことのありけり ●図書カード
谷崎潤一郎
奈良の二月堂のお堂の下で、大勢の見物人が垣を作つて一人の婆さんの踊りを踊るのを眺めてゐる。婆さんは五十四五ぐらゐで、メリンス友禪の色のさめた長襦袢一つに、紺のコール天の足袋はだしになり、手には花やかな舞扇を持つて舞つてゐる。婆さんのうしろには、かう云ふ古い上方のお寺でなければ見られない、優雅な物さびた土塀がある。その塀の壁に阿彌陀樣だか如來樣だか、何か知れな
細井吉造
二つの松川 細井吉造 かわいい二本のレールは、乱雑に積み重ねられた伐材の中に消えていた。あわてて二、三尺の赤土をかき登ると、思いもかけなかった大道がかなりの急カーヴを描いて目の前にあった。大雨の跡をしのばせる水たまりが諸所に光って、湿った白砂の上には太いタイヤの跡が……。大平街道だ。道ばたの切石に腰をおろして、こうした山歩きの終わりにはだれもがするように悠々
寺田寅彦
九州の武雄温泉で迎えた明治三十年の正月と南欧のナポリで遭った明治四十三年の正月とこの二つの旅中の正月の記憶がどういう訳か私の頭の中で不思議な聯想の糸につながれて仕舞い込まれている。一方を思い出すと必ず他方がくっついて一緒に出て来るのである。 熊本高等学校に入学した年の冬の休みに長崎から佐世保へかけての見学をした。熊本から百貫まで歩いて夜船で長崎へ渡りそこで島
原民喜
二つの死 原民喜 一 その頃私はその朽ちて墜ちさうな二階の窓から、向側に見える窓を眺めることがあつた。檜葉垣を隔てて、向に見える二階建洋館のアパートでは、私が見おろす窓のところに、白い顔をした男が鏡にむかつてネクタイを結んでゐる。そのありふれた映画のなかの一情景か何かのやうな姿が、とにかく、あそこには、あのやうな生活があるのだなといふことが分るのだつた。とこ
坂口安吾
天正十八年、真夏のひざかりであつた。小田原は北条征伐の最中で、秀吉二十六万の大軍が箱根足柄の山、相模の平野、海上一面に包囲陣をしいてゐる。その徳川陣屋で、家康と黒田如水が会談した。この二人が顔を合せたのはこの日が始まり。いはゞ豊臣家滅亡の楔が一本打たれたのだが、石垣山で淀君と遊んでゐた秀吉はそんなことゝは知らなかつた。 秀吉が最も怖れた人物は言ふまでもなく家