Vol. 2May 2026

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幕末維新懐古談 02 私の子供の時のはなし

高村光雲

これから私のことになる―― 私は、現今の下谷の北清島町に生まれました。嘉永五年二月十八日が誕生日です。 その頃は、随分辺鄙なむさくるしい土地であった。江戸下谷源空寺門前といった所で、大黒屋繁蔵というのが大屋さんであった。それで長屋建てで、俗にいう九尺二間、店賃が、よく覚えてはいないが、五百か六百……(九十六文が百、文久銭一つが四文、四文が二十四で九十六文、こ

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幕末維新懐古談 03 安床の「安さん」の事

高村光雲

町内に安床という床屋がありました。 それが私どもの行きつけの家であるから、私はお湯に這入って髪を結ってもらおうと、其所へ行った。 「おう、光坊か、お前、つい、この間頭を結ったんじゃないか。浅草の観音様へでも行くのか」 主人の安さんがいいますので、 「イエ、明日、私は奉公に行くんです」 と答えますと、 「そうかい。奉公に行くのかい。お前は幾齢になった」 などと

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幕末維新懐古談 04 私の父の訓誡

高村光雲

さて、いよいよ話が決まりましたその夜、父は私に向い、今日までは親の側にいて我儘は出来ても、明日からは他人の中に出ては、そんな事は出来ぬ。それから、お師匠様初め目上の人に対し、少しでも無礼のないよう心掛け、何事があっても皆自分が悪いと思え、申し訳や口返しをしてはならぬ。一度師の許へ行ったら、二度と帰ることは出来ぬ。もし帰れば足の骨をぶち折るからそう思うておれ。

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幕末維新懐古談 05 その頃の床屋と湯屋のはなし

高村光雲

床屋の話が出たついで故、ちょっと話しましょう。当時の髪結床は、今のように小ざっぱりしたものではなく、特にこういう源空寺門前といったような場末では、そりゃ、じじむさいものでした。 源空寺門前という一町内には、床屋が一軒、湯屋が一軒、そば屋が一軒というようにチャンと数が制限され、その町内の人がそのお華客で、何もかも一町内で事が運んだようなものであります。で、次の

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幕末維新懐古談 06 高村東雲の生い立ち

高村光雲

そこで、これから師東雲先生の生い立ちを話します。 東雲師は元奥村藤次郎といった人で、前述の通り下谷北清島長(源空寺門前)の生まれである。その師匠が当時江戸で一、二を争うところの仏師高橋法眼鳳雲という有名な人でありますが、この人のことは別に改めて話すことにする。 東雲師の姓の奥村氏が後に至って高村となり、藤次郎が東雲と号したことについては所以のあることで、この

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幕末維新懐古談 07 彫刻修業のはなし

高村光雲

早速彫らされることになる―― この話はしにくい。が、まず大体を話すとすると、最初は「割り物」というものを稽古する。これはいろいろの紋様を平面の板に彫るので工字紋、麻の葉、七宝、雷紋のような模様を割り出して彫って行く。これは道具を切らすまでの手続き。それが満足に出来るようになると、今度は大黒の顔です。これがなかなか難儀であって、木の先へ大黒天の顔を彫って行くの

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幕末維新懐古談 08「木寄せ」その他のはなし

高村光雲

木寄せのことを、ざっと話して置きましょう。 仏師に附属した種々の職業が分業的になってある中に、木寄師もその一つであります。これは材料を彫刻家へ渡す前に、その寸法を彫刻家の注文通り断ち切る役なのです。 正式の寸法の割合として、たとえば坐像二尺の日蓮上人、一丈の仁王と木寄せをして仏師へ渡します。結局、仏師が彫るまでの献立をする役です。これは附属職業の中でも重要な

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幕末維新懐古談 09 甲子年の大黒のはなし

高村光雲

話が少し元へ返って、私の十二の時が文久三年、十三が確か元治元年の甲子年であった。この甲子年はめったには来ません。六十一年目に一度という……それでその時の甲子年には、大黒の信者はもとよりのこと、そうでないものでも、商売繁昌の神のこと故、尊信するもの甚だ多くして、大黒様をその年には沢山にこしらえました。 そして、その大黒さまを作る材であるが、それは、檜材である。

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幕末維新懐古談 10 仏師の店のはなし(職人気質)

高村光雲

師匠東雲師の家が諏訪町へ引っ越して、三、四年も経つ中に、珍しかった硝子戸のようなものも、一般ではないが流行って来る。師匠の家でもそれが出来たりしました。障子の時は障子へ「大仏師高村東雲」など書いてあったもの。 仕事は店でやったものです。店には兄弟子、弟弟子と幾人かの弟子がいますが、その人々はただ腕次第、勉強次第でコツコツとやっている。別に現今のよう、その製作

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幕末維新懐古談 11 大火以前の雷門附近

高村光雲

私の十四歳の暮、すなわち慶応元年丑年の十二月十四日の夜の四ツ時(午後十時)浅草三軒町から出火して浅草一円を烏有に帰してしまいました。浅草始まっての大火で雷門もこの時に焼けてしまったのです。此所で話が前置きをして置いた浅草大火の件となるのですが、その前になお少し火事以前の雷門を中心としたその周囲の町並み、あるいは古舗、またはその頃の名物といったようなものを概略

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幕末維新懐古談 12 名高かった店などの印象

高村光雲

雷門に接近した並木には、門に向って左側に「山屋」という有名な酒屋があった(麦酒、保命酒のような諸国の銘酒なども売っていた)。その隣りが遠山という薬種屋、その手前(南方へ)に二八そば(二八、十六文で普通のそば屋)ですが、名代の十一屋というのがある。それから駒形に接近した境界にこれも有名だった伊阪という金物屋がある(これは刃物が専門で、何時でも職人が多く買い物に

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幕末維新懐古談 13 浅草の大火のはなし

高村光雲

これから火事の話をします。 前に幾度かいった通り、慶応元年丑年十二月十四日の夜の四ツ時(私の十四の時)火事は浅草三軒町から出ました。 前述詳しく雷門を中心とした浅草一円の地理を話して置いたから大体見当は着くことではあるがこの三軒町は東本願寺寄りで、浅草の大通りからいえば、裏通りになっており、町並みは田原町、仲町、それから三軒町、……堀田原、森下となる。見当か

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幕末維新懐古談 14 猛火の中の私たち

高村光雲

私は十四の子供で、さして役には立たぬ。大人でもこの猛火の中では働きようもない。私の師匠の東雲と、兄弟子の政吉と、私の父の兼松(父は師匠の家と私とを心配して真先に手伝いに来ていました)、それに私と四人は駒形堂の方から追われて例の万年屋の前へ持ち出した荷物を卸し、此所で、どうなることかと胸を轟かしている。火勢はいやが上に募って広小路をも一舐めにせん有様であります

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幕末維新懐古談 15 焼け跡の身惨なはなし

高村光雲

帰ったのは九ツ過ぎ(十二時過ぎ)でした。さすがの火事もその頃は下火となって、やがて鎮火しました。 火事の危険であった話や、父に扶けられた話や、久方ぶり、母との対面や何やかやで、雑炊を食べなどしている中、夜は白々として来ました。 さて、翌朝になり、焼け跡はどうなったか。師匠の家の跡は……と父とともに心配をしながら行って見ると、師匠の家はない。焼け跡に、神田の塗

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幕末維新懐古談 16 その頃の消防夫のことなど

高村光雲

江戸のいわゆる、八百八街には、火消しが、いろは四十八組ありました。 浅草は場末なれど、彼の新門辰五郎の持ち場とて、十番のを組といえば名が売れていました。もっとも、辰五郎は四十八組の頭の内でも巾の利く方でした。 いうまでもなく、消防夫は鳶といって、梯子持ち、纏持ちなどなかなか威勢の好いものであるが、その頃は竜吐水という不完全な消火機をもって水を弾き出すのが関の

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幕末維新懐古談 17 猫と鼠のはなし

高村光雲

少し変った思い出ばなしをします。鼠の話を先にしましょう。 私が十五、六歳の時です。師匠の手元にいて、かれこれ二、三年も稽古をしたお蔭で、どうやら物の形が出来るようになって来ました。それで、そろそろ生意気になって、何か自分では一廉の彫刻師になったような気持で、師匠から当てがわれた仏様の方をやるのは無論であるが、それだけではたんのう出来ないような気持で、何か自分

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幕末維新懐古談 18 一度家に帰り父に誡められたはなし

高村光雲

今の猫と鼠の話のあった前後の頃おい(確か十五の年)は徳川氏の世の末で、時勢の変動激しく、何かと騒擾が引き続く。 それにつけて、四時の天候なども甚だ不順であって、凶作が続き、雨量多く、毎日、じめじめとイヤな日和ばかりで、米は一円に二斗八升(一銭に二合八勺)という高値となる。今までは円に四斗もあったものが、こう暴騰すれば世の中も騒がしくなるは当り前である。しかし

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幕末維新懐古談 19 上野戦争当時のことなど

高村光雲

慶応四年辰年の五月十五日――私の十七の時、上野の戦争がありました。 今日から考えて見ると、徳川様のあの大身代が揺ぎ出して、とうとう傾いてしまった時であった。その時、何もかも一緒にいろいろなことが湧いて来る。先ほど話した通り、四時の循環なども、ずっと変調で、天候も不順、米も不作、春早々より雨降り続き、三、四月頃もまるで梅雨の如く、びしょびしょと毎日の雨で、江戸

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幕末維新懐古談 20 遊芸には縁のなかったはなし

高村光雲

上野の戦争が終んで後私が十八、九のことであったか。徳川家に属した方の武家などは急に生活の道を失い、ちりぢりばらばらになって、いろいろな身惨な話などを聞きました。でも、町家の方はそうでもなく、やっぱり、夏が来れば店先へ椽台などを出し、涼みがてらにのんきな浮世話しなどしたもの……師匠は仕事の方はなかなかやかましかったが、気質は至って楽天的で、物に拘泥しない人であ

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幕末維新懐古談 21 年季あけ前後のはなし

高村光雲

さて、今日から考えて見ても、当時私の身に取って、いろいろな意味において幸福であったと思うことは、師匠東雲師が、まことに良い華客場を持っていられたということであります。 たとえば、この前お話したように、札差の中では、代地の十一屋、天王橋の和泉屋喜兵衛、伊勢屋四郎左衛門など、大商人では日本橋大伝馬町の勝田という荒物商(これは鼠の話の件で私が師匠の命で使いに参った

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幕末維新懐古談 22 徴兵適齢のはなし

高村光雲

とかくする中、ここに降って湧いたような事件が起りました。 明治六年に寅歳の男が徴兵に取られた。それはそれ切りのことと思って念頭にもなかった。その当時の社会一般に人民が政治ということに意を留めなかった証拠で、こういう事柄に関する世の中のことは一向分らぬ。もっとも徴兵令はその以前に発布されて新しい規則が布かれていたのであろうが、新聞といっても『読売』が半紙位のも

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幕末維新懐古談 23 家内を貰った頃のはなし

高村光雲

私の年季が明けると同時に、師匠東雲師はまず私の配偶者のことについて心配をしておられました。もっとも年の明ける前から心掛けておったようです。これは親たちも感じていたことでありましょう。母もその頃は大分弱っておりましたので、相当なものがあれば、早く身を固める方がよいと思っておったことと思われます。 しかし、この方のことは私は至って暢気で、能く考えて見るほどの気も

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幕末維新懐古談 24 堀田原へ引っ越した頃のはなし

高村光雲

私は結婚後暫く親の家へ帰っていた。ちょうどそれを境にして彼の金谷おきせさんは穀屋の店を畳んで堀田原の家に世帯を引き取りました。 この家は私が戸主で、養母が住んでいるけれども、それはほんの名義だけのことであるから、万事は師匠の意見、またお悦さんおきせさんなど姉妹の都合の好いままに任せ、私は自分の家なる前回度々申した彼の源空寺門前の親たちの家にいることになりまし

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幕末維新懐古談 25 初めて博覧会の開かれた当時のことなど

高村光雲

堀田原から従前通り私は相更らず師匠の家へ通っている。すると、明治十年の四月に、我邦で初めての内国勧業博覧会が開催されることになるという。ところが、その博覧会というものが、まだ一般その頃の社会に何んのことかサッパリ様子が分らない。実にそれはおかしいほど分らんのである。今日ではまたおかしい位に知れ渡っているのであるが、当時はさらに何んのことか意味が分らん。それで

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