Vol. 2May 2026

Books

Public domain world knowledge library

Showing 7,272 of 14,981 titles

幕末維新懐古談 19 上野戦争当時のことなど

高村光雲

慶応四年辰年の五月十五日――私の十七の時、上野の戦争がありました。 今日から考えて見ると、徳川様のあの大身代が揺ぎ出して、とうとう傾いてしまった時であった。その時、何もかも一緒にいろいろなことが湧いて来る。先ほど話した通り、四時の循環なども、ずっと変調で、天候も不順、米も不作、春早々より雨降り続き、三、四月頃もまるで梅雨の如く、びしょびしょと毎日の雨で、江戸

JA
Original only

幕末維新懐古談 20 遊芸には縁のなかったはなし

高村光雲

上野の戦争が終んで後私が十八、九のことであったか。徳川家に属した方の武家などは急に生活の道を失い、ちりぢりばらばらになって、いろいろな身惨な話などを聞きました。でも、町家の方はそうでもなく、やっぱり、夏が来れば店先へ椽台などを出し、涼みがてらにのんきな浮世話しなどしたもの……師匠は仕事の方はなかなかやかましかったが、気質は至って楽天的で、物に拘泥しない人であ

JA
Original only

幕末維新懐古談 21 年季あけ前後のはなし

高村光雲

さて、今日から考えて見ても、当時私の身に取って、いろいろな意味において幸福であったと思うことは、師匠東雲師が、まことに良い華客場を持っていられたということであります。 たとえば、この前お話したように、札差の中では、代地の十一屋、天王橋の和泉屋喜兵衛、伊勢屋四郎左衛門など、大商人では日本橋大伝馬町の勝田という荒物商(これは鼠の話の件で私が師匠の命で使いに参った

JA
Original only

幕末維新懐古談 22 徴兵適齢のはなし

高村光雲

とかくする中、ここに降って湧いたような事件が起りました。 明治六年に寅歳の男が徴兵に取られた。それはそれ切りのことと思って念頭にもなかった。その当時の社会一般に人民が政治ということに意を留めなかった証拠で、こういう事柄に関する世の中のことは一向分らぬ。もっとも徴兵令はその以前に発布されて新しい規則が布かれていたのであろうが、新聞といっても『読売』が半紙位のも

JA
Original only

幕末維新懐古談 23 家内を貰った頃のはなし

高村光雲

私の年季が明けると同時に、師匠東雲師はまず私の配偶者のことについて心配をしておられました。もっとも年の明ける前から心掛けておったようです。これは親たちも感じていたことでありましょう。母もその頃は大分弱っておりましたので、相当なものがあれば、早く身を固める方がよいと思っておったことと思われます。 しかし、この方のことは私は至って暢気で、能く考えて見るほどの気も

JA
Original only

幕末維新懐古談 24 堀田原へ引っ越した頃のはなし

高村光雲

私は結婚後暫く親の家へ帰っていた。ちょうどそれを境にして彼の金谷おきせさんは穀屋の店を畳んで堀田原の家に世帯を引き取りました。 この家は私が戸主で、養母が住んでいるけれども、それはほんの名義だけのことであるから、万事は師匠の意見、またお悦さんおきせさんなど姉妹の都合の好いままに任せ、私は自分の家なる前回度々申した彼の源空寺門前の親たちの家にいることになりまし

JA
Original only

幕末維新懐古談 25 初めて博覧会の開かれた当時のことなど

高村光雲

堀田原から従前通り私は相更らず師匠の家へ通っている。すると、明治十年の四月に、我邦で初めての内国勧業博覧会が開催されることになるという。ところが、その博覧会というものが、まだ一般その頃の社会に何んのことかサッパリ様子が分らない。実にそれはおかしいほど分らんのである。今日ではまたおかしい位に知れ渡っているのであるが、当時はさらに何んのことか意味が分らん。それで

JA
Original only

幕末維新懐古談 26 店初まっての大作をしたはなし

高村光雲

かれこれしている中に私は病気になった。 医師に掛かると、傷寒の軽いのだということだったが、今日でいえば腸チブスであった。お医師は漢法で柳橋の古川という上手な人でした。前後二月半ほども床に就いていました。 病気が癒るとまた仕事に取り掛かる。師匠の家の仕事も、博覧会の影響なども多少あって、注文も絶えず後から後からとあるという風で、まず繁昌の方であった。私が専ら師

JA
Original only

幕末維新懐古談 27 引き続き作に苦心したこと

高村光雲

されば追っかけて、また一つ外国人からの注文がありました。 今度は、ドイツ公使館へ来た或る外国人からの注文で、同じく洋燈台であったが、趣は以前と違っておった。これは前述のアーレンス商会からの注文の製作をその人が見て注文することになったか、そこまではよく分りませんが、アーレンスとは何んの関係はないのであった。 注文の大体は、今度は純日本式の童男童女の並んで立って

JA
Original only

幕末維新懐古談 28 東雲師逝去のこと

高村光雲

それからまたこういう特別な注文のほかに、他の仕事もぽつぽつあります。それらを繰り返して仏の方をも相更らずやっている。明治十一年も終り、十二年となり、これといって取り立ててはなしもないが、絶えず勉強はしておりました。 すると、十二年の夏中から師匠は脚気に罹りました。さして大したことはないが、どうも捗々しくないので一同は心配をいたしました。余談にわたりますが、師

JA
Original only

幕末維新懐古談 29 東雲師没後の事など

高村光雲

さて、差し当っての責任として、私が主として師匠東雲師の葬送のことを取り計らわねばならぬ次第となったのであります。というのは、師匠の息子は、丑歳の時に出来た子供であって、それが当年十四、五になっているが、これはまだ当面に立つことは出来ぬ。政吉は一種の変人で、何か人と応対などすべきことでもあると、隠れていなくなるというような妙な気風の人。後に私の弟弟子が二人あっ

JA
Original only

幕末維新懐古談 30 身を引いた時のことなど

高村光雲

さて、これから後の始末をつける段となるのでありますが、急に師匠に逝かれては、どうして好いか方角も付きません。しかし相更らず仕事だけはやらねばならぬから、まずこの方のことを引き締めて掛かることにしました。 ここでちょっと思い出しましたが妙なお話がある。それは師匠が生前丹精して寛永通宝の中から、俗に「耳白」という文銭を選り出しては箱に入れて集めておられ、それが貯

JA
Original only

幕末維新懐古談 31 神仏混淆廃止改革されたはなし

高村光雲

明治八年は私が二十三で年季が明けて、その明年私の二十四の時、その頃神仏混淆であった従来からの習慣が区別されることになった。 これまではいわゆる両部混同で何の神社でも御神体は幣帛を前に、その後ろには必ず仏像を安置し、天照皇大神は本地大日如来、八幡大明神は本地阿弥陀如来、春日明神は本地釈迦如来というようになっており、いわゆる神仏混淆が行われていたのである。 この

JA
Original only

幕末維新懐古談 32 本所五ツ目の羅漢寺のこと

高村光雲

この時代のことで、おもしろい話がある。これは神仏混淆の例証ではありませんが、やはり神仏区別のお布令からして仏様側が手酷しくやられた余波から起った事柄であります。 本所の五ツ目に天恩山羅漢寺というお寺がありました。その地内に蠑螺堂という有名な御堂がありました。形は細く高い堂で、ちょうど蠑螺の穀のようにぐるぐると廻って昇り降りが出来るような仕掛けに出来ており、三

JA
Original only

幕末維新懐古談 33 蠑螺堂百観音の成り行き

高村光雲

蠑螺堂は壊し屋が買いましたが、百観音は下金屋が買いました。下金屋というのは道具屋ではない。古金買いです。古金買いの中でも、鍋、釜、薬缶などの古金を買うものと、金銀、地金を買うものとある。後の方のがいわば高等下金屋である。これに百観音は買われました。……というのは、観音の彫刻にはいずれも精巧な塗り彩色がしてありますので、その金箔を見込んで買ったのである。単に箔

JA
Original only

幕末維新懐古談 34 私の守り本尊のはなし

高村光雲

さて、五体の観音は師匠の所有に帰し「まあ、よかった」と師匠とともに私は一安心しました。しかし、私にはここで一つの希望が起りました。私は、数日の後、師匠に向い、その望みを申し出でました。 「師匠、あの観音五体の中で一体を私にお譲り下さいませんか。私はそれを自分の守り本尊として終生祭りたいと思うのです。もっともお譲り下さるならば、師匠がお求めになった代を私はお払

JA
Original only

幕末維新懐古談 35 実物写生ということのはなし

高村光雲

明治八、九年頃は私も既に師匠の手を離れて仏師として一人前とはなっておりましたが、さて、一人前とは申しながら、まだ立派に世に立つに到ったとはいえない。師匠の家は出たけれども、自分の家から師匠の家に通って仕事をしておりました。 ところが、その時分は前に話した通り仏教破壊のあおりを食って仏に関係した職業は何事によらず散々な有様でありますから、したがって仏師の仕事も

JA
Original only

幕末維新懐古談 36 脂土や石膏に心を惹かれたはなし

高村光雲

ちょうど、その時分、虎の門際の辰ノ口に工部省で建てた工部学校というものが出来ました。噂に聞くと、此校では西洋人を教師に傭って、絵や彫刻を修業しているのだということ、絵は油絵であり、彫刻は西洋彫刻をやっているのだという評判……そういう話を聞くと、私はそれを見たくて仕方がないが、しかし見るわけにも行かぬ。生徒には藤田文三氏、長沼守敬氏、大熊氏廣氏などいう人たちが

JA
Original only

幕末維新懐古談 37 鋳物の仕事をしたはなし

高村光雲

とかくしている中、また一つ私の生活に変化が来ました。 それは牛込神楽坂の手前に軽子坂という坂があるが、その坂上に鋳物師で大島高次郎という人があって、明治十四年の博覧会に出品する作品に着手していた。 これは銀座の三成社(鋳物会社)が金主となって大島氏に依嘱したものであるが、その大島氏と息子に勝次郎(後に如雲と号す)という人があって、まだ二十歳前の青年であるけれ

JA
Original only

幕末維新懐古談 38 象牙彫り全盛時代のはなし

高村光雲

その時分の私の住居は、下谷西町三番地(旧立花家の屋敷跡の一部)にありました。大溝渠を前にした一室を仕事場にして、其所で二年ぶりに手入れをした道具を備え、いよいよ本職の木彫りをもって世に立つことにしたのであります。 私が、本当に他人の手から離れ、全くの独立で木彫りを家業として始めたのはこの時からであります。されば、自然と私の心も爽々しく、腕もまた、鳴るように思

JA
Original only

幕末維新懐古談 39 牙彫りを排し木彫りに固執したはなし

高村光雲

「いやしくも仏師たるものが、自作を持って道具屋の店に売りに行く位なら、焼き芋でも焼いていろ、団子でもこねていろ」 これは高橋鳳雲が時々私の師匠東雲にいって聞かせた言葉だそうであります。 私もまた、東雲師から、風雲はこういって我々を誡められた、といってその話を聞かされたものであります。それで、私の脳にも、この言葉が残っている。いい草は下品であっても志はまことに

JA
Original only

幕末維新懐古談 40 貿易品の型彫りをしたはなし

高村光雲

それから、また暫くの後、或る日私が仕事場で仕事をしていると、一人の百姓のような風体をした老人が格子戸を開けて訪ねて来ました。 その人は、チョン髷を結って、太い鼻緒の下駄を穿き、見るからに素樸な風体、変な人だと思っていると、 「一つ彫刻を頼みたい」という。 「木で彫る方の彫刻なら何んでも彫りましょう」 と答えると、 「それは結構、では今夜私の宅へ来て下さい。能

JA
Original only

幕末維新懐古談 41 蘆の葉のおもちゃのはなし

高村光雲

暫く話を途切らしたんで、少し調子がおかしい……何処まで話したっけ……さよう……この前の話の処でまず一段落附いたことになっていた。これからは、ずっと、私の仕事が社会的に働きかけて行こうという順序になるので、私の境遇――生活状態もしたがってまた実際的で複雑になって行くことになりますが、話の手順はかえって秩序よく進んで行くことと思う。 ところで、今日は暫くぶりであ

JA
Original only

幕末維新懐古談 42 熊手を拵えて売ったはなし

高村光雲

こういうことが続いていたが、或る年、大分大仕掛けに、父は熊手を拵え出しました。 鳥の市でなくてならないあの熊手は誰でも知っている通りのもの。真ん中に俵が三俵。千両函、大福帳、蕪、隠れ蓑、隠れ笠、おかめの面などの宝尽くしが張子紙で出来て、それをいろいろな絵具で塗り附ける。枝珊瑚などは紅の方でも際立ったもの、その配色の工合で生かして綺麗に景色の好いものとなる。こ

JA
Original only