Vol. 2May 2026

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幕末維新懐古談 53 葉茶屋の狆のはなし

高村光雲

さて、鏡縁御欄間の仕事が終りますと、今度は以前より、もっと大役を仰せ附かりました。 これは貴婦人の間の装飾となるのだそうで御座いますが、貴婦人の間のどういう所へ附いたものかその御場所は存じません。何んでも御階段を昇り切ったところに柱があってその装飾として四頭の狆を彫れという御命令であった。 これは東京彫工会へ御命令になったので、木彫りで出来るのではなく、鋳金

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幕末維新懐古談 54 好き狆のモデルを得たはなし

高村光雲

合田氏のはなしを聞けば、なるほど耳寄りな話である。 合田氏は、私の今使っているモデルの狆を口ではそれと悪くはいわないが、この狆よりも数等上手の狆がいることを話された。それはツイ先月の話のことだが、合田氏の知人に、徳川家の御側御用を勤められた戸川という方があって、その御隠居が可愛がった一匹の狆があった。それはなかなかの名狆であるのだが、戸川家も世が世で微禄され

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幕末維新懐古談 55 四頭の狆を製作したはなし

高村光雲

いよいよ狆の製作が出来ました。 先のと、それから「種」のモデルの方が三つです。一つは起って前肢を挙げている(これは葉茶屋の方のです)。一つは寝転んでいる。一つは駆けて来て鞠に戯れている。今一つは四肢で起っている所であった。この四つの製作はいずれも鋳物の原型になるのであるから、材料を特に木彫りとして勘考することもいらぬので、私は檜で彫ることにしました。いうまで

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幕末維新懐古談 56 鶏の製作を引き受けたはなし

高村光雲

狆の製作が終ってから暫くしてふと鶏を彫ることになりました。 その頃京橋南鍋町に若井兼三郎俗に近兼という道具商があった。この人は同業仲間でも好い顔で、高等品を取り扱い、道具商とはいいながら、一種の見識を備えた人であった。またその頃、築地に起立工商会社という美術貿易の商会があって、これは政府の補助を受けなかなか旺んにやっておった。社長は松尾儀助氏で、右の若井兼三

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幕末維新懐古談 57 矮鶏のモデルを探したはなし

高村光雲

以前狆のモデルで苦労した経験がありますから、今度はチャボのモデルは好い上にも好いのを選みたいというのが私の最初の考えであった。 しかし、矮鶏は狆と違ってその穿鑿も楽であろうと思った……とにかく、早速、狆のモデルの事で注意を与えてくれた彼の後藤貞行氏を訪ねて、今度の製作のことを話し、チャボの良いのがなかろうかと相談しました。 動物には何かと関係のある人だから、

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幕末維新懐古談 58 矮鶏の製作に取り掛かったこと

高村光雲

かれこれ批評を聞いたり、姿形を研究したりしている間に、一月余りも経ってしまいましたので、いよいよ取り掛かることにしました。 材は桜です。その時分はまだ桜の材で上等のものが沢山あったが現今では甚だ稀です。南部の方から出るのが良材であります。まず、雄鶏の方から初めました(木彫りの順序は鑿打ちで形を拵え、鑿と小刀で荒彫り、それから小作り、仕上げとなる)。無駄をして

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幕末維新懐古談 59 矮鶏の作が計らず展覧会に出品されたいきさつ

高村光雲

それから、三月一杯掛かって、四月早々仕上げを終る……その前後にまた一つお話しをして置くことが出て来る…… 美術協会の展覧会は、毎年四月に開かれることになっている。ちょうど私の製作を終ろうという間際にそれが打っ附かったのです。 協会の方では開会の準備のためにそれぞれ技術家たちへ出品の勧誘などをしていた時であった。 或る日、役員たちの集まった時に、幹部の方の一人

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幕末維新懐古談 60 聖上行幸当日のはなし

高村光雲

さて、当日になりました。 午前中に準備に取り掛かる。 濤川惣助氏の無線七宝の花瓶というのは、高サ二尺、胴の差し渡し一尺位で金属の肌の上に卵色の無線の七宝が施されたもので、形は壺形をしている。その鮮麗さは目も覚めるばかりです。 そうして、私の矮鶏はその右側に置かれました。 大きな硝子箱の中に古代裂の上に据えた七宝と、白絹の布片の上に置かれた鶏とはちょうど格好な

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幕末維新懐古談 61 叡覧後の矮鶏のはなし

高村光雲

さて、展覧会もやがて閉会に近づいた頃、旅先から若井兼三郎氏が帰って来た。 いうまでもなく矮鶏の一件のことは直ぐ同氏の耳に入った。早速、同氏は会場へやって来られた。私はどうも直ぐに若井氏に逢うのが気が引けますから、はずしていると、若井氏は松尾儀助氏に向って何か話していられる。無論、今度の一件であることは分る。そこで、どういう風に松尾儀助が若井氏をいいなだめたか

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幕末維新懐古談 62 佐竹の原繁昌のはなし

高村光雲

下谷西町で相変らずコツコツと自分の仕事を専念にやっている中に、妙なことで計らず少し突飛な思い附きで余計な仕事を遊び半分にしたことがあります。これも私の思い出の一つとして記憶にあること故、今日はその事を話しましょう。 その頃(明治十八年の頃)下谷に通称「佐竹原」という大きな原がありました。この原の中へ思い附きで大仏を拵えたというはなし……それは八角形の下台とも

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幕末維新懐古談 63 佐竹の原へ大仏を拵えたはなし

高村光雲

私の友達に高橋定次郎氏という人がありました。この人は前にも話しました通り高橋鳳雲の息子さんで、その頃は鉄筆で筒を刻って職業としていました。上野広小路の山崎(油屋)の横を湯島の男坂の方へ曲って中ほど(今は黒門町か)に住んでいました。この人が常に私の宅へ遊びに来ている。それから、もう一人田中増次郎という蒔絵師がありました。これは男坂寄りの方に住んでいる。何処とな

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幕末維新懐古談 64 大仏の末路のあわれなはなし

高村光雲

佐竹の原に途方もない大きな大仏が出来て、切舞台で閻魔の踊りがあるという評判で、見物人が来て見ると、果して雲を突くような大仏が立っている。客はまず好奇心を唆られてぞろぞろ這入る。――興業主は思う壺という所です。 大入りの笊の中には一杯で五十人の札が這入っております。十杯で五百人になる。それがとんとんと明いて行くのです。木戸口で木戸番が札を客に渡すと、内裏にもぎ

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幕末維新懐古談 65 学校へ奉職した前後のはなし

高村光雲

これから話の順序が学校へ奉職った時分のことにちょうどなって参ります。今日はそのはなしを致しましょう。……ところが随分迂闊なことでありますが、私は自分の拝命する学校を知らなかったというようなわけであった。 明治二十二年の二月十一日は憲法発布式の当日でありましたので、東京市中は一般のお祝いで大した賑わいでありました。市中はいろいろな催しもの、行列などがあり、諸学

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幕末維新懐古談 66 奈良見物に行ったことのはなし

高村光雲

三月十二日にお雇いを拝命すると、間もなく、岡倉幹事は私に奈良見物をして来てくれということでした。岡倉氏という人はいろいろ深く考えていた人であって、私がまだ今日まで奈良を見たことがないということを知っていたので、私にその方の見学をさせるためであったことと思われます。これは氏の行き届いた所であります。 私と、結城正明氏とが一緒に行くことになりました(結城氏という

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幕末維新懐古談 67 帝室技芸員の事

高村光雲

美術学校の教授を拝命したのが三月十二日、奈良京都への出張が同月十九日、拝命早々七日ばかりで旅に出まして、旅から帰ると学校の人となり、私の今日までの私生涯がここで一転化することになったのでありますが、それはそれとして、今日はその翌年の明治二十三年の十月十一日に帝室技芸員を拝命した話をしまして、それから楠公の像を製作した話へ移りましょう。 この技芸員を拝命したと

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幕末維新懐古談 68 楠公銅像の事

高村光雲

宮城前なる馬場先門の楠公銅像についてお話しましょう。 この銅像のことについては世間でまちまちの噂があります。 この楠公像は高村光雲が作ったのだといい、また岡崎雪声氏が作ったのだとも専らいわれている。時が過ぎ去りますと、いろいろこういうことには間違いが出て分らなくなりますから、今日は詳しくこの事についていい置こうと思います。 大阪の住友家の依頼で、明治二十三年

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幕末維新懐古談 69 馬専門の彫刻家のこと

高村光雲

そこで、彫刻製作となるのですが、岡倉校長は、主任は高村光雲に命ずるということであり、それから山田鬼斎先生を担任とすることになった。すると、ここで一つ主任としての私に問題が起って来たのであります。 それは、何かと申すと、楠公は馬上であるが、馬の産地も分らぬということ……出来上がる大きさはというと、馬上で一丈三尺、馬の鼻から尾の先までが一丈八尺というこの大きな馬

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幕末維新懐古談 70 木彫の楠公を天覧に供えたはなし

高村光雲

原型の楠公像はすべて檜材を用い、原型全部出来ましたので、明治二十六年三月十六日に学校庭内に組み立て、時の文部大臣並びに学校に関係ある諸氏の一覧に供したのであるが、住友家から学校へ製作を依嘱したのが明治二十三年。着手したのが翌年の四月ですから、木彫原型が全部出来上がった二十六年の三月までには約四ヶ年間を要したのであります。大勢の人と長い時日を要しただけあって原

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幕末維新懐古談 71 その他のことなど

高村光雲

さて、楠公像は、この原型を同じ美術学校の鋳金科教授岡崎雪声氏が鋳造致して住友家へ引き渡したことでありました。木型はその後大阪の博覧場というのに飾ってありましたが、今日は何処にあることか。確か、白い木地は銅色に色をつけてあったと記憶します。 またその後に至って、右の木型の形を縮めて、床置き位な小さい鋳物が四つか五つ出来ました(住友家の依頼であった)。これは山田

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幕末維新懐古談 72 総領の娘を亡くした頃のはなし

高村光雲

学校奉職時代の前に少し遡り、話し残したことを補充して置きたいと思います。 学校へ入りましたのは仲御徒町一丁目に住まっていた時のことで、毎日通勤するようになってから、住居はなるべく学校へ近い方が便利だと思いました。それにこの御徒町附近一帯は軒並み続きで、雑沓するので、年寄りや子供には適した処でない。衛生の方からいっても低地で湿気が多く水が非常に悪いので、とうか

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幕末維新懐古談 73 栃の木で老猿を彫ったはなし

高村光雲

総領娘を亡くしたことはいかにも残念であったが、くよくよしている場合でもなく、一方には学校という勤めがあるので取りまぎれていました。 すこし話が前後へ転じますが、その年の春、農商務省で米国シカゴ博覧会に出品のことについて各技術家に製作を依嘱していました。私にも木彫としての製作を一つ頼むということであった。 この出品については、政府が奨励をしました。しかし政府出

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幕末維新懐古談 74 初めて家持ちとなったはなし

高村光雲

ここでまた話が八重になりますが、……その頃馬喰町の小町水の本舗の主人に平尾賛平氏という人がありました。 今日の平尾家はその頃よりも一層盛大で、今の当主は二代であるが、先代の賛平氏時代も相当な資産家で化粧品をやっていました。この平尾氏が、どういう心持であったか、私のことを大変心配をしてくれているということであった。私の方ではさっぱりそういうことは知りませんでし

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幕末維新懐古談 75 不動の像が縁になったはなし

高村光雲

そこでまた話がいろいろ転々しますが、平尾賛平氏が、どうしてこうも私のために厚い同情を注いで下すったかということについては、今までお話をしたばかりでは少し腑に落ちかねましょうが、これにはちょっと因縁のあることで、それをついでに話します。どういう訳か知らないが、私の一生には一つの仕事をするにも、いろいろ曰くいんねんが附いて廻るのは不思議で、ただ、その事はその事と

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幕末維新懐古談 76 門人を置いたことについて

高村光雲

今日までの話にはまだ門人の事について話が及んでおりませんから、今日はそれを話しましょう。実は、私が弟子を置いたということは偶然のことではないのです。これには少し理由のあることで……といって何もむずかしいことでも何んでもありませんが、……前にも度々話した通り、私が弟子を置き初めた時分……ちょうど西町時代の初期頃は木彫りが非常に頽れ、ひとえに象牙ばかりが流行った

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