途上の犯人
浜尾四郎
途上の犯人 浜尾四郎 一 東京駅で乗車した時から、私はその男の様子が気になり出した。思いなしではなく、確かにその男の方でもじろじろと私の方にばかり注意して居る。 色の青白い、三十四、五の痩せた男である。身なりは大して賤しい方ではない。さっぱりした背広を着し、ソフトを戴いて居るのだが、帽子は乗り込むとすぐ棚の上においたようだった。外套は特に取り立てていうような
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浜尾四郎
途上の犯人 浜尾四郎 一 東京駅で乗車した時から、私はその男の様子が気になり出した。思いなしではなく、確かにその男の方でもじろじろと私の方にばかり注意して居る。 色の青白い、三十四、五の痩せた男である。身なりは大して賤しい方ではない。さっぱりした背広を着し、ソフトを戴いて居るのだが、帽子は乗り込むとすぐ棚の上においたようだった。外套は特に取り立てていうような
中野鈴子
わたしは途中で一人の女とすれちがった 女のかおは白粉と紅で白く赤く美しかった 背が高くふっくら円かった 年は二十三四 そして藤色チリメンの長袖 厚いフェルト草履の大股でトットッと歩いて行った それは大変に自慢そうで からだ全体が得意で一ぱいのようだった わたしは洗いざらしの浴衣を着て 青じけた顔をうつむけて通りすぎた わたしは顔をうつむけて通りすぎた そうし
桜間中庸
濱に出て砂にころべは夕さりて町に歸ればしみじみと、思ひ出ぬるふるさとのこと。 夕燒がまつ赤だ 故郷の臺山の夕やけを思ひ出す。いつもは見えない富士の頂の鋸齒が一つ一つくつきりとまつかな空と眞白な頂との境を見せて何とも云へない莊巖さだ。おゝ富士・富士・富士・刻々に消えて行く空のまつ赤な光りは又何といふ淋しさだ、臨終を見つめる心にも似て。 飴色に輝いて寄せつ返しつ
橘外男
逗子に了雲寺という天台宗の寺がある。詳しく言えば、逗子とは言ってもここは田浦との中間地点、むしろ田浦の方に位していると言った方がいいのかも知れぬが、東京からの避暑客などは道の遠いのとあまりにも物淋しいのとで、ほとんど顧みる人もいなかった。 田越川に沿うて神武寺を左に眺めつつ三崎街道の埃っぽい道をどこまでもどこまでも伝わって行くと、やがて小一里近く道は二股に分
田中貢太郎
這って来る紐 田中貢太郎 某禅寺に壮い美男の僧があって附近の女と関係しているうちに、僧は己の非行を悟るとともに大に後悔して、田舎へ往って修行をすることにした。関係していた女はそれを聞いてひどく悲しんだが、いよいよ別れる日になると、禅宗の僧侶の衣の腰に着ける一本の紐を縫って持って来て、「これを、私の形見に、いつまでもつけてください」 と云ってそれを僧の腰へ巻い
坂口安吾
「問はず語り」は話が好都合にできすぎてゐる。主人公の老画家が松子(女中)と関係を結ぶと気附かれぬうちに妻君の辰子が急病で死んで、それも深い感謝をさゝげて死んでしまふ。 荷風においては女中との関係が辰子に知られることによつて始まる人間関係や人間性への追求が問題にならないのである。淪落のどん底から拾ひあげて一生愛していたゞいたと死に当つていひ足りぬ感謝をのこした
坂口安吾
通俗と変貌と 坂口安吾 文学といふものは政治と違つて、こと人性に即したものであるから、戦争に負けたから変らなければならないといふ性質のものではない。文学の戦犯などゝいふことからして妙なことで、尤も中には暴力に訴へて言論に圧迫を加へた右翼主義者があつたが、この連中は論外だ。時局便乗といふことは決して犯罪ではなく、つまり、通俗といふことなので、たゞ、それだけの話
田山花袋
△ 私が鈍才であるためかも知れないが、何うも本格的な小説が書けない。一時は随分そのために苦労もし、骨も折つて見たのであるが――人一倍いろいろなことをやつて見たいと思つてゐるが、その出来栄の如何といふことよりも、何うもそれでは自分で満足が出来ない。こんなものをいくら書いたつてしやうがないといふやうに思はれて、あとでそれを振返つて見る気になれない。その癖、私のか
太宰治
みみずく通信 太宰治 無事、大任を果しました。どんな大任だか、君は、ご存じないでしょう。「これから、旅に出ます。」とだけ葉書にかいて教え、どこへ何しに行くのやら君には申し上げていなかった。てれくさかったのです。また、君がそれを知ったら、れいの如く心配して何やらかやら忠告、教訓をはじめるのではないかと思い、それを恐れて、わざと目的は申し上げずに旅に出ました。先
中谷宇吉郎
七月六日の午後、ノース・ウェスト機で羽田を立った時は、雨の中であった。しかし間もなく雲の上に出たので、気象状態はそう悪くなかった。 ときどき霧雨が窓を濡らし、灰色の雲がちぎれちぎれにとぶ。そして機は時々軽くゆれた。ところが千島の沖へかかった頃から、急に気流の状態がよくなった。三十六人乗りのあの大きい飛行機は、まるでぴたりと空中に静止したように、ちっとも動揺が
中谷宇吉郎
アメリカの地図を頭に浮べてみよう。太平洋岸の太陽と水とに恵まれた細長い地域、即ちカリフォルニア州の一部は、大部分の土地が、一年二毛作、作物によっては三毛作も可能といわれる地上の楽園である。 しかし一旦ネバダ山脈を越し、太平洋の水域を離れると、急に荒涼たる沙漠地帯にはいる。ネバダ州、ユタ州から南方にかけての諸州は、大部分の土地が恐しい沙漠であって、わずかに緑の
牧野信一
あちこちと出歩いて居りましたため御返事申おくれました。御手紙の御趣き承知いたしました。小生また/\転居と申すべきか、当分の間左記へ滞在いたします。三四日前からであります。一昨日三笠を見物し、日露戦争が恰度小生の七八歳の頃でさかんにこの軍艦の画を描いた昔を思出しました。 横須賀市山王町六八、浅尾方 牧野信一 ●図書カード
中谷宇吉郎
ネバダ通信は、まずネバダ大学の教授チャーチ博士の話から始めなければならない。チャーチ博士の名を初めて知ったのは、一九三六年だったかと思う。国際雪氷委員会のエヂンバラ総会の報告書が届いた時、その総裁としてのチャーチ博士を初めて知ったのである。 それから今年で十三年になる。その間戦争の期間を除いて、ずっと親しい交際をつづけてきた。ただしそれは手紙と論文とによる交
田中貢太郎
旧幕の比であった。江戸の山の手に住んでいる侍の一人が、某日の黄昏便所へ往って手を洗っていると手洗鉢の下の葉蘭の間から鬼魅の悪い紫色をした小さな顔がにゅっと出た。 その侍は胆力が据っていたので、別に驚きもせずに、おかしなものが出たな、と、平気な顔をしていると、その顔は直ぐ消えて無くなった。 で、侍は静に室に入っていると、間もなく右隣の邸が騒がしくなった。何ごと
中原中也
辻野君とは会で五六回、会の流れで二回会つたばかりであるから余り深いつきあひであつたわけではない。からだの弱さうな人だと思つてゐた。からだの弱さうな、気の弱さうな人であるけれども、あれで却々野心家だとも思つてゐた。彼の出した本にどんな本があるかも知らないが、リヴィエールのランボオ論とモオリヤックのイエス伝――結局彼の死の前年に出した此の二つの翻訳書だけが私の頭
豊島与志雄
逢魔の刻 豊島与志雄 昔は、逢魔の刻というのがいろいろあった。必ずしも真夜中丑満の頃ばかりでなく、白昼かっと日が照ってる時、眼に見えぬ影――魔気――が街路を通っていったり、薄暗がりの夕方、魔物が厠に潜んでいたりした。 現在、吾々の生活にも――特に精神生活には、そういう逢魔の刻がいろいろある。「こんなことをして一体に何になるか。」というのがそれだ。物を書いたり
中谷宇吉郎
八月十五日のシカゴ・サン・タイムスに、ソ連の人工衞星の研究の話が出ていた。見出しは「動物を三百マイルの高空まで打ち揚げる」というのである。 先日、アイクが、アメリカの人工衞星の豫算を承認したことは、日本の新聞でも大々的に報道されたが、この人工衞星の問題でも、目下米ソは眼に見えない競爭で、しのぎを削っている傾きがある。 人工衞星の計畫は、もとはヒットラーの夢と
寺田寅彦
連句雑俎 寺田寅彦 一 連句の独自性 日本アジア協会学報第二集第三巻にエー・ネヴィル・ホワイマント氏の「日本語および国民の南洋起原説」という論文が出ている。これはこの表題の示すごとく、日本国語の根源が南洋にある事を論証し、従って国民祖先の大部分もまた南洋から渡来したものだと論断しようとするものである。この学説の当否についてはもちろん種々の議論があるであろうが
蒲松齢
喬は晋寧の人で、少年の時から才子だといわれていた。年が二十あまりのころ、心の底を見せてあっていた友人があった。それは顧という友人であったが、その顧が没くなった時、妻子の面倒を見てやったので、邑宰がひどく感心して文章を寄せて交際を求めて来た。そして二人が交際しているうちに、その邑宰が没くなったが、家に貯蓄がないので家族達は故郷へ婦ることができなかった。喬は家産
幸田露伴
慶滋保胤は賀茂忠行の第二子として生れた。兄の保憲は累代の家の業を嗣いで、陰陽博士、天文博士となり、賀茂氏の宗として、其系図に輝いている。保胤はこれに譲ったというのでもあるまいが、自分は当時の儒家であり詞雄であった菅原文時の弟子となって文章生となり、姓の文字を改めて、慶滋とした。慶滋という姓があったのでも無く、古い書に伝えてあるように他家の養子となって慶滋とな
新村出
私のすきな春の花に連翹の花がある。白井さんの『植物渡来考』には、支那からの渡来としてあり、『延喜式』にあちこち諸国から産出したのを朝廷に貢献したことが記るされてゐるのは、薬園に培養したものであつて、それぞれの国土の自生ではあるまいとのことである。然し奈良朝の『出雲風土記』をみると、意宇郡と秋鹿郡との産物として、「凡そ諸山野所在草木」として、その中に此のイタチ
高浜虚子
こゝに雑詠といふのは明治四十一年十月発行の第十二巻第一号より四十二年七月一日発行の第十二巻第十号に至るホトトギス掲載の「雑詠」並に、明治四十五年七月一日発行の第十五巻第十号より大正四年三月発行の第十八巻第六号に至るホトトギス掲載の「雑詠」を指すのである。 第一期の雑詠即ち明治四十一年十月以降一年足ずの間の雑詠は期間も短く且つ句数も極めて少なかつた。けれども当
伊波普猷
沖縄在来の豚は小さいが、この頃舶来したバークシャーは大きい。しかし二者は至って縁の近い方で、その共同の祖先はもと南支那にいたということである。同一の祖先から出た豚でも、甲乙と相隔った所にもって行くと、地味や気候の関係で、それから生れる仔の間に多少の相違が出来、なお五代十代と時の経つにつれて変化するが、それに人間の力が加わると、その変化がもっと甚しくなる。さて
野呂栄太郎
進むべき道 野呂栄太郎 時代の第一線に立たんとする青年大衆はいかなる準備を必要とするか 質問(A) 貴下が、現在の職業にはいられた理由、もしくは動機 質問(B) 貴下関係の職業に進まんとする青年は、特にいかなる資格を必要とするか 質問(C) 貴下の職業で特に楽しいこと、特に苦しいことはいかなることか A・植民地の一開拓者の子として生まれた私は、幼時から、一方