銭形平次捕物控 004 呪ひの銀簪
野村胡堂
「永い間斯んな稼業をして居るが、變死人を見るのはつく/″\厭だな」 捕物の名人錢形の平次は、口癖のやうにかう言つて居りました。血みどろの死體をいぢり廻すのを商賣冥利と考へる爲には、平次の神經は少し繊細に過ぎたのです。 それが一番凄慘な死體と逃れやうもなく顏を合せることになつたのですから、全くやりきれません。 「ガラツ八、手前は大變なところへ、俺を引張つて來あ
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野村胡堂
「永い間斯んな稼業をして居るが、變死人を見るのはつく/″\厭だな」 捕物の名人錢形の平次は、口癖のやうにかう言つて居りました。血みどろの死體をいぢり廻すのを商賣冥利と考へる爲には、平次の神經は少し繊細に過ぎたのです。 それが一番凄慘な死體と逃れやうもなく顏を合せることになつたのですから、全くやりきれません。 「ガラツ八、手前は大變なところへ、俺を引張つて來あ
野村胡堂
「親分、聞きなすったか」 「何だ、騒々しい」 銭形平次の家へ飛込んで来た子分のガラッ八は、芥子玉絞りの手拭を鷲掴みに月代から鼻の頭へかけて滴る汗を拭いております。 「大変な事がありますぜ」 「また、清姫が安珍を追っかけて、日高川で蛇になった――てな話だろう」 「冗談じゃねえ、今日のはもっとイキのいい話だ。何しろ、仏様のねえお葬いを出したのはお江戸開府以来だろ
野村胡堂
「た、助けてくれ」 若黨の勇吉は、玄關の敷臺へ駈け込んで眼を廻してしまひました。 八丁堀の與力笹野新三郎の役宅、主人の新三郎はその日、鈴ヶ森の磔刑に立ち會つて、跡始末が遲れたものか、まだ歸らず、妻のお國は二三人の召使を供につれて、兩國の川開きを見物かたがた、濱町の里方に招かれて、これもまだ歸らなかつたのです。 留守宅は用人の小田島傳藏老人と、近頃兩國の水茶屋
野村胡堂
「た、助けてくれ」 若党の勇吉は、玄関の敷台へ駆け込んで眼を廻してしまいました。 八丁堀の与力笹野新三郎の役宅、主人の新三郎はその日、鈴ヶ森の磔刑に立ち会って、跡始末が遅れたものか、まだ帰らず、妻のお国は二三人の召使を供につれて、両国の川開きを見物かたがた、浜町の里方に招かれて、これもまだ帰らなかったのです。 留守宅は用人の小田島伝蔵老人と、近頃両国の水茶屋
野村胡堂
「やい、ガラッ八」 「ガラッ八は人聞きが悪いなア、後生だから、八とか、八公とか言っておくんなさいな」 「つまらねエ見得を張りやがるな、側に美しい新造でも居る時は、八さんとか、八兄哥とか言ってやるよ、平常使いはガラッ八で沢山だ。贅沢を言うな」 「情けねえ綽名を取っちゃったものさね。せめて、銭形の平次親分の片腕で、小判形の八五郎とか何とか言や――」 「馬鹿野郎、
野村胡堂
「やい、ガラツ八」 「ガラツ八は人聞きが惡いなア、後生だから、八とか、八公とか言つておくんなさいな」 「つまらねエ見得を張りあがるな、側に美しい新造でも居る時は、八さんとか、八兄哥とか言つてやるよ、平常使ひはガラツ八で澤山だ。贅澤を言ふな」 「情けねえ綽名を取つちやつたものさね。せめて、錢形の平次親分の片腕で、小判形の八五郎とか何とか言や――」 「馬鹿野郎、
野村胡堂
「八、あれを跟けてみな」 「へエ――」 「逃がしちやならねえ、相手は細くねえぞ」 「あの七つ下りの浪人者ですかい」 「馬鹿ツ、あれは何處かの手習師匠で、佛樣のやうな武家だ。俺の言ふのは、その先へ行く娘のことだ」 「へエ――、あの美しい新造が曲者なんですかい。驚いたな」 「靜かに物を言へ、人が聞いてるぜ」 錢形の平次と子分のガラツ八は、その頃繁昌した、下谷の徳
野村胡堂
「八、あれを跟けてみな」 「ヘエ――」 「逃がしちゃならねえ、相手は細かくねえぞ」 「あの七つ下がりの浪人者ですかい」 「馬鹿ッ、あれはどこかの手習師匠で、仏様のような武家だ。俺の言うのは、その先へ行く娘のことだ」 「ヘエ――、あの美しい新造が曲者なんですかい。驚いたな」 「静かに物を言え、人が聞いてるぜ」 銭形の平次と子分のガラッ八は、その頃繁昌した、下谷
野村胡堂
かねやすまでを江戸のうちと言った時代、巣鴨や大塚はそれからまた一里も先の田舎で、田も畑も、武蔵野のままの木立も藪もあった頃のことです。 庚申塚から少し手前、黒木長者の厳しい土塀の外に、五六本の雑木が繁って、その中に、一基の地蔵尊、鼻も耳も欠けながら、慈眼を垂れた、まことに目出たき相好の仏様が祀られておりました。 もっとも、板橋街道のすぐ傍で、淋しいと言っても
野村胡堂
かねやす迄を江戸のうちと言つた時代、巣鴨や大塚はそれから又一里も先の田舍で、田も畑も、武藏野の儘の木立も藪もあつた頃のことです。 庚申塚から少し手前、黒木長者の嚴めしい土塀の外に、五六本の雜木が繁つて、その中に、一基の地藏尊、鼻も耳も缺け乍ら、慈眼を垂れた、まことに目出度き相好の佛樣が祀られて居りました。 尤も、板橋街道の直ぐ傍で、淋しいと言つても、半町先に
野村胡堂
「やい、八」 「何です、親分」 「ちょいと顔を貸しな」 「へ、へ、へッ、こんな面でもよかったら、存分に使って下せえ」 「気取るなよ、どうせ身代りの贋首ってえ面じゃねえ、顔と言ったのは言葉の綾だ。本当のところは、手前の足が借りてえ」 捕物の名人と謳われるくせに、滅多に人を縛ったことのない御用聞の銭形の平次は、日向でとぐろを巻いている子分のガラッ八にこんな調子で
野村胡堂
「やい、八」 「何です、親分」 「ちょいと顔を貸しな」 「へ、へ、へッ、こんな面でもよかったら、存分に使って下せえ」 「気取るなよ、どうせ身代りの贋首ってえ面じゃねえ、顔と言ったのは言葉の綾だ。本当のところは、手前の足が借りてえ」 捕物の名人と謳われるくせに、滅多に人を縛ったことのない御用聞の銭形の平次は、日向でとぐろを巻いている子分のガラッ八にこんな調子で
野村胡堂
小石川水道端に、質屋渡世で二万両の大身代を築き上げた田代屋又左衛門、年は取っているが、昔は二本差だったそうで恐ろしいきかん気。 「やいやいこんな湯へ入られると思うか。風邪を引くじゃないか、馬鹿馬鹿しい」 風呂場から町内中に響き渡るように怒鳴っております。 「ハイ、唯今、すぐ参ります」 女中も庭男もいなかったとみえて、奥から飛出したのは倅の嫁のお冬、外から油障
野村胡堂
小石川水道端に、質屋渡世で二萬兩の大身代を築き上げた田代屋又左衞門、年は取つて居るが、昔は二本差だつたさうで恐ろしいきかん氣。 「やい/\こんな湯へ入られると思ふか。風邪を引くぢやないか、馬鹿々々しい」 風呂場から町内中響き渡るやうに怒鳴つて居ります。 「ハイ、唯今、直ぐ參ります」 女中も庭男も居なかつたと見えて、奧から飛出したのは伜の嫁のお冬、外から油障子
野村胡堂
「平次、少し骨の折れる仕事だが、引受けてはくれまいか」 若い与力の笹野新三郎は、岡っ引風情の銭形平次に、こんな調子で話しかけました。 「口幅ったいことを申すようで恐れ入りますが、お頼みとあれば、どんな事でも、旦那」 先代から厄介になっている銭形の平次としては、首をくれと言われても、断られた義理ではありません。それに平次も笹野新三郎に劣らず、若さと覇気と、感激
野村胡堂
芝三島町の学寮の角で、土地の遊び人疾風の綱吉というのが殺されました。桜に早い三月の初め、死体は朝日に曝されて、道端の下水の中に転げ込んでいたのを、町内の人達が見付けて大騒ぎになったのでした。 傷というのは、伊達の素袷の背後から、牛の角突きに一箇所だけ、左の貝殻骨の下のあたり、狙ったように心臓へかけてやられたのですから、大の男でも一たまりもなかったでしょう。刺
野村胡堂
芝三島町の學寮の角で、土地の遊び人疾風の綱吉といふのが殺されました。櫻に早い三月の初め、死體は朝日に曝されて、道端の下水の中に轉げ込んで居たのを、町内の人達が見付けて大騷ぎになつたのでした。 傷といふのは、伊達の素袷の背後から、牛の角突きに一箇所だけ、左の肩胛骨の下のあたり、狙つたやうに心臟へかけてやられたのですから、大の男でも一たまりもなかつたでせう。刺さ
野村胡堂
「親分、あっしは、気になってならねえことがあるんだが」 「何だい、八、先刻から見ていりゃ、すっかり考え込んで火鉢へ雲脂をくべているようだが、俺はその方がよっぽど気になるぜ」 捕物の名人銭形の平次は、その子分で、少々クサビは足りないが、岡っ引には勿体ないほど人のいい八五郎の話を、こうからかい気味に聞いてやっておりました。 遅々たる春の日、妙に生暖かさが睡りを誘
野村胡堂
「親分、あつしは、氣になつてならねえことがあるんだが」 「何だい、八、先刻から見て居りや、すつかり考へ込んで火鉢へ雲脂をくべて居るやうだが、俺はその方が餘つ程氣になるぜ」 捕物の名人錢形の平次は、その子分で、少々クサビは足りないが、岡ツ引には勿體ないほど人のいゝ八五郎の話を、かうからかひ氣味に聞いてやつて居りました。 遲々たる春の日、妙に生暖かさが睡りを誘つ
野村胡堂
「親分は、本当に真面目に聞いて下さるでしょうか、笑っちゃ嫌でございますよ」 「藪から棒に、そんな事を言っても判りゃしません。もう少し順序を立てて話してみて下さい。不思議な話や、変った話を聞くのが、言わば私の商売みたいなものだから、笑いもどうもしやしません」 銭形の平次は、およそ古文真宝な顔をして、若い二人の女性に相対しました。捕物の名人と言われている癖に、滅
野村胡堂
「親分は、本當に眞面目に聞いて下さるでせうか、笑つちや嫌で御座いますよ」 「藪から棒に、そんな事を言つても判りやしません。もう少し順序を立てて話して見て下さい。不思議な話や、變つた話を聞くのが、言はゞ私の商賣みたいなものだから、笑ひも何うもしやしません」 錢形の平次は、凡そ古文眞實な顏をして、若い二人の女性に相對しました。捕物の名人と言はれてゐる癖に、滅多に
野村胡堂
「ガラッ八、俺をどこへ伴れて行くつもりなんだい」 「まア、黙って蹤いてお出でなせい。決して親分が後悔するようなものは、お目に掛けないから――」 「思し召は有難いが、お前の案内じゃ、不気味で仕様がねえ。また丹波篠山で生捕りましたる、八尺の大鼬なんかじゃあるまいネ」 捕物の名人銭形の平次と、その子分の八五郎、野暮用で亀井戸へ行った帰り、東両国の見世物小屋へ入った
野村胡堂
「ガラツ八、俺を何處へ伴れて行く積りなんだい」 「まア、默つて蹤いてお出でなせえ。決して親分が後悔するやうなものは、お目に掛けないから――」 「思し召は有難いが、お前の案内ぢや、不氣味で仕樣がねえ。又丹波笹山で生捕りましたる、八尺の大鼬なんかぢやあるまいネ」 捕物の名人錢形の平次と、その子分の八五郎、野暮用で龜戸へ行つた歸り、東兩國の見世物小屋へ入つたのは、
野村胡堂
神田祭は九月十五日、十四日の宵宮は、江戸半分煮えくり返るような騒ぎでした。 御城内に牛に牽かれた山車が練り込んで、将軍の上覧に供えたのは、少し後の事、銭形の平次が活躍した頃は、まだそれはありませんが、天下祭または御用祭と言って、江戸ッ児らしい贅を尽したことに何の変りもありません。 銭形の平次も、御多分に漏れぬ神田ッ子でした。一と風呂埃を流してサッと夕飯を掻込