銭形平次捕物控 018 富籤政談
野村胡堂
「親分はいらっしゃる?」 「まア、お品さん、しばらくねえ、さア、どうぞ――」 取次のお静は、手を取らぬばかりに、石原の利助の娘で、年増っぷりの美しいお品を招じ入れました。 「何? お品さん、それは珍しいねえ、近頃、兄哥はどうなすったんだ」 銭形の平次も、この珍客の声を聞いて、あわてて浴衣の肌を入れながら出て来ました。妙に蒸し暑い日、八朔はとうに過ぎましたが、
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野村胡堂
「親分はいらっしゃる?」 「まア、お品さん、しばらくねえ、さア、どうぞ――」 取次のお静は、手を取らぬばかりに、石原の利助の娘で、年増っぷりの美しいお品を招じ入れました。 「何? お品さん、それは珍しいねえ、近頃、兄哥はどうなすったんだ」 銭形の平次も、この珍客の声を聞いて、あわてて浴衣の肌を入れながら出て来ました。妙に蒸し暑い日、八朔はとうに過ぎましたが、
野村胡堂
石原の利助が大怪我をしたという噂を聞いた銭形の平次、何を差措いても、その日のうちに見舞に行きました。 同じ十手捕縄を預かる仲間、昔は手柄を張合った気まずい仲でしたが、利助も取る年でいくらか気が挫けた上、平次の潔白な侠気が、何より先に、娘のお品を動かして、今では身内のように付き合っている二人だったのです。 「兄哥、災難だったそうだね。一体、どうしたことなんだ」
野村胡堂
「親分、美い新造が是非逢はしてくれつて、來ましたぜ」 とガラツ八の八五郎、薄寒い縁にしやがんで、柄にもなく、お月樣の出などを眺めてゐる錢形の平次に聲を掛けました。 平次はこの時三十になつたばかり。江戸中に響いた捕物の名人ですが、女の一人客が訪ねて來るのは、少し擽ぐつたく見えるやうな好い男でもあつたのです。 「何て顏をするんだ。――何方だか、名前を訊いたか」
野村胡堂
「親分、美い新造が是非逢わしてくれって、来ましたぜ」 とガラッ八の八五郎、薄寒い縁にしゃがんで、柄にもなく、お月様の出などを眺めている銭形の平次に声を掛けました。 平次はこの時三十になったばかり、江戸中に響いた捕物の名人ですが、女の一人客が訪ねて来るのは、少し擽ったくみえるような好い男でもあったのです。 「なんて顔をするんだ。――どなただか、名前を訊いたか」
野村胡堂
昼頃から降り続いた雪が、宵には小やみになりましたが、それでも三寸あまり積って、今戸の往来もハタと絶えてしまいました。 越後屋佐吉は、女房のお市と差し向いで、長火鉢に顔をほてらせながら、二三本あけましたが、寒さのせいか一向発しません。 「銭湯へ行くのはおっくうだし、按摩を取らせたいにも、こんな時は意地が悪く笛も聞えないね」 「お前さん、そんな事を言ったって無理
野村胡堂
「おっと、待った」 「親分、そいつはいけねえ、先刻――待ったなしで行こうぜ――と言ったのは、親分の方じゃありませんか」 「言ったよ、待ったなしと言ったに相違ないが、そこを切られちゃ、この大石がみんな死ぬじゃないか。親分子分の間柄だ、そんな因業なことを言わずに、ちょいとこの石を待ってくれ」 「驚いたなア、どうも。捕物にかけちゃ、江戸開府以来の名人と言われた親分
野村胡堂
「おつと、待つた」 「親分、そいつはいけねえ、先刻――待つたなしで行かうぜ――と言つたのは、親分の方ぢやありませんか」 「言つたよ、待つたなしと言つたに相違ないが、其處を切られちや、此大石が皆んな死ぬぢやないか。親分子分の間柄だ、そんな因業なことを言はずに、ちよいと此石を待つてくれ」 「驚いたなア、どうも。捕物にかけちや、江戸開府以來の名人と言はれた親分だが
野村胡堂
「親分、面白い話がありますぜ」 ガラッ八の八五郎、銭形平次親分の家へ呶鳴り込みました。 「相変らず騒々しいな、横町の万年娘が、駆落したって話なら知っているよ」 銭形の平次は、恋女房のお静に顔を当らせながら、満身に秋の陽を浴びて、うつらうつらとやっているところだったのです。 「へッ、そんなつまらない話じゃねえ。――ところでお静さん、――いや姐御って言うんだっけ
野村胡堂
「親分、面白い話がありますぜ」 ガラツ八の八五郎、錢形平次親分の家へ呶鳴り込みました。 「相變らず騷々しいな、横町の萬年娘が、駈落したつて話なら知つて居るよ」 錢形の平次は、戀女房のお靜に顏を當らせ乍ら、滿身に秋の陽を浴びて、うつら/\とやつて居るところだつたのです。 「へツ、そんなつまらない話ぢやねえ。――ところでお靜さん、――いや姐御つて言ふんだつけ――
野村胡堂
「八、良い月だなア」 「何かやりましょうか、親分」 「止してくれ、手前が塩辛声を張り上げると、お月様が驚いて顔を隠す」 「おやッ、変な女が居ますぜ」 銭形の平次が、子分のガラッ八を伴れて両国橋にかかったのは亥刻(十時)過ぎ。薄ら寒いので、九月十三夜の月が中天に懸ると、橋の上にいた月見の客も大方帰って、浜町河岸までは目を遮る物もなく、ただもうコバルト色の灰を撒
野村胡堂
「八、良い月だなア」 「何かやりませうか、親分」 「止してくれ、手前が鹽辛聲を張り上げると、お月樣が驚いて顏を隱す」 「おやツ、變な女が居ますぜ」 錢形の平次が、子分のガラツ八を伴れて兩國橋にかゝつたのは亥刻(十時)過ぎ。薄寒いので、九月十三夜の月が中天に懸ると、橋の上に居た月見の客も大方歸つて、濱町河岸までは目を遮る物もなく、唯もうコバルト色の灰を撒いたや
野村胡堂
錢形平次もこんな突拍子もない事件に出つくはしたことはありません。相手は十萬石の大名、一つ間違ふと天下の騷ぎにならうも知れない形勢だつたのです。 江戸の街はまだ屠蘇機嫌で、妙にソハソハした正月の四日、平次は回禮も一段落になつた安らかな心持を、其陽溜りに持つて來て、ガラツ八の八五郎を相手に無駄話をして居ると、お靜に取り次がせて、若い男の追つ立てられるやうな上ずつ
野村胡堂
銭形平次もこんな突拍子もない事件に出っくわしたことはありません。相手は十万石の大名、一つ間違うと天下の騒ぎになろうも知れない形勢だったのです。 江戸の街はまだ屠蘇機嫌で、妙にソワソワした正月の四日、平次は回礼も一段落になった安らかな心持を、そのまま陽溜りに持って来て、ガラッ八の八五郎を相手に無駄話をしていると、お静に取次がせて、若い男の追っ立てられるような上
野村胡堂
「親分、幽霊を見たことがありますかい」 「そんなものに近付きはねえよ。もっとも化物なら、この節は箱根の向うとは限らねえ、その辺にも大きな鼻の孔を掘っているぜ――」 「ちぇッ、親分の前だが、これでも町内の新造は大騒ぎだ。三日でもいいから、八さんと一緒になって苦労がしてみたいってネ」 「新造じゃあるめえ。そいつは、横町に居る手前のお袋だろう。この間もそう言ってい
野村胡堂
「親分、梅はお嫌ひかな」 「へえ?」 錢形平次も驚きました。相手は町内でも人に立てられる三好屋の隱居、十徳まがひの被布かなんか着て、雜俳に凝つて居ようといふ仁體ですが、話が不意だつたので、平次はツイ梅干を聯想せずには居られなかつたのです。 「梅の花ぢやよ、――巣鴨のさる御屋敷の庭に、大層見事な梅の古木がある。この二三日は丁度盛りで、時には鶯も來るさうぢや。場
野村胡堂
「親分、梅はお嫌いかな」 「へえ?」 銭形平次も驚きました。相手は町内でも人に立てられる三好屋の隠居、十徳まがいの被布かなんか着て、雑俳に凝っていようという仁体ですが、話が不意だったので、平次はツイ梅干を連想せずにはいられなかったのです。 「梅の花じゃよ、――巣鴨のさる御屋敷の庭に、たいそう見事な梅の古木がある。この二三日はちょうど盛りで、時には鶯も来るそう
野村胡堂
「親分、あれを聞きなすつたかい」 「あれ? 上野の時の鐘なら毎日聞いて居るが――」 錢形平次は指を折りました。丁度辰刻を打つたばかり、お早う――とも言はず飛込んだ、乾分のガラツ八の顏は、それにしては少しあわてゝ居ります。 「そんなものぢやねえ、兩國の小屋――近頃評判の地獄極樂の活人形の看板になつて居る普賢菩薩樣が、時々泣いて居るつて話ぢやありませんか」 一流
野村胡堂
「親分、あれを聞きなすったかい」 「あれ? 上野の時の鐘なら毎日聞いているが――」 銭形平次は指を折りました。ちょうど辰刻(八時)を打ったばかり、――お早うとも言わず飛込んだ、子分のガラッ八の顔は、それにしては少しあわてております。 「そんなものじゃねえ、両国の小屋――近頃評判の地獄極楽の活人形の看板になっている普賢菩薩様が、時々泣いているって話じゃありませ
野村胡堂
江戸開府以来の捕物の名人と言われた銭形平次も、この時ほど腹を立てたことはないと言っております。 滅多に人間を縛らぬ平次が、歯噛みをして口惜しがったのですから、よくよくの事だったに相違ありません。 「親分、また神隠しにやられましたぜ」 ガラッ八の八五郎が飛込んで来たのは、初夏の陽が庇から落ちて、街中に金粉を撒いたような、静かな夕暮でした。 「今度は誰だ」 平次
野村胡堂
相變らず捕物の名人の錢形平次が大縮尻をやつて笹野新三郎に褒められた話。 その發端は世にも恐ろしい『疊屋殺し』でした。 「た、大變ツ」 麹町四丁目、疊屋彌助のところに居る職人の勝藏が、裏口から調子つ外れな聲を出します。 「何だ、又調練場から小蛇でも這出して來たのかい」 と、その頃は贅の一つにされた、猿屋の房楊枝を横くはへにして、彌助の息子の駒次郎が、縁側へ顏を
野村胡堂
相変らず捕物の名人の銭形平次が、大縮尻をやって笹野新三郎に褒められた話。 その発端は世にも恐ろしい「畳屋殺し」でした。 「た、大変ッ」 麹町四丁目、畳屋弥助のところにいる職人の勝蔵が、裏口から調子っぱずれな声を出します。 「何だ、また調練場から小蛇でも這い出して来たのかい」 と、その頃は贅の一つにされた、「猿屋」の房楊枝を横ぐわえにして、弥助の息子の駒次郎が
野村胡堂
深川の材木問屋春木屋の主人治兵衞が、死んだ女房の追善に、檀那寺なる谷中の清養寺の本堂を修理し、その費用三千兩を吊臺に載せて、木場から谷中まで送ることになりました。 三千兩の小判は三つの千兩箱に詰められ、主人治兵衞の手で封印を施し、番頭の源助と鳶頭の辰藏が宰領で、手代りの人足共總勢六人、柳橋に掛つたのは丁度晝時分でした。 「惡い雲が出て來たね、鳶頭、此邊で夕立
野村胡堂
深川の材木問屋春木屋の主人治兵衛が、死んだ女房の追善に、檀那寺なる谷中の清養寺の本堂を修理し、その費用三千両を釣台に載せて、木場から谷中まで送ることになりました。 三千両の小判は三つの千両箱に詰められ、主人治兵衛の手で封印を施し、番頭の源助と鳶頭の辰蔵が宰領で、手代りの人足ども総勢六人、柳橋に掛ったのはちょうど昼時分でした。 「悪い雲が出て来たね、鳶頭、この
野村胡堂
「錢形の親分さん、お助けを願ひます」 柳原土手、子分の八五郎と二人、無駄を言ひながら家路を急ぐ平次の袖へ、いきなり飛付いた者があります。 「何だ/\」 後から差覗くガラツ八。 「何處か斬られなかつたでせうか、いきなり後ろからバサリとやられましたが――」 遠灯に透せば、二十七八の、藝人とも、若い宗匠とも見える一風變つた人物。後向になると、絽の羽織は肩胛骨のあた