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The Wayfarer
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The Wayfarer
夏目漱石
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Original Public Domain
Chapter 7 of 45

7

自分は情ない気がした。ああ云う浮いた家業をする女の平生は羨ましいほど派出でも、いざ病気となると、普通の人よりも悲酸の程度が一層甚だしいのではないかと考えた。

「旦那が付いていそうなものだがな」

三沢の頭もこの点だけは注意が足りなかったと見えて、自分がこう不審を打ったとき、彼は何の答もなく黙っていた。あの女に関していっさいの新智識を供給する看護婦もそこへ行くと何の役にも立たなかった。

「あの女」のか弱い身体は、その頃の暑さでもどうかこうか持ち応えていた。三沢と自分はそれをほとんど奇蹟のごとくに語り合った。そのくせ両人とも露骨を憚って、ついぞ柱の影から室の中を覗いて見た事がないので、現在の「あの女」がどのくらい窶れているかは空しい想像画に過ぎなかった。滋養浣腸さえ思わしく行かなかったという報知が、自分ら二人の耳に届いた時ですら、三沢の眼には美しく着飾った芸者の姿よりほかに映るものはなかった。自分の頭にも、ただ血色の悪くない入院前の「あの女」の顔が描かれるだけであった。それで二人共あの女はもうむずかしいだろうと話し合っていた。そうして実際は双方共死ぬとは思わなかったのである。

同時にいろいろな患者が病院を出たり入ったりした。ある晩「あの女」と同じくらいな年輩の二階にいる婦人が担架で下へ運ばれて行った。聞いて見ると、今日明日にも変がありそうな危険なところを、付添の母が田舎へ連れて帰るのであった。その母は三沢の看護婦に、氷ばかりも二十何円とかつかったと云って、どうしても退院するよりほかに途がないとわが窮状を仄かしたそうである。

自分は三階の窓から、田舎へ帰る釣台を見下した。釣台は暗くて見えなかったが、用意の提灯の灯はやがて動き出した。窓が高いのと往来が狭いので、灯は谷の底をひそかに動いて行くように見えた。それが向うの暗い四つ角を曲ってふっと消えた時、三沢は自分を顧みて「帰り着くまで持てば好いがな」と云った。

二十五

こんな悲酸な退院を余儀なくされる患者があるかと思うと、毎日子供を負ぶって、廊下だの物見台だの他人の室だのを、ぶらぶら廻って歩く呑気な男もあった。

「まるで病院を娯楽場のように思ってるんだね」

「第一どっちが病人なんだろう」

自分達はおかしくもありまた不思議でもあった。看護婦に聞くと、負ぶっているのは叔父で、負ぶさっているのは甥であった。この甥が入院当時骨と皮ばかりに瘠せていたのを叔父の丹精一つでこのくらい肥ったのだそうである。叔父の商売はめりやす屋だとか云った。いずれにしても金に困らない人なのだろう。

三沢の一軒おいて隣にはまた変な患者がいた。手提鞄などを提げて、普通の人間の如く平気で出歩いた。時には病院を空ける事さえあった。帰って来ると素っ裸体になって、病院の飯を旨そうに食った。そうして昨日はちょっと神戸まで行って来ましたなどと澄ましていた。

岐阜からわざわざ本願寺参りに京都まで出て来たついでに、夫婦共この病院に這入ったなり動かないのもいた。その夫婦ものの室の床には後光の射した阿弥陀様の軸がかけてあった。二人差向いで気楽そうに碁を打っている事もあった。それでも細君に聞くと、この春餅を食った時、血を猪口に一杯半ほど吐いたから伴れて来たのだともったいらしく云って聞かせた。

「あの女」の看護婦は依然として入口の柱に靠れて、わが膝を両手で抱いている事が多かった。こっちの看護婦はそれをまた器量を鼻へかけて、わざわざあんな人の眼に着く所へ出るのだと評していた。自分は「まさか」と云って弁護する事もあった。けれども「あの女」とその美しい看護婦との関係は、冷淡さ加減の程度において、当初もその時もあまり変りがないように見えた。自分は器量好しが二人寄って、我知らず互に嫉み合うのだろうと説明した。三沢は、そうじゃない、大阪の看護婦は気位が高いから、芸者などを眼下に見て、始めから相手にならないんだ、それが冷淡の原因に違ないと主張した。こう主張しながらも彼は別にこの看護婦を悪む様子はなかった。自分もこの女に対してさほど厭な感じはもっていなかった。醜い三沢の付添いは「本間に器量の好いものは徳やな」と云った風の、自分達には変に響く言葉を使って、二人を笑わせた。

こんな周囲に取り囲まれた三沢は、身体の回復するに従って、「あの女」に対する興味を日に増し加えて行くように見えた。自分がやむをえず興味という妙な熟字をここに用いるのは、彼の態度が恋愛でもなければ、また全くの親切でもなく、興味の二字で現すよりほかに、適切な文字がちょっと見当らないからである。

始めて「あの女」を控室で見たときは、自分の興味も三沢に譲らないくらい鋭かった。けれども彼から「あの女」の話を聞かされるや否や、主客の別はすでについてしまった。それからと云うもの、「あの女」の噂が出るたびに、彼はいつでも先輩の態度を取って自分に向った。自分も一時は彼に釣り込まれて、当初の興味がだんだん研ぎ澄まされて行くような気分になった。けれども客の位置に据えられた自分はそれほど長く興味の高潮を保ち得なかった。

二十六

自分の興味が強くなった頃、彼の興味は自分より一層強くなった。自分の興味がやや衰えかけると、彼の興味はますます強くなって来た。彼は元来がぶっきらぼうの男だけれども、胸の奥には人一倍優しい感情をもっていた。そうして何か事があると急に熱する癖があった。

自分はすでに院内をぶらぶらするほどに回復した彼が、なぜ「あの女」の室へ入り込まないかを不審に思った。彼はけっして自分のような羞恥家ではなかった。同情の言葉をかけに、一遍会った「あの女」の病室へ見舞に行くぐらいの事は、彼の性質から見て何でもなかった。自分は「そんなにあの女が気になるなら、直に行って、会って慰めてやれば好いじゃないか」とまで云った。彼は「うん、実は行きたいのだが……」と渋っていた。実際これは彼の平生にも似合わない挨拶であった。そうしてその意味は解らなかった。解らなかったけれども、本当は彼の行かない方が、自分の希望であった。

ある時自分は「あの女」の看護婦から――自分とこの美しい看護婦とはいつの間にか口を利くようになっていた。もっともそれは彼女が例の柱に倚りかかって、その前を通る自分の顔を見上げるときに、時候の挨拶を取換わすぐらいな程度に過ぎなかったけれども、――とにかくこの美しい看護婦から自分は運勢早見なんとかいう、玩具の占いの本みたようなものを借りて、三沢の室でそれをやって遊んだ。

これは赤と黒と両面に塗り分けた碁石のような丸く平たいものをいくつか持って、それを眼を眠ったまま畳の上へ並べて置いて、赤がいくつ黒がいくつと後から勘定するのである。それからその数字を一つは横へ、一つは竪に繰って、両方が一点に会したところを本で引いて見ると、辻占のような文句が出る事になっていた。

自分が眼を閉じて、石を一つ一つ畳の上に置いたとき、看護婦は赤がいくつ黒がいくつと云いながら占いの文句を繰ってくれた。すると、「この恋もし成就する時は、大いに恥を掻く事あるべし」とあったので、彼女は読みながら吹き出した。三沢も笑った。

「おい気をつけなくっちゃいけないぜ」と云った。三沢はその前から「あの女」の看護婦に自分が御辞儀をするところが変だと云って、始終自分に調戯っていたのである。

「君こそ少し気をつけるが好い」と自分は三沢に竹箆返しを喰わしてやった。すると三沢は真面目な顔をして「なぜ」と反問して来た。この場合この強情な男にこれ以上いうと、事が面倒になるから自分は黙っていた。

実際自分は三沢が「あの女」の室へ出入する気色のないのを不審に思っていたが一方ではまた彼の熱しやすい性質を考えて、今まではとにかく、これから先彼がいつどう変返るかも知れないと心配した。彼はすでに下の洗面所まで行って、朝ごとに顔を洗うぐらいの気力を回復していた。

「どうだもう好い加減に退院したら」

自分はこう勧めて見た。そうして万一金銭上の関係で退院を躊躇するようすが見えたら、彼が自宅から取り寄せる手間と時間を省くため、自分が思い切って一つ岡田に相談して見ようとまで思った。三沢は自分の云う事には何の返事も与えなかった。かえって反対に「いったい君はいつ大阪を立つつもりだ」と聞いた。

二十七

自分は二日前に天下茶屋のお兼さんから不意の訪問を受けた。その結果としてこの間岡田が電話口で自分に話しかけた言葉の意味をようやく知った。だから自分はこの時すでに一週間内に自分を驚かして見せるといった彼の予言のために縛られていた。三沢の病気、美しい看護婦の顔、声も姿も見えない若い芸者と、その人の一時折合っている蒲団の上の狭い生活、――自分は単にそれらばかりで大阪にぐずついているのではなかった。詩人の好きな言語を借りて云えば、ある予言の実現を期待しつつ暑い宿屋に泊っていたのである。

「僕にはそういう事情があるんだから、もう少しここに待っていなければならないのだ」と自分はおとなしく三沢に答えた。すると三沢は多少残念そうな顔をした。

「じゃいっしょに海辺へ行って静養する訳にも行かないな」

三沢は変な男であった。こっちが大事がってやる間は、向うでいつでも跳ね返すし、こっちが退こうとすると、急にまた他の袂を捕まえて放さないし、と云った風に気分の出入が著るしく眼に立った。彼と自分との交際は従来いつでもこういう消長を繰返しつつ今日に至ったのである。

「海岸へいっしょに行くつもりででもあったのか」と自分は念を押して見た。

「無いでもなかった」と彼は遠くの海岸を眼の中に思い浮かべるような風をして答えた。この時の彼の眼には、実際「あの女」も「あの女」の看護婦もなく、ただ自分という友達があるだけのように見えた。

自分はその日快よく三沢に別れて宿へ帰った。しかし帰り路に、その快よく別れる前の不愉快さも考えた。自分は彼に病院を出ろと勧めた、彼は自分にいつまで大阪にいるのだと尋ねた。上部にあらわれた言葉のやりとりはただこれだけに過ぎなかった。しかし三沢も自分もそこに変な苦い意味を味わった。

自分の「あの女」に対する興味は衰えたけれども自分はどうしても三沢と「あの女」とをそう懇意にしたくなかった。三沢もまた、あの美しい看護婦をどうする了簡もない癖に、自分だけがだんだん彼女に近づいて行くのを見て、平気でいる訳には行かなかった。そこに自分達の心づかない暗闘があった。そこに持って生れた人間のわがままと嫉妬があった。そこに調和にも衝突にも発展し得ない、中心を欠いた興味があった。要するにそこには性の争いがあったのである。そうして両方共それを露骨に云う事ができなかったのである。

自分は歩きながら自分の卑怯を恥じた。同時に三沢の卑怯を悪んだ。けれどもあさましい人間である以上、これから先何年交際を重ねても、この卑怯を抜く事はとうていできないんだという自覚があった。自分はその時非常に心細くなった。かつ悲しくなった。

自分はその明日病院へ行って三沢の顔を見るや否や、「もう退院は勧めない」と断った。自分は手を突いて彼の前に自分の罪を詫びる心持でこう云ったのである。すると三沢は「いや僕もそうぐずぐずしてはいられない。君の忠告に従っていよいよ出る事にした」と答えた。彼は今朝院長から退院の許可を得た旨を話して、「あまり動くと悪いそうだから寝台で東京まで直行する事にした」と告げた。自分はその突然なのに驚いた。

二十八

「どうしてまたそう急に退院する気になったのか」

自分はこう聞いて見ないではいられなかった。三沢は自分の問に答える前にじっと自分の顔を見た。自分はわが顔を通して、わが心を読まれるような気がした。

「別段これという訳もないが、もう出る方が好かろうと思って……」

三沢はこれぎり何にも云わなかった。自分も黙っているよりほかに仕方がなかった。二人はいつもより沈んで相対していた。看護婦はすでに帰った後なので、室の中はことに淋しかった。今まで蒲団の上に胡坐をかいていた彼は急に倒れるように仰向に寝た。そうして上眼を使って窓の外を見た。外にはいつものように色の強い青空が、ぎらぎらする太陽の熱を一面に漲らしていた。

Chapter 7 of 45
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