アパリの病院
トラックは三十分ほど走って、アパリの海岸に着いた。二間ばかりの柱を立て、有刺鉄線をはり廻した内に、天幕が行儀よく並んでいる。入口で下車すると、若い中尉がいて、「誰が通訳か」といきなりいう。「私です、中尉」と答えると「君の名前は?」「石川」「自分はここの主任でG中尉という。スペルはこうだ。話が通じないで閉口していた」という。こっちへ来いというので、一同装具を持って診療所にあてられた天幕へ行くと、十三、四と思われる比島の少年が「Eさーん!」と、すっとん狂な声を立てて、E衛生曹長に飛びついた。こんな子供が、アパリの病院で、何をしていたのか知らない。恐らく日本語が出来るので、通訳の代理でもしていたのだろう。出来るといったところで、大した日本語でも英語でもないのだが、それをチャンポンにして、誰に向っていうともなく喋舌るのを聞くと、この子の家族はツゲガラオに住んでいて、そのころE君もツゲガラオの病院にいた。
学校が再開されたが、ノートも鉛筆もなくて困っていると、E君がそれ等をどこからか手に入れて来ては、子供達にやったというのである。「日本の兵隊は悪いがEさんはいい人だ」というようなことを、この少年は一生懸命に喋舌っていた。ノートや鉛筆ばかりではあるまいと思って、その後E君に聞いて見たが「何、大したことはありません」というだけで、何も話してくれなかったが、日本の兵隊だからとて百人が百人、悪いことばかりした訳ではないのだ。
この日以来、僕はG中尉の通訳となり、一ヶ月余というものは、毎日何等かの交渉を持った。その結果、G中尉は僕にとって、忘れることの出来ぬ人になった。もちろん国は違い、境遇も違い(平時でも違うが、現在ではこちらは敗北した国の投降者である!)、年齢はこっちが五十で、向うはその半分である。捕虜の分際として「友情」などと、おこがましい言葉を使うことは避けるが、単に向うは向う、こっちはこっちで、それぞれ忠実に仕事をしたということ以外に、何かしら友情に近い感を、すくなくとも僕は抱くようになり、いまだにそれを抱いている。
ここでハッキリ申しておきたいのは、密林の中やなんかで、さんざん苦労したあげく、国は破れて捕虜になり、あちらこちらで虐待されて、心身ともにヘトヘトになっていた時G中尉が現れ、親切にしてくれたので、その恩を感じたというような、センティメンタリズムに立脚して、僕が、こんな風な感情を抱いたのではないということである。今まで書いたことからでもお分りだろうが、僕はそれまでに一回も虐待されていない。激しい言葉をかけられたこともない。密林の中での生活は、決して楽ではなかったが、幸いにしてマラリアもデングも、軍隊でいわゆる「熱発」もしていない――これは稀有な例である――。空腹を感じたことは何度かあるが、それは飢餓ではなく、健康者が普通に持つ空腹感であった。だから、肉体的には、へたばっていなかった。精神的には、敗戦は大きな打撃だったが、それよりも、今後の日本と日本人とに関する関心と希望の方が大きかった。またG中尉は親切ではあったが、それこそ No favoritism : no monkey business で、僕に対する親切や思いやりは、捕虜全体に対するものと同じであった。僕としても一人前以上英語が出来、通訳として監督将校たるG中尉やその部下の下士官、兵の連中と、時には冗談もいうような立場にいたが、それを利用して自分ひとりが得をしようというような了見は、爪の垢ほども持ったことがない。これだけは大威張りでいえることだが、シガレット一本くれといったことさえない。後でアパリの収容所に病院が合併した時、どうやらイシ(いつの間にか僕の名前から「川」が落ちて、僕は「イシ」になってしまっていた)には一日一箱二十本入のシガレットをやれということになったらしかったが(当直の米兵が「お前、今日はシガレットを貰ったか」とか「昨日はやるのを忘れていた」とか、ちょいちょいいったところから推測すると)貰わない時でも、また持っていたのを人にやって無くなってしまった時でも、目の前で向うがプカプカやっても、一本くれと手を出したりせず、無ければないで吸わずにいた。「米国人は察しが悪いから、ほしいものはどんどんほしいといえば呉れる、黙っているのは馬鹿だ」という軍属の通訳殿もいた。僕も米国は知っているし、米国人も知っているつもりだが、生命にかかわることならとにかく、煙草とか菓子とか、無くてもいい嗜好品をほしがったり、通訳という位置を利用したりするのは、卑しいことだと思ったのである。ちゃんと分って見れば、理窟にならぬ戦争を始めて、そして負けた――これ以上の大きな恥辱はないのだから、その上日本人はやたらに物をほしがるとか、不潔だとか、だらしがないとか見られて、恥の上塗りをするようなことはやめようではないか――これは僕の考えであり、アパリの収容所では一緒に働いてくれた台湾軍のT中尉(ラロのとは別人)やW軍曹とも話し合ったことなのである。ところが、こんな風に考える人はあまり多くはないらしく、殊に内地に帰って見ると、恥っかきばかりが目について、どうも面白くない。もっとも、内地といっても、東京と大阪の表口ばかりしか知らないのだから、まだまだ悲観しては早すぎるのかも知れない。
さて、病院に着いた我々は、めいめい毛布一枚、タオル一枚、石鹸一個と蚊帳ひとはりを受領した。蚊帳は細長い一人用である。軍医、衛生兵、使役兵と私とは、二張のテントに分れて住むことになり、ここで一応病院関係の人間が揃ったので、G中尉はまず日課表をきめた。朝飯七時、昼飯十二時、晩飯五時。午後六時半には必ず蚊帳を下すこと。昼寝の時間は、大体十二時から一時までで、それ以外の時、健康者がコットに横になっていることは許さぬ。水浴時間は、病人は必要に応じていつでもいいが、健康人は午後二時ということになった。病院は、前にも書いた通り、海岸にあり、正面の入口から二、三十間も行けば海になる。病人は、どこでもそうだったが、マラリア患者と下痢患者が大多数で、尾籠な話だが、垂れ流しがあり、そんな人達は衛生兵がコットごと、あるいは担架に乗せたまま、海の中に入れて身体を洗ってやる。軍医の方が残念ながら、どうも一生懸命にならぬ傾向があり、G中尉もはじめの間「米国陸軍としては、早く患者が治って帰国出来ることを念願し、そのためには必要な薬品は出来るだけ入手しようとしているのだ。癒すも癒さんも日本の軍医の責任であるのに、どうも熱が足りないように思われる。日本の軍医とはこんなものなのか。同じ日本人でありながら、どうしてこう冷淡なのだろう」といっていたぐらいであったが、衛生兵の方は実によく患者の面倒を見た。もちろん数は多く、中にはひどい人間もいたには違いないが、僕と一緒にいた人達の絶対多数は、骨身を惜しまず働いた。これには、日本の軍医制度そのものに欠点があったのかも知れない。たとえば開業十数年で学位を持っている人が応召すると見習士官で、はるかに年齢も下で、経験はほとんど皆無でも、軍医学校を出た者が中尉だったりして、「くさってしまう」場合が多かったのだろうが、それにしても、兵隊の命を粗末にするとしか考えられぬことや、いかにも親切気が足りぬと思われることが度々あった。軍医側にして見れば、僕が素人であるがゆえに、死とか苦痛とかに対して、素人的に過敏なのだというかも知れない。そのいい分も、一応は立つが、まんざら、そうばかりともいえない。やはり妙な階級意識が、兵隊の生命を軽く見る傾向を生じたのではあるまいかと思われる。夜中に病人が変なことになると、その幕舎を受持っている衛生兵は、まず僕を起しに来る。直接軍医のところへ行っても、相手にしてくれないからである。僕が軍医に起きて貰って、一緒に患者を見舞うのだった。
具体的の例をあげよう。一人の兵隊が、夜中の一時ごろに、変な風になった。マラリアの熱が頭に来たらしく、青年学校の校長がどうしたとか、灯火が暗いから蝋燭をつけろとか、大声でわめくのである。それでありながら、自分が病院にいることは知っていて「衛生兵殿」と呼びかけては、何かと哀訴嘆願する。僕にして見れば可哀相で仕方がない。何とかしてやれないものかと思うが、軍医殿は平気らしく、事実手の打ちようがないのかも知れないが、優しい言葉ひとつかけるでもない。下らない素人のセンティメンタリズムか人道主義かは知らぬが、同じ日本人が、同じ捕虜という境遇に陥って、高熱のために頭が変になっている――この患者は両三日後に死亡した――のに対して、無関心でいることが科学的の態度であるならば、僕はそんな科学はすててしまった方がいいと思う。風がビュービュー吹いて、テントの布をバタバタいわせる夜半、裸蝋燭を手でかこって、こんな病人が狂うのを見ると、まったく暗い気持にならざるを得ない。同時に僕は、しばしばワルト・ウィットマンを思った。何もウィットマンを気取った訳ではないが、ウィットマンも何度かこんな経験をしたのだな……と考え、かつて平和の日、わざわざキャムデンまで彼の旧宅を見に行ったことなど思い出した。
別の病人は、朝の四時ごろ、きまって変なことをいい出すのだった。自分の左脚が細く細くなり、見ているうちになくなってしまうという恐怖を、九州弁で説明する。「見て下さい。脚がなくなるではありませんか。早くどうかして下さい」と泣声を立てる。医療的には、どうすることも出来ないのかも知れず、また相手になることは、却って悪影響をおよぼすのかも知れないが、狂っていても話せば分るので「大丈夫、そんなことはない」というと「でも、見ている内に無くなります。ああ、もう無くなってしまいました」と泣くのである。僕は夜光時計を見せた。「今、五時ちょっと前。六時半には朝飯を持って来てあげる。朝飯を食えば、君の脚はもと通りになるから、安心していたまえ」といって聞かせると「そうでしょうか。お願いします」と、静かになるのである。「あれも人の子樽ひろい」というが、妻子もあるに違いない老兵が、痩せた股と脚を撫でながら、それが無くなってしまったなどというのを、黙って聞いている訳には行かない。
だいぶん後の話だが、中部ルソンから東海岸をめざして山の中に逃げ込んだ兵隊が、多い時は十数名、すくない時は三、四名と、収容所に現れるようになった。われわれみたいに、団体として、米軍と打合せて投降したのではないから、諸所方々で持っている物を取られたり、食物と交換したり、それだけでも惨憺たるものだが、多くは栄養不足と病気とで、見る影もない哀れさである。中には即刻入院させねばならぬ人がいるのだが、その判断がわれわれにはつかぬので、軍医に見て貰うことにした。すると、一人の軍医は、何と思ってか、ひどく乱暴な口を利くのである。部隊はどこだとか、階級は何だとか、簡単なことを質問されても、頭がボンヤリしているのでとんちんかんな返事をするのがいる。「何をいうのか。誰がそんなことを聞いているか」とか「この間抜野郎」とか、聞く僕としては、医は仁術であっても、兵隊に対する軍医は、すくなくとも、このM大尉は、断じて仁者ではないことを、しみじみと感ぜざるを得なかった。疲労困憊している人間に優しい言葉をかけると、ガックリ行ってしまうといって態々激しい言葉で叱り飛ばすということは聞いているが、この軍医殿のは、そんな風に「気合をかける」のとは違い、単に将校対兵隊の馬鹿威張りを一歩も出ていない。米軍の給与を受け、身体も丈夫な――しかも時々、給与のビスケットでは足りないなどと、僕に文句をいった――人間が、立っていることもようやくと思われる人間に、こんな意味のない威張り方をすると、僕は実に腹が立つのだった。
患者の水浴から話が横にそれた。われわれは二時になると、ほとんど裸体になって柵内に並び、番号をとった上で、正門を出て海に入る。米国の兵隊が小銃を持って見張っているが、それはわれわれが逃げるのを防ぐよりも、比島人が悪さをするのを防ぐためであった。砂浜はきれいだし、海もきれいだし、遠く近くに浮ぶ島々を見て、大きな波に打たれながら、身体を洗ったり、洗濯したり、泳いだりするのは、すこぶる快適だった。ただし塩水で、あとがべとつくことは、やむを得なかった。
ところが、ラロから婦女子が移って来るにおよんで、水浴が問題になった。時間は午前十時、場所は病院から五、六町西へよった所、と決めたG中尉は、「警備の兵は、一同が水浴している間、陸の方を向いているべし」と命令して笑った。それで問題は解決した訳だが、どういう理由か、いわゆる婦女子はあまり海に入らなかった。波が怖かったのかも知れない。