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道
石川啄木
○○郡教育会東部会の第四回実地授業批評会は、十月八日の土曜日にT――村の第二尋常小学校で開かれる事になつた。選択科目は尋常科修身の一学年から四学年までの合級授業で、謄写版に刷つた其の教案は一週間前に近村の各学校へ教師の数だけ配布された。
隣村のS――村からも、本校分校合せて五人の教師が揃つて出懸ける事になつた。其の中には赴任して一月と経たぬ女教師の矢沢松子もゐた。『貴方もお出でになつては何うです?』斯う校長に言はれた時、松子は無論行くべきものと思つてゐたやうに、『参ります。』と答へた。山路三里、往復で六里あると聞いても、左程驚きもしなければ、躊躇する態もなかつた。
机を向ひ合してゐる准訓導の今井多吉は、それを見ながら前の女教師を思出した。独身にしては老け過ぎる程の齢をしてゐた其の女の、甲高い声で生徒を叱り飛ばした後で人前も憚らず不興気な顔をしてゐる事があつたり、「女」といふを看板に事々に労を惜んで、楽な方へ楽な方へと廻つてばかりゐたのに比べて、齢の若いとは言ひながら、松子の何の不安も無気に穏しく自分の新しい境遇に処して行かうとする明い心は、彼の単調な生活に取つて此頃一つの興味であつた。前の女教師の片意地な基督教信者であつた事や、費用をはぶいて郵便貯金をしてゐる事は、それを思出す多吉の心に何がなしに失望を伴つた。それだけ松子の思慮の浅く見える物言ひや、子供らしく口を開いて笑つたりする挙動が、彼には埃だらけな日蔭のやうに沈んでゐる職員室の空気を明くしてゐるやうに思はれた。
『今井さんは何うです?』と、校長は人の好ささうな顔に笑ひを浮べて言つた。
『煎餅を喰ひにですか。』と若い准訓導は高く笑つた。『行きますとも。』
校長も笑つた。髯の赤い、もう五十面の首席訓導も笑つた。此前の会が此の学校に開かれた時、茶受に出した麦煎餅を客の手を出さぬうちに今井が一人で喰つて了つた。それが時々此の職員室で思出されては、其の都度新らしい笑ひを繰返してゐたのである。話に聞いてゐる松子も、声を出して一緒に笑つた。
それは二三日前の事であつた。
其の日が来た。秋の半ば過の朝霧が家並の茅葺屋根の上半分を一様に消して了ふ程重く濃く降りた朝であつた。S――村では、霧の中で鶏が鳴き、赤児が泣き、馬が嘶いた。山を負うた小学校の門の前をば、村端れの水汲場に水汲みに行く大きい桶を担いだ農家の女が幾人も幾人も、霧の中から現れて来て霧の中へ隠れて行つた。日の出る時刻が過ぎても霧はまだ消えなかつた。
宿直室に起臥してゐる校長が漸々起きて顔を洗つたばかりのところへ、二里の余も離れた処にある分校の目賀田といふ老教師が先づ来た。草鞋を解き、腰を延ばし、端折つた裾を下して職員室に入ると、挨拶よりも先に『何といふ霧でしたらう、まあ。』と言つて、呆れて了つたといふやうな顔をして立つた。
取敢へず、着て来た色の褪めた木綿の紋付を脱いで、小使が火を入れたばかりの火鉢の上に翳した。羽織は細雨に遭つたやうにしつとりと濡れてゐて、白い水蒸気が渦巻くやうに立つた。『慣れた路ですけれども、足許しか見えないもんだから何だか知らない路に迷つてゐるやうでしてなあ。いや、五里霧中とは昔の人はよく言つたものだと思ひました哩。……蝙蝠傘を翳してるのに、拭いても拭いても顔から雫が滴るのですものなあ。』こんな事を言ひながら頻りと洟水を啜つた。もう六十からの老人であるが、資格はただの准訓導であつた。履歴を訊せば、藩の学問所の学頭をした人の嗣で、県政の布かれてからは長らく漢学の私塾を開いてゐたとかいふ事である。
羽織が大概乾いた頃に女教師が来た。其の扮装を見上げ見下して、目賀田は眼を円くした。
『貴方は下駄ですかい?』
『え。』
又見上げ見下して、『真箇に下駄で行くのですかい?』
『そんなに悪い路で御座いませうか?』
『下駄では少し辛いでせうよ、矢沢さん。』と校長が宿直室から声を懸けた。
『さうでせうか。』と言つて、松子は苦もなく笑つた。『大丈夫歩いてお目にかけますわ。慣れてるんですもの。』
『坂がありますよ。』
『大丈夫、先生。』
『そんな事を言はないで、今のうちに草鞋を買はせなさい。老人は悪い事は言はない。三里と言つても随分上つたり下つたりの山路ですぞ。』
さう言つて目賀田は、目の前に嶮しい坂が幾つも幾つも見えるやうな目付をした。松子は又笑つた。心では自分が草鞋を穿いて此の人達と一緒に歩いたら、どんな格好に見えるだらうと想像して見た。そして、何もそんなにしてまで行かなくても可いのだと思つてゐた。
さうしてるところへ、玄関に下駄の音がして多吉が入つて来た。
『貴方もか、今井さん?』と目賀田が突然問ひかけた。
『何です?』
『貴方も下駄で行くのですかい?』
『ええ。何うしてです?』
『何うしてもないが、貴方方が二人――貴方は男だからまあ可いが、矢沢さんが途中で歩けなくなつたら、皆で山の中へ捨てて来ますぞ。』
言葉は笑つても、心は憎悪であつた。
多吉は、『それあ面白いですね。誰でも先に歩けなくなつた人は捨てて来る事にしませう。』声を高くして、『ねえ、先生。』
障子の彼方にはがちやりと膳部の音がした。校長が、『私は可いが、目賀田さんがそれぢやあ却つてお困りでせう。』
『老人は別物さ。』と目賀田も言ふ。
多吉は子供らしく笑つた。
『然し、靴なんかよりは下駄の方が余程歩きいいんですよ。――それあ草鞋は一番ですがね。貴方は矢張草鞋ですか?』
『俺かな? 俺は草鞋さ。』
さう言つて老人は横を向いて了つた。「可愛気のない人達だ。」と眼が言つた。
やがて髯の赤い首席の雀部が遅れた分疏をしながら入つて来た時、校長ももう朝飯が済んだ。埃と白墨の粉の染みた詰襟の洋服に着替へ、黒い鈕を懸けながら職員室に出て来ると、目賀田は、補布だらけな莫大小の股引の脛を火鉢に焙りながら、緩りとした調子で雀部と今朝の霧の話を始めてゐた。其の容子は、これから又隣村まで行かねばならぬ事をすつかり忘れてゐるもののやうにも見えた。故意に出発の時刻を遅くしようとしてゐるのかとも見えた。
『蝙蝠傘を翳してるのになあ、貴方、それだのに此の禿頭から始終雫が落ちてくるのですものなあ。』
こんな事を言つて、後頭にだけ少し髪の残つてゐる滑かな頭をつるりと撫でて見せた。皆は笑つた。笑ひながら多吉は、此の老人にもう其の話を結末にせねばならぬ暗示を与へる事を気の毒に思つた。それと同時に、何がなしに此の老人が、頭の二つや三つ擲つてやつても可い程卑しい人間のやうに思はれて来た。
校長にも同じやうな心があつた。老人の後に立つてゐて、お付合のやうに笑ひながら窓側の柱に懸つてゐる時計を眺め、更に大形の懐中時計を衣嚢から出して見た。
雀部は漸く笑ひ止んで、揶揄ふやうな口を利いた。
『あの帽子は何うしたのです? 冠つて来なかつたのですか?』
『あれですか? あれはな、』目賀田は何の為ともなく女教師の顔を盗むやうに見た。『はははは、遺失して了ひました哩。』
『ほう。惜い事をしたなあ。却々好い帽子だつたが……。もう三十年近く冠つたでせうな?』
『さあ、何年から。……自分から言つては可笑しいが、買つた時は――新しい時は見事でしたよ。汽船で死んだ伜が横浜から土産に買つて来て呉れたのでな。羅紗は良し――それ、島内といふ郡長がありましたな。あの郡長が巡回に来て、大雨で一晩泊つて行つた時、手に取つてひつくら返しひつくら返し見て褒めて行つた事がありました哩。――外の事は何にも褒めずにあの帽子だけをな。』
『何うして遺失したんです?』と多吉は真面目な顔をして訊いた。
『それがさ。』老人は急に悄気た顔付をして若い教師を見た。それから其の眼を雀部の髯面に移した。
『先月、それ、郡視学が巡つて来ましたな?』
『はあ、来ました。』
『あの時さ。』と目賀田は少し調子づいた。『考へて見れば好い面の皮さな。老妻を虐めてを殺さしたり、罎詰の正宗を買はしたり、剰にうんと油を絞られて、お帰りは停車場まで一里の路をお送りだ。――それも為方がありませんさ。――ところで汽車が発つと何うにも胸が収まらない。例よりは少し小つ酷く譴られたのでな。――俺のやうな耄碌を捕まへてからに、ヘルバロトが何うの、ペスタ何とかが何うの、何段教授法だ児童心理学だと言つたところで何うなるつてな。いろはのいは何う教へたつていろはのいさ。さうでせう、雀部さん? 一二が二は昔から一二が二だもの。………』
女教師は慌て首を縮めて、手巾で口を抑へた。
『まあさ、さう笑ふものではない。老人の愚痴は老人の愚痴として聞くものですぞ。――いや、先生方の前でこんな事を言つちや済まないが、――まま、そ言つたやうな訳でね、停車場から出ると突然お芳茶屋へ飛込んだものさ。ははは。』
『解つた、解つた。そして酔つて了つて、誰かに持つて行かれたかな?』と雀部は煙草入を衣嚢に蔵ひながら笑つた。
『いやいや。』目賀田は骨ばつた手を挙げて周章へて打消した。『誰が貴方、犬ででもなけれあ、あんな古帽子を持つて行くもんですかい。冠つて出るには確に冠つて出ましたよ。それ、あのお芳茶屋の娘の何とかいふ子な、去年か一昨年まで此方の生徒だつた。――あれが貴方、むつちりした手つ手で、「はい、先生様。」と言つて渡して呉れたのを、俺はちやんと知つてる。それからそれを受取つて冠つたのも知つてますものな。――ところがさ、家へ帰ると突然老妻の奴が、「まあ、そんなに酔つ払つて、……帽子は何うしたのです?」と言ふんでな。はてな、と思つて、斯うやつて見ると、それ。――』
手を頭へやつて、ぴたりと叩いて見せた。『はははは。』多吉はそれを機に椅子を離れた。
『浮気だものな、此のお老人は。』さう言つて雀部ももう此の話の尻を結んだ積りであつた。
『莫迦な。』目賀田はそれを追駆けるやうに又手を挙げた。『貴方ぢやあるまいし。……若しや袂に入れたかと思つて袂を探したが、袂にもない。――』
『出懸けませうか、徐々。』
手持無沙汰に立つてゐた校長がさう言つた。『さうですね。』と雀部も立つ。
『もう時間でせうな。』後を振向いてさう言つた目賀田の顔は、愈々諦めねばならぬ時が来たと言つてるやうに多吉には見えた。老人はこそこそと遁げるやうに火鉢の傍から離れて、隅の方へ行つた。
校長は蔵つた懐中時計をまた出して見て、『恰度七時半です。――恰度可いでせう。授業は十一時からですから。』
『目賀田さんは御苦労ですなあ。』両手を衣嚢に入れてがつしりした肩を怒らせながら、雀部は同情のある口を利いた。
『年は老るまいものさな。………何有………然し五里や十里は………まだまだ………』
断々に言ひながら、体を揺り上げるやうにして裾を端折つてゐる。
そして今度は羽織に袖を通しかけて、
『時にな、校長さん。』と言ひ出して。『俺の処の六角時計ですな、あれが何うも時々針が止つて為様がないのですが、役場に持つて来たら直して貰へるでせうな?』
話の続きは玄関で取交された。
臨時の休みに校庭はひつそりとして広く見えた。隅の方に四五人集つて何かしてゐた近処の子供等は、驚いたやうに頭を下げて、五人の教師の後姿を見送つた。教師達の出て行つた後からは、毛色の悪い一群のが餌をあさりながら校庭へ入つて行つて。
霧はもう名残もなく霽れて、澄みに澄んだ秋の山村の空には、物を温めるやうな朝日影が斜めに流れ渡つてゐた。村は朝とも昼ともつかぬやうに唯物静かであつた。
水銀のやうな空気が歩みに随つて顔や手に当り、涼気が水薬のやうに体中に染みた。「頭脳が透き通るやうだ。」と多吉は思つた。暫らくは誰も口を利かなかつた。
村端れへ出ると、殿になつて歩いて来た校長は、
『今井さん。今日は不思議な日ですな。』と呼びかけた。
『何うしてです?』
『靴を穿いた人が二人に靴でない人が三人、髭のある人が二人に髭のない人が三人、皆二と三の関係です。』
『さうですね。』多吉は物を捜すやうに皆を見廻した。そして何か見付けたやうに、俄かに高く笑ひ出した。