10
山手のほうに向かって歩き続けたのがいけなかったようだ。それはもうとっくに気づいていたことなのにぼくは引き返そうとしなかった。歩きつづける足をいったん止めて方向を変更するということができなかった。もともとどこへ行こうとしていたわけでもないため、立ち止まる理由がなかったのだ。それにしても辺りの田圃が階段状の幅の狭いものになってくるとさすがにこのまま山の上に向かって歩くことが不安になってきた。
もう何時間歩きつづけているのだろう。くるぶしの辺りが痛んできた。唾液がねばついて感じるほど喉の乾きも激しくなってきている。先ほどようやく一台見つけた自動販売機は煙草のものだったのだ。煙草では飲み物のかわりにはならないのに、ぼくはそこで煙草を買ってしまい三本吸った。ヤニの苦さがべっとりと口のなかに残りよけいに飲み物が欲しくなった。足首から先はすっかりむくんで靴が破裂するほどに膨張している。機械仕掛けのように交互に足を前に出すのを停止すれば、ふたたび歩き出すことはできないかもしれない。辺りには人家がまったくなくなったかわりに、道は松林のなかに通じ、風が吹くと木々のざわめく音が聞こえるのがせめてもの救いだ。
曲がりくねった道はいつしか山の反対側に通じていた。意外なことに眼下には海が広がっている。太陽が傾き日差しが弱まってきていた。
防砂林をぬけると海岸のほうにつづいているらしい太い道路に当たったが、その道にも車はまったく通っていなかった。おそらく海水浴客のためにつくられた道路でそれ以外の時期にはほとんど使われていないのだろう。バス停があったので近寄ってみたが時刻表はほとんど空欄で運行は一日に五便しかない。きっと夏場だけ臨時便を走らせるのだ。立ち止まったせいで足の疲れは倍になって感じられる。しかしどうせここまで歩いたのだ。海岸まで出てみよう。そう思いぼくはふたたびふくれあがった足を引きずり始めた。
曇り空の下の人影のない浜辺は脱色したようにしらじらしい。砂に足を取られて歩きにくい。下半身が油の切れた機械仕掛けのようにぎくしゃくする。地面に両膝をつくとそのまま砂の上にうつ伏せになってしまった。砂にはまだ日中の日差しの名残りがありなまぬるい。こうしていると自分には見当もつかないほど巨大な生物の皮膚に取りついているようだ。はるか上の視点から自分を見下ろしているところを想像してみた。砂浜に一人でうつ伏せになっている男は行き倒れの死体のようには見えないだろうか。ぼくは死体になったつもりで頬を砂につけ全身の力を抜いた。
ただ目を開きそのままの姿勢で視界にはいるものだけを眺めていた。落ちているごみはどれも数ヶ月前のものだ。硝子はくもり、空き缶は変色している。ふいに、置き去りにされた存在という言葉を思い出し、それらのがらくたが何か感動的で愛しい物に思えてきた。このごみたちはもとはと言えば誰かが何かの目的があってつくりだしたものだ。それがこの浜辺で何の秩序も持たずばらばらのまま徐々に朽ち果てていくのだ。それら自身はそのことに一片の感傷すらもたない。感傷はそれらを見ているぼくがつくりだしただけだ。それらはあらゆる意味とは無関係になっており、いまやごみですらない。捨てられているのではなく単に置き去りにされているのだから。ぼくが見ていようが見ていまいがじっとそこにあるだけだ。ぼくはふたたび立ち上がると目につくがらくたを容赦なく踏みつぶして歩きながら波打ち際に近づいていった。コーヒーの空き缶を蹴るとなかに入っていた濁った海水が足首にかかり靴に入った。
急に辺りが暗くなった。山際から黒い雲が迫り太陽を隠したのだ。ひとつぶ、ふたつぶと顔に当たるものを感じるうち雨足が強まってきた。雲には稲妻まで見える。このまま浜に突っ立っていては危ない。雨宿りのできそうな避難場所をさがして見回すと営業していない浜茶屋が潮風に吹きさらされて寒々としている。ぼくはそこまで走った。
浜茶屋の軒下に入ると雨の音がひどく拡大されて聞こえた。走っている最中に感じていた以上の雨足だ。大つぶの雨滴が目に見える。たしかに全身が先ほど足もとにかかった海水など気にならないほど濡れている。髪も地肌までぐっしょり濡れてしまった。
もうすっかり暗くなった海に高波がうねっている。さっきまでからからに乾燥していた砂浜は雨に濡れて色が変わった。どのくらいで止むだろうか。頭の上では雷鳴がとどろいている。別に急ぎの用事があるわけではないが足止めを食うというのは気の滅入ることだ。ぼくは浜茶屋の入口の段になっているところに腰を下ろした。歩きつづけたため自分の体重が砂袋のように感じられた。
色あせたビールのポスターが破れて水着を着た女がまっぷたつになってほほえんでいる。コーラのマークのついた業務用の冷蔵庫にかぶせてある青いシートが風にまくれてはためいている。その音があまり荒々しくなるのでここにいることを咎められているような気になる。煙草を取り出して吸おうとしたが、雨に濡れた手でライターを触ってしまったため火がつかなかった。いったんくわえた煙草をまたパックのなかに戻そうとしたが途中で折れた。
浜茶屋の建物の角のところに茶色の毛の動物が体の一部をのぞかせているのが見えた。近づいてみると犬だった。親犬らしい一匹にそれよりも体の小さいのが三匹寄り添っている。一目で雑種とわかる中型犬だ。それも洋犬と和犬の雑種のようだ。子のほうは柴犬に近いが親のほうはもっと毛足が長い。
「こら。おとなしくしなさい」
ふいに若い女の声がした。自分が言われたのではないはずだが誰もいないものと思っていたので身がまえた。建物の裏手のほうから聞こえたようだった。少しためらったがぼくは声のほうへ足を向けた。
恐る恐る建物の裏手をのぞいてみるとショートカットの女が犬を押えつけて何かしようとしているところだった。底を上にしたビールのケースの端に犬の尻のほうを固定しようとしているらしい。いったい何をしようとしているのだろう。犬のほうもわけがわからないらしく、おちつかない様子だ。
「よしよし。いい子だから」
女は何とかして犬をなだめようとしている。ビールケースの上にはどこかで見たことのある道具がおいてある。あれは裁断機だ。学校の職員室においてあった。高校のころ仲間とつくった同人誌を綴じてから不揃いな天地などを整えるために使ったものだ。束になった紙を切り落とす見事な切れ味は指の一本や二本くらい容易に切断しそうだった。
犬がビールケースの端に尻をつけ、しっぽが裁断機の上にのった。その瞬間を逃さず女は裁断機のレバーを一気に押し下げた。ぼくは思わず声を出しそうになったが必死に息を殺した。犬も自分の身に起こった異常を理解できないからか、まったく鳴き声をあげずしっぽのない尻から血を流しながらぎこちなく何歩か歩いてみている。女は裁断機の上に残されたしっぽを取り上げるといかにも慣れた手付きで血を絞った。
ぼくは陰からのぞき見ていた手前いまさら彼女に声をかけることもできずそのままじっと身を潜めていた。空が光るのとほぼ同時に雷鳴がとどろいた。雨足が一層強くなってきたようだ。