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開扉一妖帖
泉鏡花
ただ仰向けに倒れなかったばかりだったそうである、松村信也氏――こう真面目に名のったのでは、この話の模様だと、御当人少々極りが悪いかも知れない。信也氏は東――新聞、学芸部の記者である。
何しろ……胸さきの苦しさに、ほとんど前後を忘じたが、あとで注意すると、環海ビルジング――帯暗白堊、五階建の、ちょうど、昇って三階目、空に聳えた滑かに巨大なる巌を、みしと切組んだようで、芬と湿りを帯びた階段を、その上へなお攀上ろうとする廊下であった。いうまでもないが、このビルジングを、礎から貫いた階子の、さながら只中に当っていた。
浅草寺観世音の仁王門、芝の三門など、あの真中を正面に切って通ると、怪異がある、魔が魅すと、言伝える。偶然だけれども、信也氏の場合は、重ねていうが、ビルジングの中心にぶつかった。
また、それでなければ、行路病者のごとく、こんな壁際に踞みもしまい。……動悸に波を打たし、ぐたりと手をつきそうになった時は、二河白道のそれではないが――石段は幻に白く浮いた、卍の馬の、片鐙をはずして倒に落ちそうにさえ思われた。
いや、どうもちっと大袈裟だ。信也氏が作者に話したのを直接に聞いた時は、そんなにも思わなかった。が、ここに書きとると何だか誇張したもののように聞こえてよくない。もっとも読者諸賢に対して、作者は謹んで真面目である。処を、信也氏は実は酔っていた。
宵から、銀座裏の、腰掛ではあるが、生灘をはかる、料理が安くて、庖丁の利く、小皿盛の店で、十二三人、気の置けない会合があって、狭い卓子を囲んだから、端から端へ杯が歌留多のようにはずむにつけ、店の亭主が向顱巻で気競うから菊正宗の酔が一層烈しい。
――松村さん、木戸まで急用――
いけ年を仕った、学芸記者が馴れない軽口の逃口上で、帽子を引浚うと、すっとは出られぬ、ぎっしり詰合って飲んでいる、めいめいが席を開き、座を立って退口を譲って通した。――「さ、出よう、遅い遅い。」悪くすると、同伴に催促されるまで酔潰れかねないのが、うろ抜けになって出たのである。どうかしてるぜ、憑ものがしたようだ、怪我をしはしないか、と深切なのは、うしろを通して立ったまま見送ったそうである。
が、開き直って、今晩は、環海ビルジングにおいて、そんじょその辺の芸妓連中、音曲のおさらいこれあり、頼まれました義理かたがた、ちょいと顔を見に参らねばなりませぬ。思切って、ぺろ兀の爺さんが、肥った若い妓にしなだれたのか、浅葱の襟をしめつけて、雪駄をちゃらつかせた若いものでないと、この口上は――しかも会費こそは安いが、いずれも一家をなし、一芸に、携わる連中に――面と向っては言いかねる、こんな時に持出す親はなし、やけに女房が産気づいたと言えないこともないものを、臨機縦横の気働きのない学芸だから、中座の申訳に困り、熱燗に舌をやきつつ、飲む酒も、ぐッぐと咽喉へ支えさしていたのが、いちどきに、赫となって、その横路地から、七彩の電燈の火山のごとき銀座の木戸口へ飛出した。
たちまち群集の波に捲かれると、大橋の橋杭に打衝るような円タクに、
「――環海ビルジング」
「――もう、ここかい――いや、御苦労でした――」
おやおや、会場は近かった。土橋寄りだ、と思うが、あの華やかな銀座の裏を返して、黒幕を落したように、バッタリ寂しい。……大きな建物ばかり、四方に聳立した中にこの仄白いのが、四角に暗夜を抽いた、どの窓にも光は見えず、靄の曇りで陰々としている。――場所に間違いはなかろう――大温習会、日本橋連中、と門柱に立掛けた、字のほかは真白な立看板を、白い電燈で照らしたのが、清く涼しいけれども、もの寂しい。四月の末だというのに、湿気を含んだ夜風が、さらさらと辻惑いに吹迷って、卯の花を乱すばかり、颯と、その看板の面を渡った。
扉を押すと、反動でドンと閉ったあとは、もの音もしない。正面に、エレベエタアの鉄筋が……それも、いま思うと、灰色の魔の諸脚の真黒な筋のごとく、二ヶ処に洞穴をふんで、冷く、不気味に突立っていたのである。
――まさか、そんな事はあるまい、まだ十時だ――
が、こうした事に、もの馴れない、学芸部の了簡では、会場にさし向う、すぐ目前、紅提灯に景気幕か、時節がら、藤、つつじ。百合、撫子などの造花に、碧紫の電燈が燦然と輝いて――いらっしゃい――受附でも出張っている事、と心得違いをしていたので。
どうやら、これだと、見た処、会が済んだあとのように思われる。
――まさか、十時、まだ五分前だ――
立っていても、エレベエタアは水に沈んだようで動くとも見えないから、とにかく、左へ石梯子を昇りはじめた。元来慌てもののせっかちの癖に、かねて心臓が弱くて、ものの一町と駆出すことが出来ない。かつて、彼の叔父に、ある芸人があったが、六十七歳にして、若いものと一所に四国に遊んで、負けない気で、鉄枴ヶ峰へ押昇って、煩って、どっと寝た。
聞いてさえ恐れをなすのに――ここも一種の鉄枴ヶ峰である。あまつさえ、目に爽かな、敷波の松、白妙の渚どころか、一毛の青いものさえない。……草も木も影もない。まだ、それでも、一階、二階、はッはッ肩で息ながら上るうちには、芝居の桟敷裏を折曲げて、縦に突立てたように――芸妓の温習にして見れば、――客の中なり、楽屋うちなり、裙模様を着けた草、櫛さした木の葉の二枚三枚は、廊下へちらちらとこぼれて来よう。心だのみの、それが仇で、人けがなさ過ぎると、虫も這わぬ。
心は轟く、脉は鳴る、酒の酔を円タクに蒸されて、汗ばんだのを、車を下りてから一度夜風にあたった。息もつかず、もうもうと四面の壁の息を吸って昇るのが草いきれに包まれながら、性の知れない、魔ものの胴中を、くり抜きに、うろついている心地がするので、たださえ心臓の苦しいのが、悪酔に嘔気がついた。身悶えをすれば吐きそうだから、引返して階下へ抜けるのさえむずかしい。
突俯して、(ただ仰向けに倒れないばかり)であった――
で、背くぐみに両膝を抱いて、動悸を圧え、潰された蜘蛛のごとくビルジングの壁際に踞んだ処は、やすものの、探偵小説の挿画に似て、われながら、浅ましく、情ない。
「南無、身延様――三百六十三段。南無身延様、三百六十四段、南無身延様、三百六十五段……」
もう一息で、頂上の境内という処だから、団扇太鼓もだらりと下げて、音も立てず、千箇寺参りの五十男が、口で石段の数取りをしながら、顔色も青く喘ぎ喘ぎ上るのを――下山の間際に視たことがある。
思出す、あの……五十段ずつ七折ばかり、繋いで掛け、雲の桟に似た石段を――麓の旅籠屋で、かき玉の椀に、きざみ昆布のつくだ煮か、それはいい、あろう事か、朝酒を煽りつけた勢で、通しの夜汽車で、疲れたのを顧みず――時も八月、極暑に、矢声を掛けて駆昇った事がある。……
呼吸が切れ、目が眩むと、あたかも三つ目と想う段の継目の、わずかに身を容るるばかりの石の上へ仰ぎ倒れた。胸は上の段、およそ百ばかりに高く波を打ち、足は下の段、およそ百ばかりに震えて重い。いまにも胴中から裂けそうで、串戯どころか、その時は、合掌に胸を緊めて、真蒼になって、日盛の蚯蚓でのびた。叔父の鉄枴ヶ峰ではない。身延山の石段の真中で目を瞑ろうとしたのである。
上へも、下へも、身動きが出来ない。一滴の露、水がなかった。
酒さえのまねば、そうもなるまい。故郷も家も、くるくると玉に廻って、生命の数珠が切れそうだった。が、三十分ばかり、静としていて辛うじて起った。――もっともその折は同伴があって、力をつけ、介抱した。手を取って助けるのに、縋って這うばかりにして、辛うじて頂上へ辿ることが出来た。立処に、無熱池の水は、白き蓮華となって、水盤にふき溢れた。
――ああ、一口、水がほしい――
実際、信也氏は、身延山の石段で倒れたと同じ気がした、と云うのである。
何より心細いのは、つれがない。樹の影、草の影もない。噛みたいほどの雨気を帯びた辻の風も、そよとも通わぬ。
……その冷く快かった入口の、立看板の白く冴えて寂しいのも、再び見る、露に濡れた一叢の卯の花の水の栞をすると思うのも、いまは谷底のように遠く、深い。ここに、突当りに切組んで、二段ばかり目に映る階段を望んで次第に上層を思うと、峰のごとく遥に高い。
気が違わぬから、声を出して人は呼ばれず、たすけを、人を、水をあこがれ求むる、瞳ばかりったが、すぐ、それさえも茫となる。
その目に、ひらりと影が見えた。真向うに、矗立した壁面と、相接するその階段へ、上から、黒く落ちて、鳥影のように映った。が、羽音はしないで、すぐその影に薄りと色が染まって、婦の裾になり、白い蝙蝠ほどの足袋が出て、踏んだ草履の緒が青い。
翼に藍鼠の縞がある。大柄なこの怪しい鳥は、円髷が黒かった。
目鼻立ちのばらりとした、額のやや広く、鼻の隆いのが、……段の上からと、廊下からと、二ヶ処の電燈のせいか、その怪しい影を、やっぱり諸翼のごとく、両方の壁に映しながら、ふらりと来て、朦朧と映ったが、近づくと、こっちの息だか婦の肌の香だか、芬とにおって酒臭い。
「酔ってますね、ほほほ。」
蓮葉に笑った、婦の方から。――これが挨拶らしい。が、私が酔っています、か、お前さんは酔ってるね、だか分らない。
「やあ。」
と、渡りに船の譬喩も恥かしい。水に縁の切れた糸瓜が、物干の如露へ伸上るように身を起して、
「――御連中ですか、お師匠……」
と言った。
薄手のお太鼓だけれども、今時珍らしい黒繻子豆絞りの帯が弛んで、一枚小袖もずるりとした、はだかった胸もとを、きちりと紫の結目で、西行法師――いや、大宅光国という背負方をして、樫であろう、手馴れて研ぎのかかった白木の細い……所作、稽古の棒をついている。とりなりの乱れた容子が、長刀に使ったか、太刀か、刀か、舞台で立廻りをして、引込んで来たもののように見えた。
ところが、目皺を寄せ、頬を刻んで、妙に眩しそうな顔をして、
「おや、師匠とおいでなすったね、おとぼけでないよ。」
とのっけから、
「ちょいと旦那、この敷石の道の工合は、河岸じゃありませんね、五十間。しゃっぽの旦那は、金やろかいじゃあない……何だっけ……銭とるめんでしょう、その口から、お師匠さん、あれ、恥かしい。」
と片袖をわざと顔にあてて俯向いた、襟が白い、が白粉まだらで。……
「……風体を、ごらんなさいよ。ピイと吹けば瞽女さあね。」
と仰向けに目をぐっと瞑り、口をひょっとこにゆがませると、所作の棒を杖にして、コトコトと床を鳴らし、めくら反りに胸を反らした。
「按摩かみしも三百もん――ひけ過ぎだよ。あいあい。」
あっと呆気に取られていると、
「鉄棒の音に目をさまし、」
じゃらんとついて、ぱっちりと目を開いた。が、わが信也氏を熟と見ると、
「おや、先生じゃありませんか、まあ、先生。」
「…………」
「それ……と、たしか松村さん。」
心当りはまるでない。
「松村です、松村は確かだけれど、あやふやな男ですがね、弱りました、弱ったとも弱りましたよ。いや、何とも。」
上脊があるから、下にしゃがんだ男を、覗くように傾いて、
「どうなさいました、まあ。」
「何の事はありません。」
鉄枴ヶ峰では分るまい……
「身延山の石段で、行倒れになったようなんです。口も利けない始末ですがね、場所はどこです、どこにあります、あと何階あります、場所は、おさらいの会場は。」
「おさらい……おさらいなんかありませんわ。」
「ええ。」
ビルジングの三階から、ほうり出されたようである。
「しかし、師匠は。」
「あれさ、それだけはよして頂戴よ。ししょう……もようもない、ほほほ。こりゃ、これ、かみがたの口合や。」
と手の甲で唇をたたきながら、
「場末の……いまの、ルンならいいけど、足の生えた、ぱんぺんさ。先生、それも、お前さん、いささかどうでしょう、ぷんと来た処をふり売りの途中、下の辻で、木戸かしら、入口の看板を見ましてね、あれさ、お前さん、ご存じだ……」